和泉国(読み)イズミノクニ

デジタル大辞泉 「和泉国」の意味・読み・例文・類語

いずみ‐の‐くに〔いづみ‐〕【和泉国】

和泉

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日本歴史地名大系 「和泉国」の解説

和泉国
いずみのくに

古代

〔国の成立〕

和泉国は大鳥・和泉(近世には泉と表記)・日根の三郡からなり(鎌倉時代に和泉郡から南郡が分立し四郡となる)、「延喜式」(民部省)によれば下国である。北は長尾街道(大津道)を境として摂津国、東は河内国、南は紀伊国に接し、西は海に面する。もと河内国に属したが、「続日本紀」によると、霊亀二年(七一六)三月二七日に和泉・日根の両郡を河内国から割いて珍努宮ちぬのみやに供せしめ、同年四月一九日に両郡に大鳥郡を加えて和泉監とし、独立の行政単位とした。離宮の経営と維持を目的とする行政単位の「監」は、大和国の吉野離宮を管轄する芳野監の例もある。その後、天平一二年(七四〇)八月二〇日に和泉監を廃して河内国に隷せしめられたが、天平宝字元年(七五七)五月八日、改めて和泉国が建置された(同書)。「日本紀略」天長二年(八二五)三月三〇日条・同閏七月二一日条によると、摂津国の江南四郡(東生・西成・百済・住吉)を和泉国に属せしめることになったが、四郡の百姓の反対によって取りやめとなり、以後は三郡をもって和泉国が確立することになった。「和名抄」によれば三郡二四郷からなり、「延喜式」神名帳によれば六二座の式内社があり、うち大鳥神社(現堺市)のみが大社で他は小社であった。

〔古墳時代〕

旧石器から弥生時代までの和泉地域の歴史については総論で触れた。古墳時代の和泉地域は大きな変動を遂げている。前期の前方後円墳としては、墳丘長二〇〇メートルを超える摩湯山まゆやま古墳(岸和田市)と、魏の景初三年(二三九)銘の鏡の出土などで著名な黄金塚こがねづか古墳(和泉市)があるが、いずれも当地域に本拠をもつ有力首長の墳墓と考えられる。だがこれに続く中期には、五世紀代の大王伝承をもつ巨大古墳が現堺市の洪積台地上に相次いで造営され、これと対照的に在地首長の墳墓は全体として縮小化の傾向をたどる。現堺市の巨大古墳群は百舌鳥もず古墳群と総称され、東方の古市ふるいち古墳群(羽曳野市・藤井寺市)とともに日本の代表的巨墳が集中する。墳丘長四八六メートルで全国第一位の規模をもつ大仙だいせん古墳(仁徳陵に治定)や第三位の規模をもつミサンザイ古墳(履中陵に治定)などの数多くの古墳が存在する。こうした百舌鳥古墳群の成立は、元来大和地方に本拠をもっていた大王勢力が摂河泉の地域を掌握してさらに西方への進出を図り、後に官道として整備される大津道・丹比たじひ(竹内街道)を経て海上に出口を求め、また西方からの諸使節らもこのルートを経て大王勢力の本拠に向かったため、海岸部に近い交通路に沿った台地上に巨大古墳を営んで権力の誇示を図ろうとしたものであろう。

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改訂新版 世界大百科事典 「和泉国」の意味・わかりやすい解説

和泉国 (いずみのくに)

旧国名。泉州。現在の大阪府南西部にあたる。

五畿内に属する下国(《延喜式》)。河内国に属したが,716年(霊亀2)に珍努(ちぬ)宮の造営や管理にあてるため大鳥郡,和泉郡,日根郡の3郡を特別行政区画の和泉監(げん)として分離,740年(天平12)河内国に再び合併,757年(天平宝字1)和泉国として独立した。国府は和泉郡,現在の和泉市府中町付近にあった。《和名抄》によると大鳥郡10郷,和泉郡10郷,日根郡4郷からなる。郷域は復元可能で和泉郡の北部は狭く日根郡南部は広いことから,当時の人口の稠密(ちゆうみつ)度や開発の進展状況がうかがえる。条里は6地域で復元されているが,全体に8方向の条里が入り組み,郡単位の統一性はない。

 伝仁徳陵,伝履中陵など4世紀末~5世紀の大古墳の集中する百舌鳥(もず)古墳群(堺市),5世紀後半ごろからの古代須恵器生産の中心であった陶邑(すえむら)古窯址群(泉北丘陵),6世紀の群集墳の信太千塚(和泉市)や陶器千塚(堺市)などの遺跡も多く,茅渟(ちぬ)山屯倉(みやけ)も比定地は確定していないがこの地域に所在した。記紀によると,允恭(天皇)の愛妃衣通(そとおり)姫が茅渟宮に住んだという伝承や,在地の有力首長根使主(ねのおみ)の反乱伝承も伝えられている。

 《延喜式》によると式内社は62座(大鳥24,和泉28,日根10)あり,各郡の中心的神社である大鳥神社,泉井上神社,日根神社はいずれも水利と関係がある。大鳥郡には中臣氏と同祖伝承をもつ大鳥連(むらじ)・殿来連・蜂田連,土師四腹の一つ毛受(もず)腹の土師連や同祖の石津連,渡来氏族の古志連・蜂田薬師らがおり,和泉郡には伝統的豪族である茅渟県主や和気公のほか,物部氏と同祖伝承をもつ韓国(からくに)連・曾禰連・安幕(あまか)首ら,紀氏と同祖で飛鳥時代に法隆寺式伽藍の禅寂寺を氏寺として建立した坂本臣などがおり,日根郡には渡来氏族系統の日根造,上村主,近義(こぎ)首らの存在が目だっている。行基は大鳥郡内の家原で生まれ,鶴田池などの池の造営や土塔で有名な大野寺の建立などを行っている。738年の《和泉監正税帳》が正倉院文書に遺存しており,当時の地方財政の状況や正倉の実態・配置などを知るうえで貴重である。平安時代に入り,9世紀中ごろも須恵器生産が盛んで,まきを採る山(陶山(すえやま))の境界を河内国と争っている。また10世紀初頭には,網曳御厨(あびこのみくりや)の贄人(にえびと)をはじめ,人口の半ばが漁業に従事し,一方富豪農民が荒廃田までも私有するという大土地所有,階級分化が進んでいる。10世紀半ばには国内に45ヵ所の荘園が存在して公田が減少し,一方下級官人の土着による武士化が進行するという状況を呈していた。なお中央貴族の熊野詣が盛んとなるとともに和泉国を境,大鳥居,信太,平松,井口と縦貫する熊野街道が栄えた。
執筆者:

鎌倉幕府は初代の守護に三浦義澄の弟佐原義連を任じたが,1203年(建仁3)5月に義連が没した後は守護が任命されず,07年(承元1)6月に至って紀伊とともに正式に守護が廃され,幕府の検断権行使による財産没収などの収益は,後鳥羽院の熊野参詣時の各駅家の費用にあてることとされた。ただし国内御家人に対する軍事指揮権(大番催促)は,義連の子盛連に与えられた。承久の乱後は,再び守護が設置されて逸見入道某が任ぜられ,48年(宝治2)ころまで在職した。その後49年(建長1)以前に逸見氏は更迭されて,執権北条氏一門の重鎮北条重時が守護となり,守護代は重時の子六波羅探題長時の執事である佐治重家が兼任した。重時没後しばらくは守護人が明らかでないが,79年(弘安2)には重時の甥時村が守護に在職しており,時村の跡はその嫡孫凞時,その次は凞時長子の茂時へと世襲され,幕府滅亡を迎えた。このように当国は鎌倉中・末期には守護職が北条一門の手中に握られていたのである。

 鎌倉期の在地領主としては,摂関家大番領地頭の田代氏,河内矢田部の本貫地から和田川をさかのぼって和田荘を開発した和田氏,守護北条凞時の被官となった御家人信太氏,淡輪(たんなわ)荘の下司淡輪氏,長滝荘荘官日根野氏らや,御家人の石津,菱木氏ら,本貫地を姓とする土豪の名が史料にみえる。当国の土豪は辺境地域とは異なり,荘園体制の重圧と中央政権・六波羅探題の強い影響下にあり,多くは平安期に起源をもつ開発所領のほか,旧国衙関係の所職や摂関家大番舎人などの職をてことしながら,成長をはかっていった。しかし鎌倉幕府の保守的な荘園政策によって在地領主としての発展の道を閉ざされた土豪の中には,〈悪党〉として特異な活動に出る者が輩出した。1332年(正慶1)和泉若松荘を中心とする河内・和泉北部の街道幹線を押さえていた悪党楠木正成は,和田氏ら近隣の小土豪を勢力下に収め,やがて元弘・建武の争乱には後醍醐天皇の与党として,南朝の有力な軍事力となる。36年(延元1・建武3)室町幕府が開創されると,初代の守護に畠山国清が命ぜられるが,当国は南朝方の重要な戦略地であり,南北朝争乱の過程で軍事指揮の責任を問われ,守護はその後もしばしば更迭された。観応の擾乱(じようらん)以後は概して細川氏が多く守護に就任したが,69年(正平24・応安2)南朝の河内・和泉国主楠木正儀(まさのり)が幕府に帰参するや,北朝は彼に国主の地位を認めたまま,新たに守護に任ずる特殊な措置を講じた。しかし正儀も78年(天授4・永和4)南朝方の橋本正督の蜂起で更迭され,新たに山名氏清が守護を襲職した。91年(元中8・明徳2)12月の明徳の乱後は,周防・長門守護の大内義弘が当国守護を兼任する。

 これより先,南朝の四国,九州方面への外港としての都市的発展はめざましかった。堺は摂津の兵庫と並んで日明貿易の基地として港湾機能が増大し,政治的にも山名氏の時期から当国の守護所として都市発達の緒についた。

 99年(応永6)10月,大内義弘も山名氏清にならい堺城に拠って幕府に背き,応永の乱が起こる。将軍足利義満は親征して同年12月末にようやく陥落させたが,このときの火攻めの策で堺の町屋1万軒焼失と記録され,当時すでに堺の人口は数万に達していたことが推測される。乱後の行賞で守護には伊勢守護仁木義員が転封されたが,仁木氏の在職も長続きせず,1407年には義満の寵童奥御賀丸が守護となった。しかし義満が翌年5月に没すると御賀丸も没落し,同年8月には当国は二分され,細川頼長,同基之の両名にそれぞれ半国守護職が与えられた。幕府は,明徳の乱,応永の乱でいずれも前守護が守護所堺を拠点として幕府に背いた点にかんがみ,堺の町を1名の守護に独占させる危険を回避するため,和泉一国全体のあらゆる地域で,つねに2名の守護正員が遵行(じゆんぎよう)を担当し,守護所堺も両半国守護が居館を構えるという特殊な複数守護制を敷いた。頼長,基之は1400年には土佐の半国守護であり,半国守護制はすでに土佐で実施されていたことがわかる。両守護の下に守護代,小守護代,郡代が置かれ,両家とも守護職を世襲して戦国時代に及んだ。

 南北朝内乱の過程で,荘園制の解体と変質が進んだが,高野山領近木(こぎ)荘(現,貝塚市),摂関家領大鳥荘(現,堺市)などでは,多数の小農民が年貢直納者として荘園領主に把握されており,荘園制は室町期にも崩壊には至っていない。一方,台頭してきた小農民層は団結して年貢減免闘争(荘家(しようけ)の一揆)を起こし,一部の有力農民は商業活動にも手をひろげ,高利貸活動で土地を集積し,地主化する者もあらわれるようになった。九条家領日根野荘では,1420年に九条家が支配を回復したものの,和泉両守護代が年貢運上を請け負う守護請所となり,結局,しだいに守護の侵略にさらされていくことになる。57年(長禄1)には鳥取光忠以下日根郡内9人の国人が一揆契状を結んだことが知られ,応仁・文明の乱中の73年(文明5)には和泉一国規模の国一揆が成立し,一揆側は主体的に本所一円地荘園からも兵糧米を徴収していたことが判明している。

 京都の相国寺塔頭(たつちゆう)崇寿院領であった堺南荘は,1419年より年貢730貫文を住民が納入する地下請所となり,堺は貿易の発展とも相まって自治都市として発達した。室町初期には万代屋,草部屋,野遠屋など屋号をもつ豪商が出現し,大商人がパトロンともなって独自の文化が芽生え,《正平版論語》などのいわゆる〈堺版〉と称される印刷物が流布するようになった。応仁・文明の乱では堺が重要な軍事的基地となり,東西両軍の争奪の的となったが,幕府方の和田氏ら国人がよく守ったため,西軍の手には落ちなかった。69年から71年にかけ河内畠山軍が当国西部に侵入したが,守護細川氏に同盟した紀州根来(ねごろ)寺の僧兵の援軍や,和田氏の力により撃退しており,畿内近国では最も戦乱が少なく平穏であった。このため堺には戦火の京都を避けて下向した五山の禅僧,公家などが多く居住し,奈良と並んで乱中の文化の中心地となったのである。加えて瀬戸内海では兵船の往来,海賊の跳梁で,日明貿易船も多くは土佐沖,紀淡海峡から堺に入るようになり,日本最大の貿易港の地位を占めるようになった。

 93年(明応2)に細川政之が政変を起こし,畠山尚順が紀伊に亡命してしばしば再起をはかったため,和泉は両畠山の政争に全面的に巻き込まれ,97年より1500年までの間,当国は尚順に占領されるという異常事態となった。1500年8月には,守護細川元有が岸和田城に敗死している。そのころから根来寺の僧兵勢力も当国に浸透し,04年(永正1)秋には日根郡が守護細川氏と根来寺との間で分割される事態さえ起こっている。11年および19年には阿波の国人三好之長を中心とする反幕府勢力が堺に上陸し,蜂起はいずれも失敗したものの,このころから堺は,淡路水軍をも配下に収めた三好軍の兵站(へいたん)基地としての役割を担うようになる。27年(大永7)3月,将軍義晴の弟義維を擁した三好元長,細川晴元らは阿波から堺に上陸し,京の四条道場に本拠を据え,畿内を支配した。義維は京都の朝廷から将軍に準ずる待遇を受け,世人は彼を〈堺公方(くぼう)〉と呼び,32年(天文1)7月までの5年間,室町幕府は実質的にその機能を停止し,当国の堺が事実上の幕府となったのである。しかしこの堺幕府も,三好氏ら阿波国人と畿内国人の対立から晴元と元長の反目を招き,一向一揆の大軍に包囲されて崩壊する。49年まではまがりなりにも守護細川氏の支配がかろうじて続いたが,三好長慶が畿内に覇を唱えるや,当国は岸和田城に長慶の一族十河一存(そごうかずまさ)が入部し,一存の没後は三好義賢,安宅(あたぎ)冬康が相次いで同城主となり,68年(永禄11)の織田信長入京まで,三好氏の支配が続くのである。

 信長入京後の和泉は,三好義継の部下が家原城その他に分封されたが,堺は依然三好三人衆側に属し独立の態度をとった。そこで信長は翌年,堺の町が三人衆側に通じたことを責めて2万貫の矢銭を賦課し,堺はついに信長の軍門に屈して栄光の自治都市としての幕を閉じた。十河存保が保持していた堺代官の地位は信長昵懇(じつこん)の今井宗久と安宅信康が継承し,大津,草津とともに信長の直轄都市に編入された。70年(元亀1)には松井友閑が堺政所に任命されて86年(天正14)に至る。しかしほどなく三人衆の反撃や石山本願寺の蜂起があって河内・和泉地方の反織田勢力はあなどりがたく,信長の支配は容易に浸透しなかった。1575年河内高屋城の陥落によってようやく和泉も信長の領国と化し,佐久間信盛がその仕置を任されている。77年には信長自身,紀伊雑賀(さいが)の一揆討伐のため当国に出征し,和泉,紀伊を平定した。このとき一向一揆の貝塚願泉寺も陥落している。豊臣秀吉は友閑を罷免して石田三成と小西隆佐を堺代官とし,岸和田城には小出秀政(3万石)を,のち谷川城には桑山重晴(1万6000石)を置き,和泉を支配させた。
執筆者:

1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果,和泉国にも堺,岸和田を中軸として,漸次徳川氏の支配がおよんできた。和泉国は摂津,河内両国とともに,なお豊臣秀頼の領有であったが,関ヶ原の戦勝ののち堺を手に入れた徳川氏は,大坂城の秀頼に対する前線基地として成瀬正成,米津(よねきづ)親勝を堺政所に任命した。これより先,豊臣政権下の岸和田には,秀吉根来征伐直後の1588年小出秀政が入城し,94年6000石を加増されて1万石,翌95年にはさらに2万石を加えて3万石の大名になっていた。秀政は1604年3月没し,その跡は長男吉政が継いだが,徳川幕府は豊臣恩顧の秀政の死を機会に,同年8月岸和田,貝塚周辺の南郡(旧和泉郡)一帯と,泉(旧和泉郡),大鳥両郡の一部の検地を強行して村々から指出(さしだ)しを徴し,検地帳を交付した。和泉一国の支配に決定的な画期となったのは,いうまでもなく15年(元和1)の大坂落城,豊臣氏の滅亡である。大坂には家康の外孫松平忠明に10万石を与えて城主としたが,18年堺奉行喜多見勝忠に和泉国の奉行をも兼ねさせた。この間,岸和田城主は小出吉政の長子吉英が相続し,吉英は大坂夏の陣には徳川方に加わって功があったが,幕府は大坂の重要性から19年松平忠明を大和郡山に移して大坂を直轄領として大坂町奉行を設置し,泉南の地にも譜代大名を配置することとし,小出吉英を但馬出石に移封,代わって松井康重を岸和田城主とした。康重の跡は次子康映が継いだが,40年(寛永17)播磨山崎に転じ,岡部宣勝が6万石で入封し,1871年(明治4)の廃藩まで岡部氏が代々藩主を相続した。

 このほか和泉国には谷川,陶器,大庭寺(おおばでら)(のち伯太(はかた))の諸藩があった。谷川藩は1606年桑山重晴隠居料のうち谷川1万石を孫の清晴に分与されたもので,3年ばかりで廃藩となった。陶器藩は1604-09年ころ,小出三伊が甥の吉英の領地のうち大鳥郡内2900余石など1万石を分与されて成立,4代にわたったが,96年(元禄9)絶家となり廃藩された。大庭寺藩は98年武蔵野本1万3500石の渡辺基綱が和泉大鳥郡に移ったもので,1727年(享保12)には居所を伯太に移して伯太藩となった。岸和田藩同様1871年まで渡辺氏が在封した。幕末1868年における和泉国内所領は,幕府直轄領3万4302石,御三卿領3万2841石,在地大名領(岸和田藩,伯太藩)6万4865石,大名飛地領2万7285石,旗本領7594石,宮堂上家領104石,社寺領1137石,合わせて16万8128石であった。

 諸村の石高は1604年家康の和泉検地の村高が基準であるが,和泉国全体の約3分の1を占める岸和田藩の税率は,全国的にも類例を見ないほどの高率で,慶長検地の本高に対して8~9割が普通であり,極端な場合は10割を超す例も珍しくない。これは領内が良田で耕作法の進歩により,慶長検地の表高よりもはるかに多くの実収を得られたためで,31年松井康重が領主のときに,幕府に願い出て表高を5万石から6万石に増高することを許されている。しかしこの増高は税率を緩和するためのつくろいであり,重税に悩んだ農民らは,岡部宣勝入国の際,108ヵ村のものが城下に群集し,新領主に強訴(ごうそ)した事件もあった。米のほか大都市大坂の後背地として商業的農業の進展により,多くの商品作物も生産された。綿作はすでに1626年から行われていたことが認められるが,17世紀の終りごろにはナタネとともに主産物となった。18世紀中ごろの調査によると,和泉276村のうち252村が綿作を,200村がナタネ作を行い,青物やタバコ,茶,サトウキビなどをも栽培する村が見える。

 収穫された綿は実綿(みわた)のまま,あるいは繰綿(くりわた)として一部は大坂の問屋や仲買に売られたが,綿作の普及につれ農家の家内手工業として紡織が盛んになった。和泉木綿と呼ばれ,広くは河内木綿の中に含まれたが,1786年(天明6)の江戸商人の見積りでは河内の10万反に対し,和泉は20万反であったという。主として堺,岸和田の問屋が扱ったが,19世紀の初めごろから大坂商人の進出が激しく,やがて大坂商業資本に吸収されていった。もっとも農民生活は重税や肥料の高値などによって苦しく,それを打開するため1752年(宝暦2)の馬場村騒動,74年(安永3)の瓦屋騒動,82年の千原騒動などが起こり,また摂津,河内の村々と連合した国訴(こくそ)もしきりに行われた。在郷町としては大津,佐野などの発展があり,特異な存在としては貝塚がある。貝塚は近世初頭に各地の寺内町がその実を失ったのに比し,幕末まで寺内町の形態を残した。これら諸都市は,いずれも和泉木綿の産地であり,近代泉州紡織工業地の基盤となった。

 1868年(明治1)大阪鎮台(のち大阪裁判所,大阪府)が設置され,摂河泉を管轄することになったが,同年堺県,69年河内県が設置された。堺県は河内県,狭山藩を統合し,71年廃藩置県をへて吉見県(前年立藩。近江三上藩の後身)を含む4県を,76年には奈良県を併せたが,81年大阪府に合併した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和泉国」の意味・わかりやすい解説

和泉国
いずみのくに

五畿内(きない)の一国。現在の大阪府の南部にあたる旧国名。略称泉州(せんしゅう)。北は摂津国、東は河内(かわち)国、南は紀伊国に接し、西は大阪湾に面す。古くは茅渟(ちぬ)とよばれ、河内国造(くにのみやつこ)の管下にあったが、大化改新後も河内国に属して、大鳥、和泉、日根(ひね)の3郡が置かれた。和泉郡が泉郡と南郡に分かれ、和泉四郡と称せられたのは中世以降である。716年(霊亀2)珍努宮(ちぬのみや)造営の経費にあてるため、前記の3郡を河内国から分割して和泉監(いずみのげん)とし、740年(天平12)ふたたび河内国に復したが、757年(天平宝字1)に至り、和泉監の旧管内を独立させて和泉国を設置した。『和名抄(わみょうしょう)』には、大鳥郡、和泉郡に各10郷、日根郡に4郷の名がみえ、田は4569町とある。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に名を連ねる氏族は約130。平安時代から鎌倉時代にかけて、八条院領、後高倉院(ごたかくらいん)領、最勝光院(さいしょうこういん)領、九条家領、春日社(かすがしゃ)領、松尾寺(まつのおでら)領、高野山(こうやさん)領、施福寺(せふくじ)領、臨川寺(りんせんじ)領などの荘園(しょうえん)が多数分立、また熊野参詣(さんけい)の流行に伴い、街道沿いの18の王子社を中心に交通が発達し、小津(おづ)、神前(こうざき)、日根の良港もできた。南北朝時代には戦乱の舞台となり、南朝は楠木(くすのき)氏、北朝は細川氏を和泉守護に任じ、和田氏、橋本氏、松尾寺、久米田寺(くめだでら)は南軍に、田代氏、日根野氏は北軍に属して抗争した。この間、堺(さかい)は北朝の守護山名氏清(やまなうじきよ)の本拠となったが、1392年(元中9・明徳3)大内義弘(よしひろ)は氏清を滅ぼして占拠し、対明(みん)貿易を始めて利を収めた。義弘は応永の乱を起こして討伐された(1399)が、堺は遣明船の発着地、南蛮貿易の中継地となり、町衆文化が栄え、会合衆(えごうしゅう)が町政を握る自治都市として、海外にも知られた。下って1570年(元亀1)石山合戦が起こると、和泉の門徒らは本願寺を支援して織田信長と戦い、1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の根来(ねごろ)征討の際も、国中はふたたび戦場になった。江戸時代には幕府直轄地のほか岸和田藩(小出、松平、岡部氏)、伯太(はかた)藩(渡辺氏)が置かれた。明治維新に至り1868年(明治1)堺県、1871年廃藩置県により吉見県、岸和田県、伯太県が設けられ、同年合併して堺県。1881年大阪府に合併した。現在は、堺、岸和田、泉大津、貝塚、泉佐野、和泉、高石、泉南の各市、泉北、泉南の両郡に分かれる。

 平安中期ごろまでは須恵器(すえき)の大生産地であり、また近木櫛(こぎぐし)や和泉酢(す)は全国的な名産として知られ、江戸時代まで引き継がれた。中世には堺の鉄砲が名高く、近世には商業的農業が発達し、和泉木綿など家内手工業が展開した。中世には早くも出版文化(堺版)がおこり、茶の湯が流行、近世には大坂の影響から、各分野にわたり多数の人材が輩出して、地方文化が興隆した。

[藤本 篤]

『『堺市史』正続(1929~1931、1971~1976・堺市)』『『和泉市史』全2巻(1965、1968・和泉市)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「和泉国」の意味・わかりやすい解説

和泉国
いずみのくに

現在の大阪府南部。畿内の一国。下国。もと茅渟 (ちぬ) とも称し,初めは河内国の一部。霊亀2 (716) 年珍努 (ちぬ) 宮造営のため,河内国から和泉など3郡をさいて和泉監 (いずみげん) をおいたが,天平 12 (740) 年,再び河内国に合併。さらに天平宝字1 (757) 年,分離して一国となる。国府は和泉市府中町,国分寺は同市国分町。『延喜式』には大鳥,和泉,日根 (ひね) の3郡が数えられる。大鳥郡には延喜式内社で名神大社に列し,その後は当国の一宮と称せられた大鳥神社があり,中臣氏の一族であった大鳥連がその祖神を祀った。『和名抄』には郷 24,田 4569町余が記載されている。和泉は景勝の地であったため,深日,新治など天皇家の宮が営まれることも多く,したがって天皇の行幸もしばしば行われた。また権門勢家,社寺の荘園となる地も少くなかった。鎌倉時代初めには佐原氏,逸見氏が守護となったが,承久の乱 (1221) 以後は北条氏一門の支配となり,南北朝時代から室町時代にかけては楠木氏,畠山氏,山名氏,細川氏,仁木氏,三好氏と勢力の転変が続いた。豊臣秀吉は弟の秀長に和泉を知行せしめ,江戸時代には岡部氏の岸和田藩,渡辺氏の伯太藩があり,堺は直轄領であった。明治4 (1871) 年の廃藩置県では7月に岸和田県と伯太県となり,11月に堺県,そして 1881年に大阪府に併合。

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藩名・旧国名がわかる事典 「和泉国」の解説

いずみのくに【和泉国】

現在の大阪府南西部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で畿内(きない)を構成する5国の一つ。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)。国府は現在の和泉市府中(ふちゅう)町、国分寺は同市国分(こくぶ)町におかれていた。平安時代から鎌倉時代にかけて、多数の皇室、摂関家、寺社などの荘園(しょうえん)が経営された。南北朝時代から室町時代守護は楠木(くすのき)氏、山名氏、大内氏細川氏、三好(みよし)氏と変わり、その間、堺(さかい)が遣明(けんみん)船の発着地、南蛮(なんばん)貿易の中継地となって繁栄した。江戸時代には堺が幕府直轄領となり、他に2藩がおかれ、幕末に至った。1868年(明治1)に堺県ができ、1871年(明治4)の廃藩置県を経て1881年(明治14)に大阪府に編入された。◇泉州(せんしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「和泉国」の意味・わかりやすい解説

和泉国【いずみのくに】

旧国名。泉州とも。畿内に属し,現在大阪府南西部。温暖のため古くから離宮があり,716年河内(かわち)国から分離して和泉監(げん)を置いたが,740年廃止によって河内国に併合,757年和泉国として独立。《延喜式》に下国,3郡。中世にかけて皇室・貴族・社寺領多く,山名・大内・細川氏らの支配を経て,近世はを幕府直轄領とした。→岸和田藩
→関連項目大阪[府]近畿地方茅渟

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「和泉国」の解説

和泉国
いずみのくに

畿内の国。現在の大阪府南西部。「延喜式」の等級は下国。もと河内国で,716年(霊亀2)大鳥・和泉・日根の3郡が割かれて和泉監(いずみのげん)が設置された。和泉監は740年(天平12)に廃されて再び河内国に編入され,757年(天平宝字元)あらためて和泉国が分立した。郡の編成は上記3郡で,13世紀までに和泉郡から南郡が成立。国府は和泉郡(現,和泉市)におかれ,国分寺は839年(承和6)安楽寺(現,和泉市)が指定された。一宮は大鳥神社(現,堺市)。「和名抄」所載田数は4569町余。「和名抄」には調として銭のほか陶器・土器を定める。百舌鳥(もず)古墳群・陶邑(すえむら)古窯跡群などの遺跡や中世都市として著名な堺がある。守護は鎌倉時代には三浦氏・北条氏,南北朝期以降は楠木・細川・山名・大内氏らが任じられ,戦国期には畠山氏・三好氏や根来(ねごろ)寺などの勢力が及んだ。近世には堺は幕領で,また陶器(とうき)・岸和田・伯太(はかた)諸藩が成立。1868年(明治元)藩領以外は堺県となり,71年廃藩置県により旧藩領も堺県に統合,81年大阪府に合併。

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