長浜(読み)ながはま

精選版 日本国語大辞典 「長浜」の意味・読み・例文・類語

なが‐はま【長浜】

[1] 長く続いている浜辺。
※万葉(8C後)八・一六一五「大の浦のその長浜(ながはま)に寄する波豊けく君を思ふこの頃」
[2]
[一] 滋賀県北東部の地名。琵琶湖に面する。古くは今浜と称し、室町末期に京極氏の臣上坂氏の居館が置かれた。のち浅井氏の領地をへて羽柴(豊臣)秀吉が築城、現在名に改めた。その後は城下町・港町として発展。江戸時代は彦根藩領。縮緬・ビロード・蚊屋を特産。昭和一八年(一九四三)市制。
[二] 明治四年(一八七一)の廃藩置県の折、近江国(滋賀県)に置かれた県。彦根・宮川・朝日山などの諸県を廃して設置した。翌年犬上県に改称後、滋賀県に合併。
[三] 歌枕。所在不詳。一説に、志摩国英虞(あご)郡二色郷長浦(三重県北牟婁郡紀伊長島町)とも。
※古今(905‐914)大歌所御歌・一〇八五「君がよはかぎりもあらじながはまのまさごのかずはよみつくすとも〈よみ人しらず〉」

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デジタル大辞泉 「長浜」の意味・読み・例文・類語

ながはま【長浜】[滋賀県の市]

滋賀県の北端、琵琶湖岸にある市。もと今浜といったが、羽柴秀吉が城下町をつくり、長浜と改めた。ビロード・縮緬ちりめんの産地。平成18年(2006)浅井あざい町・びわ町と合併。平成22年(2010)に周辺6町を編入。人口12.4万(2010)。

ながはま【長浜】[ロシアの旧地名]

ロシア連邦の村オジョルスキーの、日本領時代の名称。

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改訂新版 世界大百科事典 「長浜」の意味・わかりやすい解説

長浜[市] (ながはま)

滋賀県北端部の市。2006年2月旧長浜市と浅井(あざい)町,びわ町が合体して成立し,10年1月木之本(きのもと),湖北(こほく),高月(たかつき),虎姫(とらひめ),西浅井(にしあざい),余呉(よご)の6町を編入した。人口12万4131(2010)。

長浜市東部の旧町。旧東浅井郡所属。人口1万2937(2005)。北部の伊吹山地の金糞岳を源とする草野川が中央部を南流し,その谷底平野扇状地は水田となっているが,町域の多くは山林である。町名は郡名および戦国時代に浅井氏の領地であったことにちなむ。稲作中心の農業が盛んであるが,近年は兼業化が著しい。南西部にある今荘ぶどう園では観光農業が行われている。特産にもぐさがある。国道365号線沿いには製紙,繊維などの工場が進出し,工業生産も増えている。

長浜市中東部の旧町。旧伊香(いか)郡所属。人口8519(2005)。北東部は標高500~1000mの山地で,町域の8割以上が山林となっている。市街地と耕地の大部分は琵琶湖に面する西部の低地にある。中心の木之本は古くから浄信寺(木之本地蔵)の門前町として発展し,近世は北国街道北国脇往還の分岐点の宿場町として栄えた。現在もJR北陸本線,国道8号,303号,365号線が縦貫し,北陸自動車道の木之本インターチェンジが設置されるなど湖北地方の中心地である。西部の低地には,農業機械の製造工場や各種の中小企業が設立され,人口も増加傾向にあるが,山地では過疎化が著しい。大音(おおと)では座繰製糸が行われるが,その製品は琴,三味線などの弦として使われ,特産品となっている。大音の北には古戦場として知られる賤ヶ岳(しずがたけ)があり,リフトが通じている。また高時川流域には縄文時代の遺跡や古墳が多く,上流には硫化銅鉱などを産する土倉鉱山があった。

長浜市南部の旧町。旧東浅井郡所属。人口8926(2005)。中央部を南流する高時川の流域に平地が広がる。東部は伊吹山地の山々で,西は琵琶湖に面する。北国街道(国道8号線)に沿う中心集落の速水は明治初期に郡役所が設置されるなど郡の中心であった。主産業は稲作を中心とする農業で,漁業も行われる。工業はかつてビロード生産が主であったが,化学繊維の伸張により衰退傾向にある。農業機械や金属関係の工場も進出している。東部の小谷山に浅井氏の居城,小谷(おだに)城跡(史)があり,若宮山古墳,古保利古墳など古墳も多い。JR北陸本線が通る。

長浜市中部の旧町。琵琶湖東岸に位置する。旧伊香郡所属。人口1万0242(2005)。東部と西部はなだらかな山地で,中央部は南流する高時川,余呉川の沖積低地からなり,北陸本線,国道8号線が縦貫する。米作を中心とした農業が盛んで,スイカなども栽培される。1960年代前半に機械,ガラス製品の工場が誘致され,製造業従事者も多い。国宝の木造十一面観音立像を有する向源寺がある。

長浜市南部の旧町。旧東浅井郡所属。人口5582(2005)。北部に虎姫(虎御前)山があるが,町域の大部分は姉川,高時川,田川沿いの沖積低地からなる。米作を中心とする農業が盛んであるが,1968年の工場誘致以降,中小工場が多数進出し,製造業が町の主産業となっている。特に一般機械や電気機械が中心である。虎姫山は1573年(天正1)の織田信長の浅井攻めの際,柴田勝家,羽柴秀吉が陣を構えた地として知られる。JR北陸本線が通じる。
執筆者:

長浜市南端部,琵琶湖の北東岸に位置する旧市。1943年市制。人口6万2225(2005)。中世は八幡荘今浜と呼ばれ,佐々木京極氏の部将今浜氏居館の地であった。1573年(天正1年)戦国大名浅井氏滅亡後,その旧領坂田,浅井,伊香3郡の大部分を領有した羽柴(豊臣)秀吉は,坂田郡今浜に築城して長浜と改名,旧小谷城下から一部の寺社や町を移し,南北に碁盤目割りの城下町を形成した。82年本能寺の変後,湖北は柴田勝家領となり,長浜城には甥の柴田勝豊が在城したが,翌83年の賤ヶ岳の戦後,再度秀吉の手に帰した。85年秀吉の部将山内一豊が封じられたが,90年遠江国掛川移封後は西尾豊後守,米津(よねきづ)清右衛門が長浜城に在城した。関ヶ原の戦後の1606年(慶長11)内藤信成が修築して入城,その子信正の転封した15年(元和1),井伊直孝領となり,長浜城は廃城,彦根城築城のため建物や石垣が利用された。長浜町は彦根奉行の支配下に置かれたが,町の機構はそのまま残され,95年(元禄8)には戸数1084戸,人口4723人を数え,町数は享保年間(1716-36)52ヵ町あった。町は北国街道の宿駅であり,また長浜湊は松原(彦根),米原とともに彦根三湊の一つとして湖上交通や漁業の要港であった。後背地の湖北農村は,早くから養蚕・製糸が副業として行われたが,近世中期には長浜町を中心として浜縮緬,浜蚊帳の特産地およびその市場を形成して発達した。

 JR北陸本線,国道8号線,北陸自動車道が通じるが,東海道本線の米原~大津間が未開通であった1883年から89年までは,長浜~大津間は琵琶湖をいく日本最初の鉄道連絡船に頼っていた。1882年に建てられた洋風2階建て,赤煉瓦造の駅舎は,現存する日本最古の国鉄(現JR)駅舎として鉄道記念物に指定され,長浜駅構内に保存されている。伝統の繊維工業は現在も盛んで,さらに電気機器,機械,プラスチックなどの工業も立地し,県下有数の工業都市となっている。秀吉在城時代に始まる八幡神社の長浜曳山(ひきやま)祭(4月13~16日)は,壮麗な曳山(山車)の上で少年の歌舞伎が演じられるもので,国の重要無形民俗文化財に指定されている。また旧長浜城内にあった大通寺は,1606年現在地に移築されたが,近江・美濃両国に320ヵ寺の末寺をもつ東本願寺の別院である。豊(ほう)公園内にかつての長浜城を模した長浜城歴史博物館がある。市街北部の国友は戦国時代末以来鉄砲鍛冶の集落として知られ,名工国友一貫斎の邸跡が残る。
執筆者:

長浜市西端の旧町。旧伊香郡所属。1971年町制。人口4622(2005)。琵琶湖北岸に位置し,北は福井県敦賀(つるが)市と接する。東部を塩津大川が,西部を大浦川が南流し,河口の塩津,大浦は古くからともに敦賀と上方を結ぶ琵琶湖水運の要港としてにぎわった。1882年の北陸本線開通後は衰えたが,1971年奥琵琶湖パークウェーが開通(89年無料開放),74年には近江塩津駅からJR湖西線が分岐するようになり,国道8号線の整備とあいまって再び交通の要所となり,観光開発も進んでいる。米作中心の農業,琵琶湖での水産業を主とするが,工場誘致にも力が入れられ,弱電気部品,繊維加工関係の工場が進出している。町の南端にある菅浦は多数の中世文書が伝わることで知られる。

長浜市南部の旧町。旧東浅井郡所属。1971年町制。人口7514(2005)。町域に湖中の景勝地竹生(ちくぶ)島が含まれる。姉川の下流域にあたり,全域が低平で,広大な水田が広がる。農業は米作が中心であるが,南部の南浜ではブドウなどの果樹団地が形成されている。漁業は琵琶湖の漁場の悪化で衰退が著しいが,人工河川でのアユの養殖などに力を注いでいる。伝統的な工業としてビロードの生産がある。

長浜市北部の旧町。滋賀県北端,旧伊香郡所属。人口3931(2005)。周囲を山に囲まれ,東部を高時川(丹生(にゆう)川)の,西部を余呉川の河谷がそれぞれ北から南に延び,そこに集落が点在する。南端に余呉湖があり,湖の周辺に耕地が広がる。JR北陸本線も町の南端を通る。冬の積雪が2m以上にもなり,1979年には特別豪雪地帯に指定された。主産業は農業と林業であるが,若年層の流出が多く,林業をやめて集落ぐるみで町の中心部へ移住した集落もある。余呉湖の南にある賤ヶ岳一帯は,豊臣秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦の舞台として知られる。余呉川沿いに北国(北陸)街道(現,国道365号線)が通じ,中河内(なかのかわち)にはその宿駅跡が,柳ヶ瀬には関所跡が残っている。
執筆者:

長浜(愛媛) (ながはま)

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日本歴史地名大系 「長浜」の解説


ながとろはま

[現在地名]亘理町長瀞

長瀞村本村の東部にある長瀞村端郷で、亘理四ヵ浜の一。北にとりうみを挟んで高屋こうや村端郷鳥屋崎浜とやざきはまに対し、南は吉田よしだ村端郷吉田浜、西北小堤こづつみ村境に当浜分の亘理伊達氏の足軽町柴町しばまちがある。「長瀞浜安永風土記」では田一〇貫三三七文・畑四貫四八三文。蔵入地は新田分のみ三貫三〇一文。残りは亘理伊達氏の知行地で、うち新田が七貫九八〇文である。人頭三七人のうち寛永一九年(一六四二)の竿答百姓二八人。百姓家数六四(うち名子一八・水呑九)、男一八八・女一三一、馬三九。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長浜」の意味・わかりやすい解説

長浜
ながはま

愛媛県西部,大洲市北西部の旧町域。肱川が北流し伊予灘に注ぐ。 1889年町制。 1955年白滝村,大和村,出海村,櫛生村,喜多灘村の5村と合体。 2005年大洲市,肱川町,河辺村と合体し大洲市となる。海岸まで中央構造線断層崖が迫って平地が少ない。中心集落の長浜は,江戸時代には大洲藩の船奉行所が置かれ,肱川流域で産する木材の積出港として繁栄。 1940年予讃線の開通により港の機能は一時衰微したが,現在は 1000t級船舶が着岸できる港として木材,鉱石,砂利の積出港となっている。河口左岸は海水浴場,右岸の埋立地には化学工場が立地している。ミカンの栽培が盛ん。国の重要文化財の銅鐘がある出石寺,瑞龍寺などの古刹がある。一部は瀬戸内海国立公園に属する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長浜」の解説

長浜
ながはま

滋賀県北東部,琵琶湖東岸にある都市
古くより港町として栄えたが,1573年織田信長は浅井氏を滅ぼし,豊臣秀吉に与えた。'74年秀吉が今浜を長浜と改称,城下町とした。1943年市制施行。

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世界大百科事典(旧版)内の長浜の言及

【浜田[市]】より

…明治維新後,殿町など浜田川北岸の侍屋敷は官公庁街,住宅街に,南岸の町屋は商店街となった。日本海沿岸はリアス海岸で冬の季節風を防ぐのによく,帆船時代,とくに長浜港(現在は浜田港に含まれ,商港となっている)は朝鮮交易で栄えた。浜田港は明治半ばに外国貿易港に指定され,神戸税関支署も置かれた。…

【滋賀[県]】より

…一方,70年に三上藩遠藤氏が和泉国へ移ったが(吉見藩),新たに羽前国山形藩水野氏が移封されて朝日山藩として立藩した。71年廃藩置県を経て大津,膳所,水口,西大路諸県が大津県に,彦根,山上,宮川,朝日山諸県が長浜県に統合され,近江はほぼ南北に二分された。翌年大津県は滋賀県,長浜県は犬上県と改称,さらに滋賀県が犬上県を併合して現県域が成立した。…

※「長浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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