富士信仰(読み)ふじしんこう

改訂新版 世界大百科事典 「富士信仰」の意味・わかりやすい解説

富士信仰 (ふじしんこう)

富士山を対象とする信仰。日本の山岳信仰の代表的なものである。その秀麗な山容は古代より自然崇拝の対象となっていた。平安時代初期の都良香《富士山記》には,活火山であった富士の噴煙がたなびくありさまを,白衣の美女2人が山峰で舞うと表現しており,山神が女神であることを示している。後世になり,富士の山神は神話上の木花開耶姫(このはなのさくやびめ)に想定されたが,別に浅間大神とも称されている。浅間大神は神仏習合の過程で浅間大菩薩の名称になったが,そのイメージはやはり女神であった。《富士浅間縁起》などでは,古老の伝として,《竹取物語》のかぐや姫が富士山中洞窟に入定した話をのせている。かぐや姫伝説は富士信仰の女神と同一視されて,人口に膾炙かいしや)していたのである。

 一方,富士の人穴(ひとあな)も聖地視されており,俗人の近づけぬ場所であった。《吾妻鏡》に仁田四郎忠常の一行が人穴に入り,ふしぎな体験をしたあげく,たたりにあったことが記されている。〈浅間大菩薩御在所〉とみなされ,洞窟の主は白髪の妖婆だともいう。この伝説も《富士の人穴》草子となって世間に流布した。

 江戸時代には,修験道の色彩を弱め,民間信仰の富士講が中心となり,富士講の一派が不二道(ふじどう)となって,倫理観の高い教理をうち出した。明治時代になって,富士講は教派神道十三派の神道扶桑(ふそう)教,実行教,さらに丸山教の三つの教団に分かれたが,現在もなお富士登拝の習俗はつづけられている。

富士登山の伝説では,役行者(えんのぎようじや)を最初とすることから,富士山に対する修験道の影響が深いことはたしかである。中世には富士道者による富士登拝が盛んであり,その姿は首に宝冠をかけ,結袈裟(ゆいげさ)をつけ,白装束に鈴,数珠金剛杖を携えたという。中世の道者たちは,山麓に至って,浅間神社の御師(おし)の経営する宿坊に宿泊する。大宮,村山,須山,須走,吉田,河口に道者の宿坊が設けられており,登拝にあたっては,御師たちの世話を受けた。この登山風俗は,江戸時代にも引き継がれていて,富士講もまた宿坊とつながりをもっていた。登山者の信仰活動の目的は,山上で日の出を拝することで,これを御来迎または御来光と称した。さらに山中に胎内穴があり,聖地視され,この洞穴に入り出てくること(胎内くぐり)は,富士詣により再生することを潜在的に意味したらしい。富士講では,富士にもうでることは,ちょうど極楽に行って戻ってくることと同じだと説明して信者を集めたのである。

 東京の駒込富士や浅草富士など各地の富士神社や浅間神社の境内には,富士山をかたどった模造富士や富士塚がつくられ,6月1日の山開きの日に白い行者姿の富士講中の者が富士禅定にならって登る風習もあり,一般の参詣者もこれを行った。駒込の富士神社では,麦藁蛇がこの富士詣の際の名物となっており,これを受けて帰ると疫病にかからぬという俗信もある。また,各地には富士山に見立てられた小さな山に,6月1日とか6月15日に〈富士参り〉とか〈初山参り〉などといって初誕生や7歳など一定年齢の子どもが通過儀礼の一つとして登拝する習俗もみられる。なお,富士見町,富士見坂,富士見橋などの地名の由来も,かつての富士遥拝に関連したものであろう。
浅間信仰 →富士講
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世界大百科事典(旧版)内の富士信仰の言及

【丸山教】より

…富士信仰をふまえ伊藤六郎兵衛(1829‐94)が明治初期に創唱した世直し的性格をもつ宗教。伊藤は武蔵国橘樹(たちばな)郡登戸に生まれ,3度の大病が富士講の祈禱と信仰で全快したため富士信仰に熱中。…

※「富士信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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