大和郡山(読み)やまとこおりやま

精選版 日本国語大辞典 「大和郡山」の意味・読み・例文・類語

やまとこおりやま やまとこほりやま【大和郡山】

奈良県北西部の地名。旧平城京の南端に当たる。江戸時代柳沢氏一五万石の城下町として発達紡績工業が行なわれ、金魚養殖や苺などの園芸作物の栽培も盛ん。昭和二九年(一九五四市制

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デジタル大辞泉 「大和郡山」の意味・読み・例文・類語

やまとこおりやま〔やまとこほりやま〕【大和郡山】

奈良県北西部の市。江戸時代は柳沢氏の城下町。電子・食品などの工業や江戸時代以来の金魚の養殖が盛ん。人口8.9万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「大和郡山」の意味・わかりやすい解説

大和郡山[市] (やまとこおりやま)

奈良県北西部の市。1953年郡山町に平和,矢田,治道(はるみち),昭和の4村が編入,翌54年大和郡山町と改称して市制。人口8万9023(2010)。西部は矢田丘陵の東斜面にあたり,北西部は西ノ京丘陵の南端部を占め,その地形を利用して郡山城下が形成された。両丘陵間には富雄川が南流している。東部は奈良盆地低部にあたる農業地帯で,佐保川が貫流する。郡山の本格的な発展は,1585年(天正13)豊臣秀長が入り,本格的な築城と城下町経営に着手してからである。近世には柳沢氏15万石の城下町として栄えた。今日も街路,掘割,地名などに旧城下町の面影をよく残し,毎年4月の桜の季節にはお城祭が行われにぎわう。南西部の小泉には小泉藩片桐氏の陣屋が置かれた。江戸時代に藩主柳沢氏のすすめで,武士内職として興ったキンギョの養殖は,今日も西ノ京丘陵周辺で盛んに行われている。大和木綿の伝統をつぐ繊維関係の工場も多く,南部の昭和工業団地には,主として機械工業や食品,プラスチック関係の工場が立地している。JR関西本線,近鉄橿原線が通り,西名阪自動車道のインターチェンジがある。農業は米作を中心に,イチゴ,トマト,ナスなどの野菜類,桃,柿などが栽培される。矢田丘陵には奈良時代の創建になり,満米上人以来の地蔵信仰とアジサイの寺として著名な矢田寺(金剛山(こんごうせん)寺),舎人親王の建立と伝え,厄除け観音で参詣者の多い松尾寺,小泉藩主で茶道石州流の祖片桐石州(貞昌)の手になる庭園(史・名)で名高い慈光院や県立民俗博物館などがあり,県立自然公園に指定されている。東部の稗田は代表的な環濠集落として知られる。
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西ノ京丘陵南端の台地に位置し,室町時代に在地領主により郡山城が築かれたのがはじまりである。付近には東大寺領薬園(やくおん)荘があり,奈良時代の殖槻(うえつき)寺も存在したと考えられている。郡山城を築いた在地領主らは薬園荘の荘官とみられる。1580年織田信長は郡山城を筒井順慶に与え,順慶は大増築を施工したが,85年豊臣秀長が筒井氏に代わって入城,大和,紀伊および和泉3国の主都として城郭を整備,城下町郡山を拡張・経営した。江戸幕府のもとでは,幾度か藩主の交替を経たが,1724年(享保9)以降は柳沢氏の郡山藩15万石の城下町として明治に至った。

 豊臣秀長は城下町の繁栄を図り,一時多武峰(とうのみね)を郡山に遷座するなどしている。秀長時代に成立した本町,今井町など13町と近世中期までに成立したその枝町とを総称して内町といい,地子免除の町方であった。秀長の地子免除の朱印状を納めた箱を各町が1ヵ月ずつ持ち回り,箱を預かった町の年寄が箱本(はこもと)として全町を管掌する定めであった。のち周辺に外町が形成されて内町27町・外町13町の40町となったが,〈箱本十三町〉の称は残った。〈町鑑〉によると1724年当時,家数は内町1855・外町1801,人口は内町7038・外町6220であった。北大和の商圏を奈良と東西に両分し,特に農村の綿作などを掌握して町勢をあげた。
郡山藩
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