山本郷(読み)やまもとごう

日本歴史地名大系 「山本郷」の解説

山本郷
やまもとごう

山本郡に成立した中世郷。建仁元年(一二〇一)一一月日の高良宮造営田数注文に高良こうら社の諸小社のうち高牟礼たかむれ社分として山本四町七段、左右御厨二宇分として山本用富六町、国庁・惣社分として山本西倉富七段、阿志岐あしき宮分のうち阿志岐本領分として山本二九町四段余、観世音寺(現太宰府市)分として山本西郷弥益二町が書上げられている。正和二年(一三一三)九月一五日の湛照避文(宗崎文書/鎌倉遺文三二)に筑後国山本郷とみえ、神領興行法に関連して湛照が郷内の田畠を高良山に避渡している。正慶二年(一三三三)二月二五日、鎮西探題北条英時は乱妨されている「山本郷」の畠地を高良社社家に沙汰付けるよう草野次郎太郎入道らに命じている(「鎮西御教書」隈文書/鎌倉遺文四一)。建武元年(一三三四)九月二日、質券地であった「山本郷内山渋田畠屋敷等」の知行が草野孫次郎入道円真に認められた(「筑後国庁宣」草野文書/南北朝遺文(九州編)一)

山本郷
やまもとごう

和名抄」所載の郷。同書東急本は「也万毛止」と訓じる。「行基年譜」所引の天平十三年記には行基が造営したとする陽上こやかみ池・同下池・院前池・中布施尾池・長江池の五池と陽上溝・下溝が川辺郡山本里に所在する旨記される。現伊丹市昆陽池こやいけ三丁目の昆陽池陽上池の遺称地とされ、下池は慶長一三年(一六〇八)昆陽村池尻いけじり(現伊丹市)の申請により埋立てられたが、かつて上池の西に接していた(伊丹市史)

山本郷
やまもとごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。

「続日本紀」和銅四年(七一一)正月二日条に「始置都亭駅、山城国相楽郡岡田駅、綴喜郡山本駅」とあり、当地は山陰道の要地として、平城京から最初の駅が置かれている。山本は普賢寺ふげんじ谷を経て河内へ出る道の分岐点でもあった。天平一三年(七四一)六月二六日付および天平勝宝元年(七四九)一一月三日付東大寺奴婢帳(東南院文書)に「綴喜郡山本里」が記され、「戸主錦部田禰」の名がみえる。また「三代実録」貞観一二年(八七〇)七月二九日条には「綴憙郡山本郷山頽裂陥、長廿二丈、広五丈一尺、深八尺、底広四丈八尺、相去七丈、小山堆起、草木無変動、時人疑陥地入地中、更堆起成山歟」とみえる。

山本郷
やまもとごう

「和名抄」刊本・高山寺本ともに「山本」と記すが、刊本では平鹿ひらか郡に属すとする。「大日本地名辞書」では、山本郷を山本郡の錯誤とした。しかし平鹿郡から開拓が進み、まず山本村が開かれ、のち郡家が設けられることは、雄勝おかち村・平鹿村の例から肯定できる。「日本地理志料」に山本郷は「即山本郡家所在、真澄遊覧記、山本方廃、今金沢荘飯詰支邑山本村、是其遺名」とし、菅江真澄の遊覧記に飯詰いいづめの支邑として山本村の遺名の存することから、現横手市内、旧仙北郡に属した金沢かねざわ金沢本町かねざわもとまち金沢中野かねざわなかの金沢寺田かねざわてらだ安本やすもとおよび現仙北郡仙南村地内飯詰・金沢西根かねざわにしねなどにあたるとしている。

山本郷
やまもとごう

「和名抄」所載の郷。比定地については諸説あり、一致していない。「濃飛両国通史」は現関ヶ原町の今須いますより山中やまなかに至る所とし、山中はその遺称に近いと考えている。「日本地理志料」も郷名は伊吹山の山麓にちなむとし、山中より藤下とうげ・今須にわたる地域としている。また「大日本地名辞書」は地形から関ヶ原村およびたま村にあてている。

山本郷
やまもとごう

「和名抄」東急本国郡部では郡名に「夜末毛止」と訓を付す。山本郡の郡家の所在地と考えられる。同郡の郡名庄山本庄の中心もこの地であったろう。

山本郷
やまもとごう

「和名抄」の諸本に訓を欠く。のち山城石清水いわしみず八幡宮観音堂領の山本庄が成立する。遺称地は不明であるが、「全讃史」はつじ村以下の現三豊みとよ郡山本町南部から観音寺かんおんじ市北東部の諸村をあげる。

山本郷
やまもとごう

「和名抄」東急本には「也万毛止」と訓を付す。天平勝宝三年(七五一)四月一一日、山本郷戸主伊与部連人成の戸口で二四歳の伊与部連虫麻呂の出家得度が申請されている(「知識優婆塞等貢進文」正倉院文書)

山本郷
やまもとごう

「和名抄」には記載がない。天平五年(七三三)の山背国愛宕郡計帳(正倉院文書)に「近江国夜珠郡山本郷」とあり、古代郷であったことは確実で、その後の行政区画の改変によって消滅したものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報