彼杵庄(読み)そのきのしよう

日本歴史地名大系 「彼杵庄」の解説

彼杵庄
そのきのしよう

古代の肥前国彼杵郡に成立した庄園。郡名を継承することから郡の全域に及ぶ庄域を想定でき(郡庄)、史料上からも現長崎市・西彼杵郡東彼杵郡・大村市・佐世保させぼ市の諸地域にわたる広い庄域が確認できる。異表記として彼木があり、「そのきのしやう」など仮名書きした史料にも恵まれる。領主は本家が京都仁和寺、のち同東福寺、領家は九条家で、地頭職を得た深堀氏の戸町とまち浦をめぐる相論が知られる。

〔本家・領家・惣地頭代・地頭〕

文治二年(一一八六)八月一三日の源頼朝下文写(福田文書)に彼杵庄とみえ、庄内の手隈てぐま村・老手おいて(現長崎市)の地頭に殺害された手隈包盛に代わって子息の平包貞が補任された。ただし治承四年(一一八〇)一一月二八日の惣政所僧等定使職補任状写(同文書)にみえる平包守が定め遣わされた生手・手隈の定使職は当庄にかかわる職という見解もあり、平安末期からの成立をうかがわせる。建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家惣処分状(九条家文書)によれば「家領肥後国彼杵庄」が九条道家から孫の宣仁門院(四条天皇妃藤原彦子)に譲られている。なおこれ以前、当庄に京都一音いちおん(現京都市東山区か)の仏事用途が賦課されていたが、同女院への譲渡に伴い免除された(正和五年七月二七日「一音院領目録」同文書)。本家は京都仁和寺で、文永年間(一二六四―七五)および弘安五年(一二八二)仁和寺は本家として庄内の相論を裁許している(同年九月日「入道二品親王庁下文」同文書など)。「明月記」嘉禄元年(一二二五)九月条と推定される断簡(東京国立博物館蔵)に、肥前国の御室領で八月一五日大風で高潮となり、住人一〇〇余人・牛馬数百が漂没し、今後一〇年余は復興が困難であろうという浄覚の談が記されるが、当庄のことと推定される。仁和寺の本家職は鎌倉末期に九条家菩提寺の東福寺に寄進され(元応二年某月二七日「東福寺領肥前国彼杵庄文書目録案」東福寺文書)、嘉慶二年(一三八八)五月二五日の太政官牒并官宣旨写にも同寺領として彼杵郷とある。九条家は領家職を保持していくことになるが、宣仁門院のあと忠教へ譲られ、忠教から正応六年(一二九三)関白九条師教に道家から宣仁門院への譲状と同女院譲状各一通を添えて彼杵庄が譲られ(同年三月一七日九条忠教譲状)、師教の病気・籠居で徳治三年(一三〇八)大納言九条房実に譲与、さらに房実の早世により嘉暦二年(一三二七)左大将九条道教へと相伝された(同年正月一日九条忠教譲状、以上九条家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報