山上村(読み)やまがみむら

日本歴史地名大系 「山上村」の解説

山上村
やまがみむら

[現在地名]大津市山上町・御陵町ごりようちようちやさき皇子おうじおか一―三丁目・桜野町さくらのちよう一―二丁目・松山町まつやまちようやなさき千石台せんごくだい比叡平ひえいだいら一―二丁目

園城おんじよう寺の北にあり、東は琵琶湖に面し、西は山城国境。湖岸の柳が崎は古くは八柳やつやなぎ浜・七本柳ともいい、「輿地志略」によれば尾花川おばながわより見世みせ村などにわたる湖辺の名という。応仁元年(一四六七)京都の乱を避けた横川景三らは坂本より「柳浜」まで船で赴いている(京花集)

文禄五年(一五九六)一〇月一六日の検地帳写(山上町共有文書)によれば、五〇町四反余・八二二石余で、上田四二町四反余・七二二石余、中田一町五反余・二二石余、下田一反余・二石余、上畠四町五反余・五二石余、中畠・下畠合せ二反余・二石余、屋敷一町六反余・二〇石余、上田の割合の高さや斗代の高さは農業生産力の高さのみならず、商業的要素の反映だという。

山上村
やまかみむら

[現在地名]永源寺町山上

愛知えち川がつくった扇状地頂部にあり、同川河岸段丘沿いに集落がある。東は愛知郡高野たかの村。八風はつぷう街道が東西に通る。中世にはかき御園のうち。天文一八年(一五四九)一二月四日の神人足子入目日記(今堀日吉神社文書)によれば、当地に保内商人に属する足子三名がおり、一〇〇文を今堀いまぼり惣庄へ納めている。戦国期のものと推定される馬足子交名(同文書)にも山上のけん二郎らの名がみえている。永禄一二年(一五六九)一一月六日織田信長から津田一安に与えられた中務大輔分之内の山上一千石は当地一帯をさすか(「織田信長朱印状写」土佐国蠧簡集残篇)。天正元年(一五七三)一二月二四日二七名の当地住民は荒野年貢の納入について所納時の名主・長の立会いや隠田の調査など五ヵ条の取決めを行った(「荒野年貢定文」図師文書)

山上村
やまかみむら

[現在地名]米沢市三沢みさわ関根せきね赤崩あかくずれ万世町片子ばんせいちようかたこ

福田ふくだ村の南東に位置し、羽黒はぐろ川とまつ川上流の山間地と両川が形成した扇状地扇頂部平地に立地。慶長六年(一六〇一)上杉氏が米沢に入部後、当地のうち城下近接地に下級家臣の在郷集落山上通やまかみとおり町・山上裏やまかみうら町などが形成された。

天文七年(一五三八)の段銭古帳に上長井庄のうち「山かミ」とみえ、東・西に二分されており、東方が二六貫七五文、西方が二四貫九五〇文(うち二貫九五〇文は「上いたの」より)を納入。天文の乱中の天文一三年一〇月二六日、伊達稙宗は小簗川日双(宗朝)に「山上郷西方」などのうちの闕所分ほかを与えている(伊達正統世次考)。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、小簗川尾張守が山上郷東方の富沢和泉守分・ひの口太郎衛門分・といた衛門親子跡および宮沢七郎兵衛から山辺治部丞が買った在家一軒と、山上の総成敗権を与えられたほか、冨沢主計之助が山上郷のうちに屋敷手作、鹿股筑前分を除く「はらのさいけ」、「なかしま」のうち小簗川尾張守・鹿股筑前両人分を除く地、佐藤備中が山上のうち屋敷、切田一千一〇〇刈、前田河右馬允が「ミなみはら在け」の在家一軒(棟役・田銭免除)をそれぞれ安堵もしくは与えられている。

山上村
やまかみむら

[現在地名]相馬市山上

阿武隈高地天明てんみよう(四八八メートル)南麓、東流する宇多うだ川の上流域に位置し、東は今田いまだ村・粟津あわづ村。天保郷帳に「古者 山上村・笹町村・古内新田・須萱新田・山岸新田五ケ村」と注記されるが、慶長三年(一五九八)玉野たまの村、承応四年(一六五五)笹町ささまち村を分村したとされ(宇多郡村誌)、両村は当村の枝郷として扱われている。なお、両村は延宝六年(一六七八)に分村したともいわれる(相馬藩政史)。嘉永四年(一八五一)には入山上いりやまかみ村を分村。今田村から宇多川を渡河して当村字広瀬ひろせに入った中村街道は同川沿いを遡上し、村央の字須萱すがやから字遠藤えんどうを経て入山上村に至る。字遠藤にある天台寺門宗万蔵まんぞう院の白山権現御正体(県指定重要文化財)の銘は万治二年(一六五九)の修理の際の採録で、「嘉応二年丁卯(中略)奥州宇田郷山上村白山大権現 別当満蔵院秀定」とみえるが、年紀は嘉暦二年(一三二七)の誤記とされる。

山上村
やまのうえむら

[現在地名]金沢市山の上町・神宮寺じんぐうじ一丁目・春日町かすがまち小金町こがねまち森山もりやま二丁目・元町もとまち一丁目・東山ひがしやま二丁目

卯辰うたつ村の北西に位置。時衆過去帳(清浄光寺蔵)に遊行一六代南要(在位一四二九―四〇)に結婚した覚阿の名がみえ、その裏に「長崎梅香广、今ハ加州山上」と記される。また二一代知蓮に結縁した時衆のなかに覚阿の名がみられ、その裏にも「賀州山上」と記されている。

正保郷帳によれば高一九七石余、田方九町一反余・畑方四町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二二四石、免六ツ六歩、小物成は山役一三六匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)

山上村
やまかみむら

[現在地名]新里村山上

武井たけい村・小林こばやし村の北方に位置し、東方つる村との境を鏑木かぶらき川が流れる。北は大久保おおくぼ村。中世の山上保の遺称地であり、戦国期には山上城があった。

「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方七七三石余・畑方五七二石余。時期は不明だが、のち山上村は大久保村・鶴ヶ谷村および山上を冠した内町うちまち新町しんまち太郎左衛門たろうざえもん分村・後閑ごか村の六村に分立。

山上村
やまかみむら

[現在地名]古殿町山上

論田ろんでん村の南、竹貫たかぬき村の北東、阿武隈高地の七〇〇―八〇〇メートルのしば山・大黒だいこく山・犬仏いぬぼとけ山などに囲まれた上山上と、その南西麓の下山上からなる。地内をさめ川支流大平おおひら川が南流。下山上の字古殿に古殿八幡神社、字五輪平ごりんだいら広覚こうかく寺があり、中世以来当地一帯の中心地であったとみられる。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に村名がみえ高七一七石余。江戸初期から村内では上・下二地区に分れていたようで、慶長八年(一六〇三)の常世之内北野村縄打帳(福島県史)には上山上村・下山上村がみえる。正保郷帳には山上村とあり高九八九石余、うち田三三四石余・畑六五五石余。元禄郷帳では高一千二〇一石余、枝郷の下山上村の高九〇石余、能登沢のとさわ村の高四〇石余、大平村の高八〇石、馬場平ばばだいら村の高一二石余、竹貫田たけぬきだ村の高一八〇石、うすさく村の高一三石余、古殿村の高一六石余。

山上村
やまのうえむら

[現在地名]吉川町山上

下渡瀬しもわたせ村の西に位置し、美嚢みの川と北谷きただに川の合流点に立地する。山之上村などとも書く(正保郷帳)。慶長国絵図に山ノ上村とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(正保郷帳・「寛文朱印留」など)。延宝七年(一六七九)幕府領となったと推定され、正徳二年(一七一二)下野壬生藩領となり、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、享保二年「徳川吉宗領知朱印状」大島家文書、旧高旧領取調帳)。正保郷帳では田方一三一石余・畑方一七石余。村高は幕末まで変わらない。おく池などをめぐり周辺諸村とたびたび水論となっている。新宮しんぐう神社がある。江戸時代は当村をはじめ一〇ヵ村の氏神であった。

山上村
やまがみむら

[現在地名]河原町山上

宇戸うど川の上流部に位置し、東は水根みずね村、南東は小倉おぐら村。正保国絵図・正保郷帳には山野上村と記されるが、元禄国絵図作成時に山上村と改称(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。山ノ上とも記され(因幡志)、享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「ヤマノウエ」と訓ずる。拝領高二〇九石余、本免六ツ七分。津田氏・楢村氏・山本氏の給地があった(給人所付帳)

山上村
やまがみむら

[現在地名]水口町山上

杣中そまなか村の南方、庚申こうしん(四〇七・二メートル)の北麓に位置。信楽道が通じ、信楽谷の谷口集落。慶長五年(一六〇〇)幕府領と旗本武島・柘植・織田・青木領に五分された。天和二年(一六八二)幕府領が水口藩領となり幕末に至る。寛永石高帳では高四一二石余、慶安二年書上では田一九五石余・畑屋敷二四石余・永荒一九二石余。

天台宗広徳こうとく寺、中出なかでに浄土宗地蔵院、天徳てんとくに若宮神社がある。庚申山山頂にある広徳寺は瑞応山龍華院と号し、山上庚申と通称される。延暦二年(七八三)最澄の開基といい、本尊は青面金剛童子。江戸時代より真鍮元祖と称し、金物商の信仰を集めた。寺伝によれば文禄二年(一五九三)山上村の藤右衛門が断食参籠の折真鍮の製法を感得し、慶長四年京都において製造に成功、巨富を得て本堂などを新築、青面金剛童子を本邦真鍮祖神として崇敬したという。

山上村
やまがみむら

[現在地名]上石津町下山しもやま

牧田まきだ川上流にあり、西はしも村、南は打上うちあがり村。山神村とも書く。慶長一二年(一六〇七)の時六ヵ村惣高覚(伊藤文書)によると高一一一石余で、旗本西高木領。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状(市田文書)では当村八一石余が高木貞勝(西高木家)に与えられている。元禄郷帳および元禄一二年(一六九九)の高木三家知行高帳(福長文書)でも同石高で同家領。

山上村
やまのうえむら

[現在地名]郡家町山上

上峰寺かみみねでら村の東方に位置する。山野上とも記した。元和四年(一六一八)一一月の池田幸隆(光政)宛行状(佐分利家文書)に村名がみえ、山上村五二四石余が佐分利四郎左衛門に宛行われている。拝領高は三三八石余。本免四ツ七分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高三九一石余、竈数二〇。「因幡志」では家数三三、産土神は牛頭天王。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三八五石余、竈数三〇。

山上村
やまがみむら

[現在地名]奈良市山陵みささぎ

西畑にしばた村西北方に所在。寛永一六年(一六三九)から延宝五年(一六七七)までの間に超昇寺ちようしようじ村から分れ(巳年請申永谷開之事。→山陵村、郡山藩領。享和郷帳では「山神村」とみえ、三五三・四三石が郡山藩領、八・一八七石が旗本森金弥領。

山上村
やまがみむら

[現在地名]美浜町山上

大田おおた村の西に立地。北西は織田おた湾に面する。永禄六年(一五六三)朝倉勢の若狭攻めのとき国吉くによし城に籠城した地侍のなかに、山上村の山東上野がいた(佐柿国吉城籠城記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報