宝町(読み)たからまち

日本歴史地名大系 「宝町」の解説

宝町
たからまち

[現在地名]小倉北区京町きようまち一丁目・船場町せんばまち

小倉城の東、東曲輪の北西部にある。町並常盤ときわ橋前の東勢溜ひがしせいだまりから南に延び、むらさき川河口右岸に沿って連なる。細川忠興の入国前まではこの付近までが高浜たかはまといわれ、漁民家が並んでいた。細川氏の小倉城築城に伴い漁民は郭外の長浜ながはまに移され、宝町二丁目東側の紅屋清兵衛宅地裏にあった規矩きく八幡宮蒲生かもう(現小倉南区)に、隣接の貴布禰きふね神社は長浜に移転した。布屋の祖仲津なかつ今井いまい(現行橋市)の岡宗兵衛が細川忠興の小倉城下建設に伴い小倉湊口の船年寄に任じられ、当町二丁目に屋敷地を割かれたという。

宝町
たからちよう

[現在地名]函館市豊川町とよかわちよう宝来町ほうらいちよう東川町ひがしかわちよう

願乗寺がんじようじ川を挟んで蔵前くらまえ町の南東に位置し、西は蓬莱ほうらい町など。明治七年(一八七四)それまで当地にあった米蔵豊川町に移転、翌八年四月一四日、その跡地を宝町と新称することが承認された(開拓使日誌)。当地一帯は古くは低湿地帯であったが、前期幕府領期に高田屋嘉兵衛が溜り水を引落とす掘割を築島(古築島)に向かって開削、新たに地所となった。文政(一八一八―三〇)頃の箱館市中細絵図ではのちの当町から蓬莱町・亀若かめわか町にかかる一帯は「高田屋金兵衛拝借地」とある。

宝町
たからまち

[現在地名]熊本市迎町一丁目

細川氏入国後、侍屋敷不足のため、「上の通町・下の通町の町」を引払い、長六ちようろく橋の外の白川左岸、本庄ほんじよう村内に移った町人町で、むかえ町・向(迎)宝町ともいわれた(制度考)。町並は長六橋から日向・薩摩街道沿いに南東に延び、東側には新大工しんだいく町、北東には紺屋今こうやいま町がある。

宝町
たからまち

[現在地名]釧路市宝町

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと鳥取とつとり町・寿ことぶき町の各一部、釧路村の一部(ベトマイ)。昭和七年の世帯数二二・人口一一九(釧路郷土史考)釧路港の関連施設が置かれ、昭和六年に東防波堤、同一二年西防波堤・北防波堤が完成、同三五年市設魚揚場開場。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報