白河郡(読み)しらかわぐん

日本歴史地名大系 「白河郡」の解説

白河郡
しらかわぐん

白川とも書く。東は常陸国多珂たか郡、菊多きくた郡・磐城郡、北は安積あさか郡・磐瀬いわせ郡、西は下野国那須なす郡、南は常陸国久慈くじ郡に接する中通り南端の地。阿武隈川が東流・北流を繰返して北流し、久慈川が南流する。南端に八溝やみぞ(一〇二二メートル)、西端にあさひ(一八三五メートル)がある。現在の白河市、西白河郡西郷にしごう村・表郷おもてごう村・ひがし村・中島なかじま村・矢吹やぶき町・大信たいしん村・泉崎いずみざき村、東白川郡棚倉たなぐら町・はなわ町・矢祭やまつり町・鮫川さめがわ村・古殿ふるどの町、石川郡石川町・玉川たまかわ村・平田ひらた村・浅川あさかわ町、それに茨城県久慈郡大子だいご町を含む領域である。

〔古代〕

和名抄」に「之良加波 国分為高野郡」とある。白河郡高野たかの郷が郡に昇格するのは一〇世紀初頭と考えられる。「国造本紀」に白河国造とみえる。棚倉町八槻やつき都々古別つつこわけ神社の旧別当であった大善だいぜん院に残された「大善院旧記」に陸奥国風土記逸文二話が伝えられる。「八槻郷」と「飯豊山」で、前者に八槻の地名起源説話がある。養老二年(七一八)五月二日、陸奥国の白河・石背いわせ・会津・安積・信夫しのぶ五郡を割いて石背国に昇格するが(続日本紀)、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。これが郡名の初見である。神亀五年(七二八)四月一一日白河軍団が新設される(続日本紀)。八世紀末とみられる多賀城跡出土木簡に「白河団進上射手歴名事 合四四人 火長神人味人」「大生部乙虫 丈部力男 (大)伴部建良」とあり、白河軍団から多賀城(現宮城県多賀城市)に守備兵が派遣されている。弘仁六年(八一五)八月二三日白河・安積・行方なめかた小田おだの四軍団が新設され(類聚三代格)、白河軍団は一時中断したらしい。「左経記」長元七年(一〇三四)二月一五日条に「白河団擬矢八占部宿禰安信」とあり、白河団存在の下限がわかる。延暦一八年(七九九)一二月一〇日に「白河・菊多守六十人」とあるのが白河関の初見(河海抄)。承和二年(八三五)一二月三日、白河・菊多両の通行取締法を長門国関並みにするよう申請し、許可されている(類聚三代格)。文治五年(一一八九)七月二九日、源頼朝が白河関を越える感慨から、能因法師の「都をば」の古歌を思い起し、これにこたえて梶原景季が「秋風に草木の露を払せて君が越れは関守も無し」の歌を詠んだ(吾妻鏡)。「関守も無し」は関の機能を失っていることを示している。国指定史跡白河関跡は白河市旗宿はたじゆくせきもりにあり、松平定信の「古関蹟」の碑がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報