岡田郷(読み)おかだごう

日本歴史地名大系 「岡田郷」の解説

岡田郷
おかだごう

現加茂町の木津きづ川南側および北側東部の銭司ぜずなどを郷域としたと思われる古代の郷。

「三代実録」貞観七年(八六五)九月二六日条に「勅木工寮、採銅於山城国相楽郡岡田郷旧鋳銭司」とあるが、「和名抄」には郷名はみえない。岡田の地名は造寺所公文(正倉院文書)の天平宝字六年(七六二)八月一〇日付文書に「岡田村」とあるほか、岡田駅(「続日本紀」和銅四年一月二日条)、岡田かも神・岡田くに(「三代実録」貞観元年一月二七日条)などとみえ、いずれも岡田郷内にあったと考えられる。

岡田郷
おかだごう

「和名抄」高山寺本・東急本とも「岡田」と記すが訓はない。天平勝宝二年(七五〇)二月二一日付村君安麻呂勘籍(正倉院丹裏古文書)に「岡田郷」とあり、「疑ふらくは岡田は文字の誤にて富田なるへしとおもはる」とする「続風土記」の説はあたらない。

郷域については諸説があり、同書は「今の富田荘岩田郷安宅荘の地ならん」とし、現西牟婁にしむろ上富田かみとんだ町・白浜しらはま町南部・日置川ひきがわ町に比定。「日本地理志料」は「続風土記」を踏襲し「今富田ノ荘、領十四村、地腴田多、富田川貫之、尤便漕運、与富田之名相称、蓋亘岩田安宅ノ二荘二十五村、其郷域也」と記す。

岡田郷
おかだごう

「和名抄」高山寺本・伊勢本は「岡田」と記す。流布本は「崗田」と記し「乎加多」と訓ずる。郷域は重信しげのぶ川の下流左岸の地で、旧伊予郡岡田村、つまり現松前まさき町の西古泉にしこいずみ恵久美えくび上高柳かみたかやなぎ大間だいま昌農内しようのうち西高柳にしたかやなぎ北川原きたがわらにあたる。

岡田郷
おかだごう

「長禄四年記」八月二四日条に岡田郷とみえ、幕府評定衆摂津之親が代官を勤める京都仁和寺領益頭ましず庄岡田郷住人松長が年貢を緩怠し続けているので、この男を庄内から追出すため家人の置塩尾張守が長禄四年(一四六〇)八月二三日に京都を出発したという。明応七年(一四九八)七月二八日、今川氏親は藁科中務丞に当郷などを宛行っているが(「今川氏親判物写」諸事控覚帳)、この文書は検討の余地がある。その後今川義元は甲斐の武田(穴山)信友に当郷を与えているが、その注記に「近年三条殿所務分」とあり、ある時期に当郷が内大臣正親町三条公兄の知行地となっていた(年未詳六月一九日「今川義元書状写」楓軒文書纂)

岡田郷
おかだごう

「和名抄」に「岡田」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、本郡柳沢村ニ神祠アリ、岡田明神ト云フ、三段田、柳沢両村ノ鎮守ナリ、主祀ノ者ノ説ニ云フ、モトコノ社ニ古キ祭文アリ、其文ニ岡田郷ニ坐ス、岡田明神云々トアリシト云フ」とあり、比定地は定かでないが、郷域は現那珂湊市柳沢やなぎさわ、勝田市三反田みたんだ金上かねあげ中根なかね高場たかば東石川ひがしいしかわ一帯とされる。

岡田郷
おかだごう

「和名抄」にみえるが訓を欠く。「下総旧事考」は「今本郷村アリ。是ナルベシ」として本郷ほんごう(現結城郡八千代町)付近に比定。

岡田郷
おかたごう

「和名抄」に「岡田」と記され、訓を欠く。弘安大田文に佐都東さととう郡のうち「東岡田十五丁 西岡田十丁」とある。

岡田郷
おかだごう

「和名抄」高山寺本は「乎賀多」、刊本は「乎加多」と訓ず。「山城志」は「岡田郷廃、今東福寺門前有岡田地、盖遺名也」とし、中古京師内外地図もこれに従い、また「日本地理志料」もこれに従っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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