大村郷
おおむらごう
現答院町中央部の久富木川流域およびその北方、現薩摩町南部にあたる。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」は「於保无良」と訓ずる。「和泉志」などによれば、深坂・田園・辻之・上之・福田・高蔵寺・見野山・岩室(現堺市)の地が郷域にあたる。当郷域をはじめとする泉北丘陵一帯は、わが国で最初に須恵器生産の行われた地域で、穴窯・登窯を利用して高温の還元焔によって焼成する技術は朝鮮からの渡来人によってもたらされた。当郷域が後に陶器庄さらには陶器村とよばれていたこと、郷内に須恵器にかかわる地名を多く残していることからすると、「陶邑」の古代地名は当郷に求めることも可能である。郷内の式内社は陶荒田・火電の二社であるが、いずれも須恵器生産と関係があり、また岩室の南方には陶器山の地名もある。郷域内には多くの古窯跡があるが、辻之に陶器千塚とよばれる群集墳があり、うち湯山古墳は六世紀後半の横穴式石室をもつ前方後円墳として知られる。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」に記載される彼杵郡内の郷。同書の高山寺本・名博本では杵島郡のうちに誤って「大村」と記され、訓を欠くが、東急本・元和古活字本では彼杵郡内にみえ、於保无良の訓が付される。中世には彼杵庄のうちとしてみえ、近世にも大村として郷名が継承され、その郷域を後代の大村の区域に限ってみることも可能であるが、「和名抄」に当郷と彼杵郷の二ヵ郷しかないのが記載漏れによるものでなければ、大村郷の範囲は広域であったと想定される。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」高山寺本・伊勢本・東急本ともに「於保无良」と読み、同書名博本は「ヲホムラ」と訓を付す。「阿府志」は「太田村より半田村迄山分一円一県ナリ」として現貞光町太田から現半田町に至る吉野川南岸上流に比定するが、「阿波志」は「今廃」として比定を行っていない。近代になって、「日本地理志料」は阿府志説を受継ぎながら貞光川上流の現一宇村をも比定地に含めている。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」高山寺本では「於保无良」と訓を付す。「日本地理志料」では小泉・蒲町・伊在・六丁目・荒井・霞目・長喜城(現仙台市)などにわたる地とする。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「白河古事考」「陸奥郡郷考」「大日本地名辞書」「日本地理志料」ともに近世の大村(現白河市)を遺称地とする。現白河市鹿島の鹿島神宮蔵の県指定重要文化財で、永徳二年(一三八二)一二月六日銘のある鉄製鍵に「奥州白川郡大村郷鹿島大明神御宝前鍵 神主藤原忠泰」とある。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、伊勢本・東急本の訓「於保无良」、元和古活字本の訓「於保無良」から「おおむら」と読む。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」に「大村」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ新治郡大村ナリ」とあり、現新治郡桜村大に比定する。
大村郷
おおむらごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「於保牟良」から「おおむら」と読む。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報