小原村(読み)おばらむら

日本歴史地名大系 「小原村」の解説

小原村
おばらむら

[現在地名]白石市小原

東・東北は雨塚あまつか山・西にし山・鉢森はちもり山などの稜線で越河こすごう五賀ごか斎川さいかわ森合もりあいなどの村と境する。西はせき村・渡瀬わたらせ(現刈田郡七ヶ宿町)、東南は伊達だて(現福島県伊達郡国見町)、北は八宮やつみや村・長袋ながぶくろ村に接する。全村山地で、中央部を南から北に白石川が貫流し一部は深い峡谷をなす。北の蔵本くらもと村境地帯では沖積平野を形成する。市域南西隅の広い地域を占め、南部の白石川右岸に上戸沢かみとざわ・下戸沢、これらから北部白石川下流へ上小原・下小原の地域に区切られる。地名は当地の大熊おおくま館に小原掃部が居住したことにちなむという(安永風土記)

応永九年(一四〇二)一一月三〇日の国分河内入道宛の伊達家九代政宗の安堵状(国分文書)に「苅田郡平沢郷北方」の恩給地は越後入道宣久と談合し、先例にまかせて沙汰するよう指示しているが、「伊達正統世次考」の同一三年七月三〇日条では、この越後入道宣久を不詳としながらも「一族小原氏乎、領苅田郡小原邑、天文年中、有小原掃部丞宗綱者、子孫称越後、蓋例名乎」と説明している。伊達氏は八代宗遠の時、伊達郡からしち宿しゆく街道を通って出羽方面に進出しているからその通行路にあたる当地はその勢力下になったとみられ、小原氏が関与していたものと思われる。

小原村
おはらむら

[現在地名]嬉野町小原

中村なかむら川の上流、柚原ゆのはら川との合流点近くの山間部に位置する。西は清水しみず峠を越えてしもがわ(現美杉村)に連絡し、中村川上流沿いには小川おがわ(現上小川)白口しらくち峠を経て下多気しもたげ(現美杉村)、柚原川沿いには細野ほその峠を経て飯高いいたか坂内さかない(現松阪市)に連絡する。とくに北畠顕能が伊勢国司として上多気(現美杉村)に城館を構えてより、白口峠越による一志郡・飯高郡への分岐点として重要であった。小字に岩垣内いわかいと・垣内・西にし垣内・てら垣内などの垣内地名がある。

室町時代の「内宮年中神役下行記」に「御幣紙一束一帖、小原ト一志郡柚原ト各年ニ進、酒ヲ呑テ例飯廿五文下行、外宮同前云々」とみえ、御幣一束一帖を内外両宮に供進している。

小原村
おばらむら

面積:七四・八五平方キロ

村域西端を大平おおだいら川が、中央部から南西に犬伏いぬぶせ川が、北端から田代たしろ川が南流する。北西端の西にし山からおお蔵連ぞれ山一帯が最も険しく南部の矢作川沿岸に近づくほど低くなる。

矢作川沿いに西岸せいがん道、中央部を中央ちゆうおう道・飯田街道・松名まつな道・明智あけち道・多治見たじみ道が東西に通じ、田代川沿いに瑞浪みずなみ道が南北に縦断する。耕地・宅地面積は八八〇ヘクタールで総面積の一一・八パーセントにすぎず、他は山林原野である。松名・榑俣くれまた・田代・大ヶ蔵連から縄文時代の土器が出土。永太郎ええたろうからは弥生時代の土器が出土している。

小原村
おはらむら

[現在地名]金沢市小原町

山川やまご村の南西、うち川西岸の山腹に位置し、南はどう村。中世の大原おおはら新保の比定地。地内内川の大淵割おおふちわれ岩付近に長坂ながさか用水の取水口がある(皇国地誌)。集落の南方、兜山かぶとやまにはかむりだけ城と称する古城跡がある。富樫春長の居城跡と伝え、山麓には木戸口きどぐち木戸止きどどめ奥木戸おくきどといった地名も残り、往時には野々市ののいち(現野々市町)に通ずる街道が通っていたという(石川郡誌)。また地内の通称ボン寺の跡は龍蔵りゆうぞう寺の跡地とされる。

文明六年(一四七四)富樫幸千代に同心した加賀国守護代額熊夜叉の与力狩野伊賀入道は、一向一揆と戦って「小原山龍蔵寺白山拝殿」で切腹したという(白山宮荘厳講中記録)

小原村
おはらむら

[現在地名]上平村小原

葎島むくらじま村の東、庄川右岸の北向きの傾斜地にあり、庄川の峡谷沿いに東は猪谷いのたに村へ一一町余、西は細島ほそじま村へ一六町余、南北は山地で南方の山は人形にんぎよう山へ続き、小原谷が深く切込む。皆葎かいむくら村と葎島村へは籠渡しで庄川を渡る。籠綱総長三〇間、うち一二間半は両詰巻留間数、一七間半は籠通用間数。藤切人足・籠綱打立引渡人足は八五人ほど、うち六六人ほどは当村、八人ほどは葎島村、四人ほどは細島村、七人ほどは皆葎村(五ヶ山籠渡覚「十村宅左衛門覚」寿川区有文書)。永正九年(一五一二)三月二八日の年紀をもつ阿弥陀如来絵像(生田家蔵)の裏書に「上梨小原村」とみえ、天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(同家文書)の「上梨」の内に小原藤左衛門尉・小原道珍の名がある。

小原村
おばらむら

[現在地名]友部町小原

涸沼前ひぬままえ川左岸にあり、南は鯉淵こいぶち(現東茨城郡内原町)、西は市原いちばら村。中世は宍戸氏の支配下にあり、宍戸ししど城防衛を目的とする小原城が築かれていた。延元二年(一三三七)奥州から移った里見義俊が城主となり、永享元年(一四二九)には里見家基が久慈郡依上よりかみ(現大子町)を攻めた戦功で所領に那珂西郡を加えられ、その際に弟満致を当地に置いたが、天正年間(一五七三―九二)に里見氏は佐竹氏に敗れて廃城となる。

小原村
おおはらむら

[現在地名]明日香村大字小原おはら

飛鳥あすか村の東部に位置する。旧称は大原(大和志)。「続日本紀」天平神護元年(七六五)一〇月一四日条に「車駕巡歴大原長岡、監明日香川而還」とある大原の地であろう。「高市郡古跡略考」に、もと小原であったが、中古に大原とし、延享四年(一七四七)小原に改めたとある。寿永二年(一一八三)の興福寺政所下文(内閣文庫蔵)には「小原庄」とみえる。天正七年(一五七九)書写の多武峯縁起に「高市郡大原藤原第」と伝える大原藤原の地で、中臣氏邸宅があったという(和州旧跡幽考、大和志料など)

小原村
こばらむら

[現在地名]館山市小原

那古なご村の北東に位置し、どんどん川上流の谷奥にある稲原いなばら集落と、福沢ふくざわ川上流の小原集落の二地域からなる。稲原では縄文時代早期の貝塚が確認されており、黒曜石がつきささったイルカの骨が発見されている。また字鶴作つるさくや字すがいりなどに四六基の横穴墓群がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一七九石余(うち田一一九石余)、同一五年の里見家分限帳では一門の正木金太郎の給知となっている。

小原村
おわらむら

[現在地名]国東町小原

今在家いまざいけ村の南に位置、清流せいりゆう川が東流し、国東道が通る。東部は伊予灘に面して黒津くろつの集落があるが、「豊後国志」では次郎丸じろうまる村の枝村とする。中世は国東郷の内とみられる。天文一八年(一五四九)一月一二日の国東郷等大工職源董次覚書(今富文書)に小原・黒津とみえるが、同史料は検討を要する。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高九七二石余で、木村・松村・間野・服部四氏の知行で、家数一八三のうち本百姓・小百姓四四、隠居・名子・牛屋一二六、山守一、男一六〇(うち名子一四)・女一二九、牛六八・馬一二。

小原村
おばらむら

[現在地名]尾道市原田はらだ町小原

御調みつぎ郡の最東部に位置し、「苧原」とも記した。本郷ほんごう川支流域に平地があり、村北西部の清水迫しみずざこは本郷川本流の発源地。応仁三年(一四六九)二月二四日付細川勝元感状写(小早川家文書)に、去る二月一〇日の杉原苧原すぎはらおばらの合戦で、小早川熙平が戦功をたてたとあり、山名是豊の注進により感状が出されている。応仁の乱で西軍方のじび(現庄原市)の山内氏が中心となって、東軍の杉原氏の領土内苧原に南下したので、東軍は沼田小早川氏の援助でこれを撃退したことが知られる。

小原村
こばらむら

[現在地名]香住町小原

矢田やだ川を挟んで大野おおの村の対岸西方に位置し、南は中野なかの村、西は久斗山くとやま(現浜坂町)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「こはら村」とあり、当地には原源左衛門尉殿・同与三衛門殿などが住していた。また「くらはし村」とみえるのは地内の椋橋くらはし神社(椋橋大明神社)や同社別当寺の遍照へんじよう寺のことをさすのであろう。近世の領主の変遷は矢田村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二九九石余。出石封内明細帳では拝領高二九六石余・改出高二石余、これらの内訳は屋敷一石余・麻畑一石余・田方二〇七石余・畑方八八石余、ほかに古新発高五石余・新発高二一石余、家数六五・人数三五三。

小原村
おはらむら

[現在地名]勝山市北谷きただに町小原

滝波たきなみ川上流、取立とりたて(一三〇七・二メートル)高倉たかくら山に挟まれた峡谷の山村。西は木根橋きねはし村に至り、東は小原峠を越えて加賀国牛首うしくび(現石川県石川郡白峰村)に至る。永禄一一年(一五六八)六月二日の高村存秀当知行目録(平泉寺文書)に「一、壱石所 有坪小原村坂谷尾 雲翁成覚坊沽却」とみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。

小原村
おはらむら

[現在地名]小松市小原町

手取川支流の大日だいにち川流域にあり、大倉おおくら(六六〇・七メートル)の南東に位置する。白山麓十八ヶ村の一つ。山間の僻地のため他地方との交渉が少なかったという(能美郡誌)。近世の支配、近代初期の行政変遷はつえ村に同じ。慶長三年(一五九八)の検地では田三反余・畑一町三反余(新丸村の歴史)。越前国正保郷帳では田方六石余・畑方七石余。元禄一一年(一六九八)の十八ヶ村御高小物成帳(斎藤文書)では高一四石余・新田高七石余とあり、免六ツ八歩四厘、新田の免三ツ二分、家数四四、小物成として夫銀三三匁のほか夫綿銀二八匁余がある。

小原村
こばらむら

[現在地名]芸北町小原

米沢よねざわ村の南西にあって、村内で大暮おおくれ川と落合おちあい川が合流する。山野廻やまのまわり六ヵ村の最南に位置する。東は溝口みぞぐち村、西は細見ほそみ村、北は大暮村などと接する。村名は正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」にみえるが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では山野廻村に含まれた。慶長六年(一六〇一)の検地高は八六・二七石、その後、新開高も加わって享保一四年(一七二九)の地詰では八八・二二石。宝暦一〇年(一七六〇)より古地は定免六・八、新開地は定免四・九三(国郡志下調書出帳)。広島藩領で給知村。

農業を主とし、寒冷地ではあったが「用水井手水掛り旱之憂ひハ無之之土地、下木草は相応に御座候」という村柄であった。

小原村
おばらむら

[現在地名]白川町河岐かわまた 小原

飛騨川と白川の合流地点、両河川の左岸の山麓に位置する。北は白川を隔てて名倉なくら村・田代山寺たしろやまでら村、東は上田うえだ村・犬地いぬじ村、西は飛騨川を隔てて武儀むぎ大利おおり下金しもかね。近世初めは遠藤慶隆の所領で、本拠が当村に置かれていた。「美濃明細記」には遠藤慶隆が天正一五年(一五八七)郡上ぐじよう郡を領知していたが、豊臣秀吉に没収され小原に居し、のち郡上郡の旧領を賜うとある。現在しろ山とよばれる小山があり、堀という小字も残る。その後西尾忠永(上野白井藩)領、元和四年(一六一八)から旗本稲葉領、貞享元年(一六八四)より幕府領となり幕末に至る。慶長郷帳では高一〇八石余。正保郷帳では田方三六石・畑方七二石余、山年貢四斗余。

小原村
おばるむら

[現在地名]山鹿市小原

北部から西部を菊池川が流れ、東は志々岐しじき村、南は岩原いわばる(現鹿本郡鹿央町)と接する。年未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書)に相良宗頼領地として「山鹿郡小原村」とあり、元久二年(一二〇五)相良長頼が人吉ひとよし庄地頭職を得たのち、長頼の弟宗頼が所領としている。応安三年(一三七〇)一一月に小代重政は佐野七郎左衛門尉跡の当村を宛行われ(同一二日「室町幕府下知状」小代文書)、嘉慶二年(一三八八)一一月三日と応永八年(一四〇一)一一月三日に小代広行は将軍足利義満から安堵され(「足利義満御教書」同文書)、同一七年一二月三日には足利義持の安堵の御教書(同文書)を得ている。

小原村
おばらむら

[現在地名]三原市沼田西ぬたにし町小原

納所のうそ村の西にあり、沼田川を挟んで本郷ほんごう(現豊田郡本郷町)の南に位置する。三方を丘陵性山地で囲まれ、本谷ほんたに川などが北流して沼田川に合流する。中世は沼田庄安直あじか郷に含まれた。

安芸国豊田郡に属し、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では阿鹿あじか村に含まれ、寛文八年(一六六八)豊田郡安直之内小原村地詰帳(「三原市史」所収)に、畝数二五町九反余で分米二四五・四〇六石、うち田が一六町一反余で分米一九五・七九七石、畠が九町六反余で分米四七・六七四石、屋敷が一反余で分米一・九三五石とあり、このとき分村したとみられる。広島藩領で明知・給知。

小原村
おばらむら

[現在地名]庄内町庄内原しようないばる 小原

大分川左岸に位置し、西は武宮たけみや村。中世阿南あなん庄小原名の遺称地。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷蛇口組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高一〇六石余・畑高六二石余、阿南庄に所属。旧高旧領取調帳では高一八六石余。井手掛りは馬渡まわたり掘次井路一三九石余、武宮たけみや井路八石余(「府内藩日記」・三重野家文書など)。天満社・八幡宮・権現・御霊宮、小原氏館跡があった(雉城雑誌)。明治八年(一八七五)東家とうげ村と合併してはる(同一三年庄内原村と改称)となる。臨済宗妙心寺派大応だいおう寺は延暦二三年(八〇四)最澄の開基と伝え、延元年間(一三三六―四〇)足利尊氏が九州に下向する際、軍中の失火で焼失、大友氏泰が修復したと伝える。

小原村
おはらむら

[現在地名]姫路市飾東町小原しきとうちようおはら

飾東郡に所属。あま川上流にある天川あまかわ(谷外内ともいう)の奥に位置し、南は印南いなみ北野新きたのしん村。康正元年(一四五五)一〇月一三日の山名宗全判物(山内首藤家文書)によると、大国安法師丸跡の「餝東郡恒富保内小原村」などが山内泰通に宛行われている。恒富つねとみ保は当地を含む一帯に比定され、鎌倉時代からその名がみえる。

小原村
こばるむら

[現在地名]南関町小原

二城にじよう山の南西麓に位置し、村央を前田まえだ川が南流、東は相谷あいのたに村、西は関下せきしも村、北は関東せきひがし村、南は坂上さかのうえ村と接する。豊前街道が村央を東西に抜ける。寛文九年(一六六九)の「一統志」に村名がみえる。近世は南関手永に属する。元禄国絵図に「肥猪村之内小原村」とあり、肥猪こえい村からの分村。「国誌」には「高五百二十五石余、中尾村竹本村等小村アリ」とある。宝暦一四年(一七六四)の下ケ名寄帳では惣畝数四三町二反九畝余、分米五五八石九斗余、下ケ名に城ヶ下などがある。文政五年(一八二二)の南関手永略手鑑によると田二二町五反三畝余・畑二六町七反八畝余、竈数一〇五・人数五二四、馬八七、油本手一がいる。

小原村
こばらむら

[現在地名]赤坂町小原

倉敷往来に沿い、東は惣分そうぶん村・出屋いでや村。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)軽部かるべ庄に村名がみえる。「吉備温故秘録」は笹原ささはら庄の村とする。寛永備前国絵図では高五八三石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高六五七石余。貞享元年の荒などを引いた残高五八四石余。「備前記」に枝村奥小原おくこばら塩畠しおばたけが載る。享保六年(一七二一)には田畠四〇町九反余、家数五六・人数四五〇、池八(備陽記)。天保九年(一八三八)の「手鑑」(森文書)によると直高八二九石余、蔵入地と家臣八名の給地。

小原村
おばらむら

[現在地名]御嵩町小原

前沢まえざわ村の西にあり、南は謡坂うとうざか村。西流する可児川支流小原川沿いで南西にわずかに開ける。中山道が南部を通る。上之郷かみのごう一六ヵ村の一。当地の白山神社蔵大永四年(一五二四)一一月一日の社殿造立棟札に「春木上郷小原村」とみえる。元禄郷帳では高一二八石余、尾張藩領。「濃州徇行記」では田八町四反余・畑二町一反余・山五町余、千村氏分の林六反余、宮山四反余がある。家数三六・人数一七〇ほど、馬一二、三。

小原村
おばらむら

[現在地名]宇和町小原

宇和川支流のふか川の北にある村。東は清沢きよさわ村、西は両岩木りよういわき村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「小原村 茅山有、日損所」と記される。

太閤検地の石高は四七三石六斗七升四合、耕地面積の比率は田七八パーセント、畑二二パーセントであったが、寛文検地では石高が二四パーセントも減少し、田七一パーセント、畑二九パーセントとなっている。

小原村
おはらむら

[現在地名]余呉町小原

菅並すがなみ村の北、高時たかとき川上流右岸の山村。鎌倉時代、後嵯峨天皇の第三皇子が当地御所ごしよだいらに来て小原籠の製法を教えたと伝える。慶長七年(一六〇二)検地帳写(小原区有文書)によれば、畑高一一石余・反別二町七反余、田三石余・一町三反余。寛永石高帳に高一五石余とあり、下総古河藩領。領主の変遷は下丹生しもにゆう村と同様か。免定が多く残り、延宝四年(一六七六)は取米九石余(五ツ九分八厘余)、寛政五年(一七九三)取米七石余、ほかに口米・夫米・御伝馬入用・御蔵前入用銀五七九匁三厘。年不詳の覚では家数二七・人数一一六、牛一二、庄屋は一年ずつ回り持ちで勤めた。

小原村
おはらむら

[現在地名]大山町小原

熊野くまの川上流右岸、標高五〇〇メートルの台地上にある。北は隠土おんど村、東は七〇〇メートルの峠を越えて水須みずす村、西は熊野川沿いに河内かわち村。当村と河内村の標高差は一〇〇メートルもあり、地名の由来は山間の小平坦地で、急坂を登った所の別天地という意味である。正保郷帳の高二五石余、田方五反・畑方一町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高六五石、免二ツ五歩、小物成は山役六九匁・炭竈役六五匁・鮎川役三匁(三箇国高物成帳)

小原村
こばるむら

[現在地名]椎葉村松尾まつお 小原

水越みずこし村の東に位置する。下松尾掛一八ヵ村の一つで、松尾組に属する。寛永五年(一六二八)の椎葉山法度(相良家文書)に御朱印方の一人として「小はる主馬」の名がみえる。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として小原とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑八反余(高七斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。寛延四年(一七五一)の下松尾村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(相良家文書)では「綱乃尾山」に焼畑九九枚・九反余があり、その年貢米一石二斗余・取銀七三匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高六石三斗余。

小原村
こばらむら

[現在地名]日南町かすみ

生山しようやま村の西、蛇行しながら南東流する小原川(日野川支流)下流部の峡谷に位置し、集落はわずかな河岸堆積地に帯状に点在する。拝領高は四三石余、本免は五ツ九分。福田氏の給地であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六九石余、竈数一二。「伯耆志」では林五町二反余、家数一三・人数六九、鑪山として小原山があった。元禄二年(一六八九)当村の鉄山はお手山(藩営鉄山)の小原鉄山となったが、同一一年に民営に戻る(「久代家年来記」久代家文書)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると、鑪一に八〇匁、鍛冶屋一に六〇匁の運上銀が課されていた。

小原村
おはらむら

[現在地名]金屋町小原

早月谷はやつきたに川の最上流域に位置し、人家は麓から山腹にかけて散在、集落は中村番なかむらばん東番ひがしばんの二つに分れる。近世の石垣いしがき庄の東北端にあたり、東は山保田やまのやすだ楠本くすもと(現清水町)と接し、大月おおつき峠を越えて通ずる。小川おがわから早月谷を通り大月峠を越える道は高野詣の裏街道であった。慶長検地高目録によれば村高一六八石余、小物成六斗七升二合。

小原村
おはらむら

[現在地名]下津町小原

下津湾に注ぐ小原川上流域の小谷に沿う村。小原川を南にさかのぼると、長峰ながみね山脈を越える小原峠(小原越)に達し、有田郡宮原みやはら(現有田市)に下る道がある。小原峠には小堂があり、宝篋印塔があったことから土地ではなまって「ホケト越」とよんだ。「日本霊異記」下巻第二九に「海部あま安諦あてとに通ひて往き還る山に山道有り、号けて玉坂たまさかと曰ふ。浜中はまなかより正南を指して踰ゆれば、秦の里に到る」とある道は小原越と考えられる。

永仁六年(一二九八)一一月一九日の浜中南庄惣田数注進状写(又続宝簡集)に「三百三十歩 小原堂免」、元応二年(一三二〇)二月三日の浜中庄の寺用米代銭等注文(同集)に「小原則貞名三斗八升九合」とある。

小原村
おばるむら

[現在地名]熊本市御幸木部みゆききべ

東は隈庄くまのしよう往還、西は中木部なかきべ村・下木部しもきべ村、北は笛田ふえだ村・四才町しさいまち村である。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では上々田二反三畝・上田二反九畝余・中田三町八反三畝・下田五町七反五畝余・下々田四町二反三畝余、上畑二町五反一畝余・中畑一町四反二畝余・下畑二町五畝余・下々畑一町九反二畝余である。田迎手永に属し、宝暦一〇年(一七六〇)の下ケ名寄帳および本方の地引合帳によると惣畝数二三町余、うち御蔵納は田一四町三反四畝余・高一七八石八斗余、畑七町九反一畝余・高五八石五斗余で、他は新地・永荒などである。

小原村
おばらむら

[現在地名]篠山市小原

福井ふくい村の北にあり、大芋おくも川支流の藤坂ふじさか川が流れる。平安期から嶽修験の東の登り口として、大永たいえい寺や、戎大黒の石仏を安置する石蔵せきぞう院、毘沙門天を祀る岩窟などがあった。北西のはち山の尾根に大日堂があったが、のち里に移されている。本尊の木造大日如来坐像(県指定文化財)は平安後期作という。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「小原村」とみえ、高四六七石余。

小原村
こばらむら

[現在地名]美都町小原

朝倉あさくら村の北に位置し、南の一部が益田川支流の三谷みたに川右岸に接する。西は乙子おとこ(現益田市)。急斜面が多い山間地。石見安芸道都茂つも村・仙道せんどう村を経て当村の中央を蛇行し乙子村・益田村染羽そめば(現益田市)へ通じた。近世の領主の変遷は都茂村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一七八石余、年貢高は田方八四石余・畑方二五石余。

小原村
こばらむら

[現在地名]日野町小原

別所べつしよ村の西に位置し、小川尻おがわじり川の最上流にある村。南西の山道から茗荷みようが峠を越え備中国阿賀あが花見はなみ(現岡山県新見市)に至る。拝領高は五三石余、本免は四ツ五分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高八六石余、竈数八。「伯耆志」では林一〇町九反余、家数八・人数三六。天保九年(一八三八)には鍛冶屋一があり、運上銀六〇匁を課されている(「巡見一件諸事控」西古家文書)

小原村
おはらむら

[現在地名]八尾町小原

上黒瀬かみくろせ村の南、久婦須くぶす川左岸にある。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に「黒瀬内(中略)小原」とみえる。寛永一八年(一六四一)頃の諸寺道場締役覚書(聞名寺文書)に「小原村正信」とあり、八尾聞名もんみよう寺の道場役として綿高二五匁・代銀四匁余を納めていた。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは掛畑かけはた村などと合せて記される。

小原村
おばらむら

[現在地名]高遠町大字小原

高遠城下を東から西に流れる三峰みぶ川の南側の段丘上の山裾の村。東は勝間かつま、西は山田やまだの両村に接する。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「三百石六斗九升三合 小原」とあるのが初見である。村の西方、大沢おおさわ川が三峰川原に出る段丘崖上の台地に小原城跡があり、中世を通じて小原氏の居城であったと伝えられる。

小原村
おはらむら

[現在地名]十津川村大字小原

十津川筋の村で、もとの集落は環状曲流の緩傾斜に立地。「太平記」巻五の「大塔宮熊野落事」に「明レバ小原ヘト志テ、薪負フ山人ノ行逢タルニ」とある。当村のたき峠に護良親王の歌を刻んだ碑がある。裏面に「安政丁巳(四年)春吉辰」と刻銘。十津川郷のうち。寛永郷帳では「お原」とみえ、村高一八・六四石、幕府領。元禄郷帳では村高一九・八三三石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆一五〇本、檜角尺〆五〇本、煙草二四〇貫目、楮二〇貫目、割菜六〇貫目、炭一〇俵とみえる。

当村には十津川郷下組の宝蔵がある。また当地は川下りの舟の発着場でもあった。

小原村
おはるむら

[現在地名]緒方町小原 小原

小仲尾こなかお村の南西、北東流する奥岳おくだけ川西岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二七石余・畑高四九石余、奥嶽おくだけ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一〇五石余。安永七年(一七七八)には奥岳組に属し、同組大庄屋孫兵衛の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。岡藩小制札場が設けられていた(岡藩御覧帳細注)

小原村
おばるむら

[現在地名]旭志村小原

くら岳の西麓に位置し、妻越つまごし村に西接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると名請人三二人(うち屋敷持一二)、田五町八反余、畠・屋敷合一一町七反余、分米一五七石七斗。同一三年の検地帳では家数二七、人数二四(うち屋敷持一一)、牛九、田七町三反余、畠・屋敷合一六町四反余、分米二〇二石八斗余である。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳によれば、平川組に属し、戸数八・家数四二、人数四一(うち庄屋一・百姓五・小百姓二・名子四)、牛馬一六、高二〇二石八斗余。その後合志郡大津手永に属し、「国志草稿」は小村に「西小原 東小原 向小原等アリ」と記す。

小原村
こばらむら

[現在地名]佐伯町父井原ちちいばら

吉井川南岸、妙見みようけん山北麓に集落がある。西は父井ちちい村、吉井川対岸は川本かわもと村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一二石余。「備陽記」では田畠一町一反余、家数三・人数六〇、岡山城下京橋きようばしまで道程七里、船路は倉安くらやす川通り京橋まで一〇里半、高瀬船一。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば、直高九石余、家老土倉四郎兵衛の給地。

小原村
おばらむら

[現在地名]津山市小原

南は山北やまきた村・惣社そうじや村で、西北条さいほくじよう郡に属する。村の中央以東は平地部、以西は丘陵地で西端は神楽尾かぐらお山頂に至る。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳によると田方三九四石余・畑方五九石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では五四九石余で、うち改出高七七石余・開高一七石余。天保九年(一八三八)の津山領郷村帳では五五四石余。「作陽誌」によると五一戸・二二九人、天保九年の津山藩領郡村記録では四七戸・一八八人。

小原村
おばらむら

[現在地名]東和町小原

毒沢どくさわ村・浮田うきだ村の東に位置し、毒沢川(猿ヶ石川支流)上流沿いの平地と北上高地西辺丘陵に立地。応仁元年(一四六七)没した小原政直がつねもり館に居館したと伝える。寛文一〇年(一六七〇)の検地名寄帳写(小菅文書)では田方四九石余・畑方一四石余で、五人の高持百姓が耕作していた。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二一石余、七ヵ年平均の免は四ツ八厘八毛。

小原村
おはらむら

[現在地名]室生村大字小原

染田そめだ村東方、笠間かさま川左岸。「山辺郡誌」には「小原御原也」とあり、舎人親王の亡子三原王の小原山中蟄居にちなみ、御原の地名が起こったという説話を載せている。集落西方の高台地小字尾崎おざきに、室町時代小原実継の居城であった小原城跡がある。小字たにには小原氏が勧請したという八幡神社がある。

小原村
おはるむら

[現在地名]清川村六種むくさ 小原

宮津留みやづる村の南、奥岳おくだけ川西岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二一石余・畑高五五石余、宇田枝うたえだ郷に属し、日損所と注記される。寛延二年(一七四九)小原堤が完成した(地方温故集)。安永七年(一七七八)には日小田組に属し、当村に同組大庄屋日小田藤治の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

小原村
おわらむら

[現在地名]野津原町高原たかはら 小原

荷小野におの村の南にある。大野郡に所属。江戸時代を通じて岡藩領で、正保郷帳には尾原村とみえ田高五一石余・畑高四五石余、藤北ふじきた郷に含まれ、柴山有、日損所と注記される。元禄一三年(一七〇〇)の岡領郷帳(臼杵藩政史料)に「小原をわら村」とあり高九七石余。

小原村
おはらむら

[現在地名]上中町小原・みなみ

山内やまうち村の北に位置し、背後に山を負い前面に平地が広がり鳥羽とば川が流れる。永享四年(一四三二)一二月一三日付の明通寺寄進札に「鳥羽庄小原」とみえ、弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「二百七文 おはら両所」とみえる。

小原村
こばらむら

[現在地名]西伯町はら

原村の南、法勝寺ほつしようじ川と絹屋きぬや川に挟まれた平坦地に位置する。原村の枝郷であったが、年貢免状(西伯町誌)では正徳四年(一七一四)から本村原村のほかに、小原村分二〇九石余と分筆され、物成九二石余、九匁一分の藪運上も負担している。明治三年(一八七〇)正式に分村した(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二一一石余、竈数三七。

小原村
こわらむら

[現在地名]矢部町長原ながはる

長野ながの村の北東に位置し、北は桐原きりわら村・とどろき村に接する。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「こはらたよしの分 十八貫文」とみえる。慶長八年(一六〇三)長尾安右衛門に当村の総高七八石九斗八升が宛行われている(同年一二月九日「加藤清正黒印状」弥富文書)

小原村
こばるむら

[現在地名]大野町大原おおはる 小原

大鳥おおとり村の南、蛇行しながら南流する酒井寺さかいじ川東岸にあり、南西で同川が平井ひらい川に合流する。正保郷帳に村名がみえ、田高七四石余・畑高四三石余、一万田いちまんだ郷に属する。旧高旧領取調帳では高一七五石余。安永七年(一七七八)には酒井寺組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

小原村
こはらむら

[現在地名]多賀町小原

しもはら村の南、南流する犬上川(北谷)の東にある。寛永石高帳に高一一二石余とあり、旧高旧領取調帳で一一八石余となる。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男六九・女六三、寺社方男一・女一。寛政元年(一七八九)五月六日夜より出火して五軒焼失、これ以前の明和八年(一七七一)三月にも一二軒が焼失している(「多賀大社頭人名書」城貝文書)

小原村
おばるむら

[現在地名]西郷村小原

立石たていし村の西に位置し、耳川が流れる。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高四三石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚では高四二石余・内検高五一石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)では高四二石余・出高一五石余、新田高五石余・出高三石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳によると高五七石余(うち前々より改出高一五石余)・新田高九石余(うち前々より改出高四石余)

小原村
こばらむら

[現在地名]印南町小原

真妻まづま山の南東麓、切目きりめ川沿いにある山間の小村。南西は皆瀬川かいぜがわ村。近世初頭は松原まつばら村に含まれており、慶安(一六四八―五二)頃分村したという(続風土記)。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば田畑五町五反余で高六一石余、家数二〇で内訳は庄屋・年寄各一、本役六、無役九など、人数七三、牛二、馬四、鉄砲二。

小原村
おはらむら

[現在地名]金沢市菱池小原町ひしいけおはらまち

魚帰うおがえり村の南西に位置。正保郷帳では魚帰村と並記され、高四九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二八石、免五ツ五歩、小物成は山役一〇六匁・蝋役一匁・漆役一匁・炭役三匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数三・百姓数四(高免付給人帳)

小原村
こばらむら

[現在地名]佐治村小原

佐治川下流部南岸に位置し、集落は河岸段丘上の斜面にある。対岸は葛谷かずらたに村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「ヲハラ」と訓ずる。拝領高一二石余、本免三ツ八分。寛政一一年(一七九九)の智頭郡下構村々高物成等覚(竹本家文書)では朱高一四石余に対して今高二五石余、物成八石余、柿役四斗余が課されていた。

小原村
こはらむら

[現在地名]天川村大字北小原きたこばら

沢原さわばら村の対岸に立地。天川郷のうち。慶長郷帳では村高一六・〇四四石、幕府領(代官大久保長安)

小原村
おばらむら

[現在地名]椎田町小原

山本やまもと村の南に位置し、真如寺しんによじ川中流域の河岸段丘上に立地する。元和八年人畜改帳では家数四四・人数六六(うち百姓一〇・名子六)、牛一五・馬三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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