在家(民屋)(読み)ざいけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「在家(民屋)」の意味・わかりやすい解説

在家(民屋)
ざいけ

本来は、出家に対して、在俗のまま仏道に入ること、またはその人をさす語であったが、平安中期以後、「民屋」をさす語が新たに登場する。ことに11世紀末以降の中世荘園(しょうえん)=公領体制下において、住居宅地、それに付属する園・畠などを在家とよび、それを単位に在家役という課役を徴収した。在家役は、制度的には律令(りつりょう)体制下の人頭制方式の崩壊する過程で、郡司(ぐんじ)などの国衙(こくが)勢力によって創設され、やがて荘園制の収取制度の一つとなる。一方在家そのものの成立の面からみると、律令体制下では経営単位として未成熟であった農民的「イエ」が、この時期一定の家産を形成し、経営体としてようやく自立したことを示しているという説もある。在家は1宇(う)、2宇など「宇」で数えられるが、その形態、規模などは地域や時期によって差異がある。畿内(きない)・近国では平民百姓の経営単位としての家が在家として把握され、それが名(みょう)編成を補完する役割をもっていた。一方、東国・辺境地帯では名編成が十分に進まず、田在家(たざいけ)のような形で在家が収取の基本単位となることも多かった。また、後者の地域では、領主との関係でも隷属性が強く、その規模においても、のちに在家集落を形成するような大規模なものも存在した。したがって、在家の性格についても、その地域差のため隷属性を強調する説と、そうでない説に分かれている。また、都市や都市的場(市場・港町)などでも住居が在家として把握され、夫役(ぶやく)や地子(じし)、そのほか非農業的な生産物などがそれを通して徴収された。時代が下ると、在家は新しい経営単位、脇(わき)在家を分出する。本在家―脇在家の関係はその村落・集団内の身分的位置を示しており、近世以降の本家―分家関係に比する説もある。在家は中世後期にもみられるが、荘園=公領体制が実を失うにしたがってその使用頻度は減少し、「在家一宇」の表現は「家敷一間(やしきいっけん)」などの表現に変わってゆく。

[飯沼賢司]

『永原慶二著『日本封建制成立過程の研究』(1961・岩波書店)』『誉田慶恩著『東国在家の研究』(1977・法政大学出版局)』『豊田武著『豊田武著作集 第7巻』(1983・吉川弘文館)』『戸田芳実著『日本領主制成立史の研究』(1967・岩波書店)』『大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』

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