大倉村(読み)おおくらむら

日本歴史地名大系 「大倉村」の解説

大倉村
おおくらむら

[現在地名]宮城町大倉

芋沢いもざわ村の西方から現宮城町北部一帯の山間に広がる広域の村。広瀬川の支流で南流する大倉川や青下あおした川の渓谷に集落が散在。定義じようげ(上下)をはじめ白木しらき矢籠やごめ大手門おおてもん大豆沢まめざわ・青下など平家落人伝説を伝える集落が多い。「安永風土記」によれば村には二つの館跡があった。「永禄之頃より国分御家臣蔵人様御居館之由申伝」とある下大倉館と「天正之初より国分御家臣作並宮内様御居館之由申伝」とある大原おおはら館である。下大倉館に居館した大倉氏は一三代蔵人重忠のとき国分氏が滅亡したため、天正六年(一五七八)一一月伊達政宗に仕え、給田五〇石を大倉村に与えられた(伊達世臣家譜)。さらに同一六年一一月「国分之内本領大倉之地并彼地棟役五貫文 一、熊金之内町屋敷四間」を賜ったが(「伊達政宗朱印状」関庸憲家文書)、同一九年政宗が大崎おおさき出陣の折従軍し、佐沼さぬま(現登米郡迫町)攻めの時討死した(安永風土記)。重忠には嗣子がなく大倉氏は滅んだ。それより以前、重忠の兄左馬助重貞は父の大倉家一代蔵人重賢とともにくませきに移り住み、関氏を名乗るようになった(伊達世臣家譜)。三代関源之丞宗重は、寛永二一年(一六四四)大倉村六貫四一二文を与えられ(「伊達忠宗知行宛行状」関庸憲家文書)、以後大倉村切払きりはらいに居屋敷を定め、代々伊達家に仕えた。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]佐原市大倉

東流する利根川の右岸にあり、西は津宮つのみや村・丁子ようろご村。同川沿いを銚子道が走る。「和名抄」にみえる香取郡大倉郷の遺称地とされる。大蔵とも記される。近世初頭、北に面した香取海の洲島開発をめぐって佐原村篠原しのわら村・津宮村からなる郷三ヵ村に元和期(一六一五―二四)いわさき村とともに加入し、根郷五ヵ村として新田開発を展開した。嘉慶二年(一三八八)一二月二日の香取社神官死亡逃亡跡目録(香取文書)に「大倉の平四郎方」とみえ、死亡した高倉目代庶子宗実の所領であった田六反小のうち三反は、かつては中村三郎左衛門が耕作していたが、この年には当村の平四郎方の者によって耕作されていた。応安七年(一三七四)頃には大蔵某知行分の「たとかうやの津」「そはたかの津」「ゑちこうちの津」に、香取社に供祭料を納める漁師である海夫が所在し(応安七年「海夫注文」同文書)、大蔵某は当地を名字の地とする者と思われ、このうち「そはたかの津」は地内の側高そばたか付近に比定される。香取社領として種々の負担をしており、正月元三の神事用途八石五斗と、四月四日・五日の戸開神事の御机役を織幡おりはた村とともに、また七月一日の神事用途を「大蔵方」として負担するほか(至徳三年六月日書写「香取社年中神事目録」同文書)、九月初午の神事の際の相撲取りを一人出し(年月日未詳「香取社神事覚書」同文書)、三月に行われる香取社の神幸祭に際して正検非違使を奉行として一番目の船持役(永正一三年八月二一日書写「香取神宮神幸祭絵巻」本宮家蔵に描かれる船木を持つ役のことか)を勤め(正長三年三月日「三月御幸神事船持役差定状案」香取文書)、また毎年六月一五日に脇鷹社(現側高神社)祝を奉行として、御手洗登り口(のちには護摩堂の生垣際)から中殿の御炊殿の前までの草刈役を負担していた(永享五年六月日書写「香取社庭薙所役分配状」同文書など)

大倉村
おおくらむら

[現在地名]飯舘村大倉

現飯舘村の北東端部、東流する真野まの川上流域の河岸段丘上に開けた村。南は草野くさの村・八木沢やぎさわ村など、西は佐須さす村、北は卒都婆そとば峠を越えて宇多うだ笹町ささまち(現相馬市)に至り、東は上栃窪かみとちくぼ(現鹿島町)。明暦二年(一六五六)佐須村・前田まえた村を分村(相馬藩政史)。中世には太倉と記される。延文三年(一三五八)一一月二〇日の相馬親胤譲状(相馬文書)に「行方郡千倉御(庄)内仁木田村・安倉村・太倉村并北草野村」とみえ、千倉ちくら庄内の太倉村などが親胤から子胤頼に譲られている。貞治六年(一三六七)八月二三日に太倉村などが胤頼から子憲胤に、応永二年(一三九五)一〇月二一日には狩倉山を含む太倉村などが憲胤から子胤弘に譲渡された(「相馬胤頼譲状」同文書など)

正保郷帳では田方七三石余・畑方三一石余。明暦二年の高二〇八石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高一一一石余。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]豊野町大字大倉

現豊野町の北部。東は蟹沢かにさわ村、南は浅野あさの村・神代かじろ村、西は川谷かわたに村、北は赤塩あかしお村・倉井くらい村(以上現三水さみず村)に接する。村の西北は山地、南部を西から鳥居とりい川が東南に流れ、これに沿って平地が開ける。

谷筋道は東南の蟹沢村境から、村境沿いに東北へ進み、大方だいほう上原うわはら地籍を経て再び蟹沢村に入り、北国東街道は東南の蟹沢村境から西北へ村を縦断して川谷村に通ずる。また村の中南部で東街道から分岐して、南の鳥居川を渡り向原新田むかいはらしんでん集落を経て神代村に通ずる道(旧谷筋道)、中央部小日向こびなた地籍で東街道から分岐し東へ蟹沢村に通ずるたてはな渡船道があり、沿線に集落が散在する。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]溝口町大倉

大山南西麓の緩やかな高原台地上に位置する。北に大江おおえ川支流の深い谷をひかえ、東西は山に挟まれ、南北にやや長い集落を形成する。「伯耆志」「日野郡史」は村名由来を大倉和泉守の伝承によるとし、地内に大五輪塔を多数残すが、和泉守を裏付ける文献史料はない。地形上断崖の多い村であることから生じた村名とも考えられる。西の谷川たにがわ村から屈曲の多いさいノ峠を越えて当村に至る道は、東の富江とみえ村を経て大山道のうちの横手よこて道に連なる。拝領高は一三二石余、本免は五ツ二分。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]相川町大倉

南は大倉川を隔てて小田こだ村、北はわしりの中央の皇子おうじ滝を境に矢柄やがら村。集落は海岸低地に集まる。東は大佐渡山地で、大倉越といわれる尾根を越えて馬首うまくび(現両津市)に至る山道があり、えびす(現同上)を経て国仲くになか筋へ出る近道として重要であった。村の北端は大佐渡の山塊が直接海に落込む断崖で、通称わしり、または大倉走おおくらばしりとよばれ、海上が穏やかでも足を濡らす所や、岩の根伝いに進む親不知おやしらず子不知こしらずがある難所で、波立つときは回り道の山越えをした。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]船引町大倉

長外路ながとろ村の西に位置し、うつし川が北部を西流し、相馬へ至る道が東部の丘陵縁辺部を通る。集落は河谷平地や相馬道に沿って散在。大蔵とも書いた。中世は田村庄のうち。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 百九十文 大倉」、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「三段 三百文 大倉」とみえ、紀州熊野新宮に年貢を納めている。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]稲川町大倉

皆瀬みなせ川と成瀬なるせ川の複合扇状地の東、山麓の河岸段丘上にある。東は峰越えに猿半内さるはんない村(現平鹿ひらか郡増田町狙半内さるはんない)、南は東福寺とうふくじ村、西は三又みつまた村、北は熊淵くまふち(現増田町)と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に大倉村一八五石とある。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば高は本田二五一石九斗四升四合、新田一一六石四斗四升二合、合計三六八石三斗八升六合(当高三六〇石五斗二升五合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では家数五二軒。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]上野原町大倉

大曾根おおぞね村の北西、仲間なかま川下流左岸の段丘上に位置する。いわゆる仲間入五ヵ村の一で、西は芦垣あしがき村。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名がみえず、鶴川つるかわ村の高に含まれていたと思われるが、「甲斐国志」によると文禄検地時には高六五石余、家数は一一軒であったという。寛文九年(一六六九)の郡内領高辻帳では高七七石余。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]只見町大倉

伊南いな川左岸の河岸段丘上にあり、東は川を挟んで小林こばやし村。伊南川流域の和泉田組最下流の村。天正一七年(一五八九)の伊達政宗安堵状写(新編会津風土記)によると、簗取弥七郎が政宗から「下伊北一貫分 大蔵」などを安堵されている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「大蔵 弐百八石七斗五升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免四ツ七分。天明八年(一七八八)の廻国使案内手鑑(馬場家文書)では高二一五石余、免四ツ七分四厘八毛で年貢は三分一が米納、家数三五・人数一五二。化政期の家数は本村二四・上田うわだ一二で、村内に米倉があった(新編会津風土記)

大倉村
おおくらむら

[現在地名]大和町大倉

川棚かわだな新田・大倉新田の東、北は水無みずなし川対岸の桐沢きりさわ村、東・南は八海はつかい山の山裾が広がる。正保国絵図に村名があり、高四八石余。天和三年郷帳では高四七石六斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では枝村大倉新田と一村扱いで、高九八石二斗余。反別は田七町二反余・畑五町一反余。農間稼に女は蚕を飼う。家数二一、男九七・女六七、馬七。八海山登山の大倉口である字道上みちがみ坂本さかもと神社がある。八海神社の通称がある。八海山上の御室を本社とし、当社を里宮とする。もとは鳥居のみある遥拝所であったという。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]男鹿市脇本富永わきもととみなが 大倉

男鹿半島の南頸部、寒風かんぷう山の南東山麓の丘陵先端部に位置し、西に水田が広がる。丘陵からは縄文・弥生期の遺物が出土する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「大蔵村 松木沢村」として六二四石二斗九合とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には大蔵村九一石と記される。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には大倉村として本田当高一三〇石、本田並・新田高を合わせて一三四石三斗六升一合とある。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]美星町大倉

水砂みずすな村の北にあり、北・西は三山みやま村。検討の余地は残るが「小田郡誌」に収める天正三年(一五七五)一二月一八日の毛利輝元宛行状に「拾捌貫 大蔵村」とある。寛永備中国絵図では高二四八石余、松山藩領。正保郷帳では幕府領で、枝村に不堂村が載る。延宝五年(一六七七)の検地帳(美星町役場蔵)には古検反別二八町九反余とあり、田方二八町二反余・二三三石余、畑屋敷一六町余・七七石余。牛馬飼場の草山は八〇町余で、二五本分の桑年貢銀一匁二分五厘を上納し、漆五本・茶一八三株があった。文政一〇年(一八二七)三卿の一橋領となった。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]敦賀市大蔵おおくら

余座よざ村の東に位置する。字獅子ししたにに「延喜式」神名帳に載せる「大椋オホクラノ神社」が鎮座。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には大蔵村とみえ高三三二石余、正保郷帳では村切が行われて田方一二三石余・畠方六石余。天和二年(一六八二)小浜藩領より鞠山藩領となる。享保一二年(一七二七)には庄屋治兵衛(持高四石余)、牛馬銀一二匁、新山手銀一八匁、夫役二ツ、夫米一俵一斗余、馬足八、牝馬四、家数二二(うち高持一七・無高二・寺三)、人数九五(敦賀郷方覚書)

大倉村
おおくらむら

[現在地名]小原村大倉

田代たしろ川の中流域にあり、三角点は標高四一〇・三メートル。集落はてらしも皿田さらた・田面の五組に分れる。寛永郷帳では岡崎藩領、明治元年(一八六八)西尾藩領である。慶安三年(一六五〇)の三州賀茂郡小原之内岡崎領大蔵村検地帳(鈴木早苗氏蔵)には屋敷一四筆の面積と持主が書上げられている。「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば、明治一八年の戸口は二六戸・一二一人で、「旱損ノ憂少シアリ田代川溢テ水害等少シアリ」という。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]五泉市大蔵おおくら

早出はいで川右岸、大蔵山麓の扇状地末端に位置し、南は柄沢からさわ村に接する。中世は菅名すがな庄に属したが、慶長三年(一五九八)村上藩領となり、正保国絵図に二三〇石余と記される。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では笹堀組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高二三〇石五斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領、正徳元年(一七一一)高田藩領、のち白河藩領となり、文化年間(一八〇四―一八)の家数は五九(白川風土記)

大倉村
おおくらむら

[現在地名]守門村大倉

破間あぶるま川右岸の山手の奥にある。下手の三淵沢みふちさわ村・大倉沢おおくらさわ村・福田ふくだ新田の用水の水元に位置する。正保国絵図に村名がみえ、高三六石余。天和三年郷帳では高七八石五斗余。享保一四年(一七二九)の上条郷高帳(守門村史)では家数二〇・人数一六八。中越地方の豪雪地帯に分布する中門造の形式をもった近世初期の民家佐藤家住宅がある。棟札によると、元文三年(一七三八)の建設。広間型三間取りの本屋に、広間を中心に座敷(客間)・土間よりなる。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]和知町字大倉

由良川右岸に位置する。北方村界には六〇〇メートルほどの高山があり、その南斜面の台地を村域とする。人家は点在している。東は篠原しのはら村・市場いちば村、南は由良川を越えて小畑おばた村、西から北にかけては本庄ほんじよ村。園部藩領。

村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳では四三石余であったが、天保郷帳では一二九石余と三倍増した。

大倉村
おおくらむら

[現在地名]伊勢市大倉町

宮川下流近い右岸にある。近世は和歌山藩田丸領で、慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば村高九六石余、うち畑方が八〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報