宍道町(読み)しんじちよう

日本歴史地名大系 「宍道町」の解説

宍道町
しんじちよう

面積:四五・〇八平方キロ(境界未定)

八束郡の最西部に位置し、東は玉湯たまゆ町、南は大原郡大東だいとう町・加茂かも町、西は簸川ひかわ斐川ひかわ町、北は宍道湖に面する。南部は標高四〇〇メートルほどの山地で、来待きまち川・同道どうどう川・佐々布さそう川・伊志見いじみ川などが北流、それぞれ流域に平地を形成する。宍道湖沿いに国道九号(旧山陰道)が通り、宍道で国道五四号(旧出雲備後道)が分岐する。当町北方平坦部を中心に古墳時代の横穴墓横穴式石室が約三〇ヵ所確認されている。「出雲国風土記」の意宇おう郡に宍道ししじ・宍道郷がみえる。同書にはほかに来待橋・来待川・宍道川・木垣きがき峯・幡屋はたや山などが記載され、宍道川は現在の佐々布川に、木垣峯は大東町境(旧意宇・大原の郡境)八十はちじゆう(遠所越)に、幡屋山は丸倉まぐら山に比定される。また宍道駅の比定地とされる佐々布下付近には荻田住宅団地おぎだじゆうたくだんち遺跡があり、奈良時代後期の竪穴住居跡五棟が発見されている。

宍道町
しんじまち

[現在地名]宍道町宍道

宍道村内にあった町場。東西に通る山陰道沿いに町並が形成され、町の西端から南へ出雲備後道が分岐する。街道の結節点という立地条件から宿駅として栄え、宍道湖を利用した舟運の要衝でもあった。元禄一二年(一六九九)三月の完道町地銭御検地帳写によると上畑一町六反余、地銭屋敷七一軒・地銭御免屋敷四軒、地銭面判銀一一七匁六分二厘、ほかに二口二反余となっている。文久二年(一八六二)には地銭屋敷八七軒(畑一町七反余)となっている(「意宇郡村有高輪切帳」広島大学附属図書館蔵)。町の長さは二〇〇間、街道幅は四間であった(年未詳「宍道村万差出帳控」木幡家文書)。また嘉永二年(一八四九)の町屋敷間数帖図之(同文書)によると、街道を挟んで山側に四〇軒・灘側に四二軒あり、山側屋敷の奥行はおおむね一七間、それに対して灘側は不揃いになっている。享保一八年(一七三三)に町方の大火があったが、街区の基本構成に影響を与えていない(前掲万差出帳控・前掲町屋敷間数帖図之)。当町には制札場があった(雲陽大数録)

天明三年(一七八三)の宍道駅諸市願(木幡家文書)に「往古より仁多、飯石、大原、右三郡之御米津出目当ニ、町中過半水主、馬士并御登米被仰付候節、(中略)三百軒余之竈数一円ニ渡世仕申上候」と記されるが、宝暦九年(一七五九)神門かんど北荒木きたあらき(現大社町)の荒木川方役所が前記三郡の租米搬出を管轄するようになって以後、荷物の通行が減少したため、当町はその復興を目的として月六回の諸市の免許を松江藩に嘆願している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報