楠木正成(読み)くすのきまさしげ

精選版 日本国語大辞典 「楠木正成」の意味・読み・例文・類語

くすのき‐まさしげ【楠木正成】

南北朝時代の武将。幼名、多聞丸。河内の人。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。河内赤坂城、のち千早城に拠り、巧みな兵法と知略で幕府の大軍を防ぐ。建武の新政府が成立すると、記録所寄人・雑訴決断所奉行など中央政界で活躍するとともに河内、和泉の守護となった。のち建武政権に反した足利尊氏との湊川の戦いで敗北し、弟正季とともに自刃した。大楠公。建武三年(一三三六)没。

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デジタル大辞泉 「楠木正成」の意味・読み・例文・類語

くすのき‐まさしげ【楠木正成】

[1294~1336]南北朝時代の武将。河内の土豪。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に応じ、幕府軍を相手に奮戦。建武の中興の功績で河内の国守と守護を兼ね、和泉いずみ守護となった。のち、足利尊氏あしかがたかうじと摂津湊川みなとがわで戦い、敗死。大楠公だいなんこう
直木三十五の時代小説。昭和7年(1932)刊行。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楠木正成」の意味・わかりやすい解説

楠木正成
くすのきまさしげ
(1294―1336)

鎌倉末・南北朝時代の武将。父は楠木正遠(まさとお)と伝えられる。幼名を多聞丸(たもんまる)、のち兵衛尉(ひょうえのじょう)と称する。1331年(元弘1)8月、後醍醐(ごだいご)天皇の呼びかけに応じて、笠置(かさぎ)に参向し、のち赤坂(あかさか)城(大阪府南河内(みなみかわち)郡千早(ちはや)赤坂村)に挙兵した。挙兵準備の一環として和泉(いずみ)国若松荘(わかまつのしょう)(大阪府堺(さかい)市)に乱入し、兵糧米(ひょうろうまい)を徴発したため、悪党(あくとう)楠木兵衛尉とよばれた。赤坂城には尊良(たかなが)親王、護良(もりよし)親王らも立てこもったが、鎌倉幕府軍の猛攻によって陥落させられた。32年、護良親王が吉野で挙兵したのに応じて、正成も千早城(南河内郡千早赤坂村)で再挙した。同年12月、赤坂城を占拠していた湯浅(ゆあさ)党を降(くだ)して根拠地を奪回し、翌年1月には、和泉の守護軍、河内の守護代と戦ってこれらを駆逐し、南河内から和泉の地域を支配下に入れた。さらに、摂津に進撃して、四天王寺(してんのうじ)の合戦で、隅田(すだ)、高橋の両将が率いる六波羅(ろくはら)軍を撃破した。正成の行動に呼応して、畿内(きない)から西国にかけては、河野(こうの)水軍や赤松一族が反幕運動を展開し始めた。鎌倉幕府は、大仏家時(おさらぎいえとき)らを大将とする大軍を西下させて、反幕行動を一挙に鎮圧しようとした。このため、33年(元弘3・正慶2)2月には赤坂城が落ち、閏(うるう)2月上旬には吉野の砦(とりで)も壊滅した。しかし、正成が立てこもった千早城は、鎌倉軍の猛攻に耐え続け、反幕府勢力結集の時を稼ぎ、後醍醐天皇の隠岐(おき)脱出、赤松則村(円心(えんしん))らの六波羅攻撃を可能にした。

 1334年(建武1)建武(けんむ)政権の樹立とともに、従(じゅ)五位下検非違使(けびいし)、左衛門少尉(しょうじょう)に任ぜられ、河内・摂津の守護となった。さらに、恩賞方(おんしょうがた)、記録所の寄人(よりゅうど)、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)の奉行(ぶぎょう)にもなり、新田義貞(にったよしさだ)、名和長年(なわながとし)らと武者所(むしゃどころ)に勤務したが、その栄達ぶりを世人は結城(ゆうき)、名和(なわ)(伯耆守(ほうきのかみ))、千種(ちぐさ)とあわせて「三木一草」と称した。天皇の信任も厚く、二条富小路(にじょうとみのこうじ)に屋敷を構え、名和長年、結城親光(ちかみつ)とともに天皇の身辺を警護した。35年(建武2)、中先代(なかせんだい)の乱を鎮圧するために鎌倉に向かった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、同年末、新田義貞誅伐(ちゅうばつ)を名目に挙兵し京都に迫ったとき、正成は、後醍醐天皇とともに叡山(えいざん)にこもって尊氏軍の糧道を絶つ一方、北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍と共同して、京都糺(ただす)の森において尊氏軍を破り、これを九州へと放逐した。しかし、36年(延元1・建武3)5月、態勢を立て直して東上する尊氏軍と兵庫湊川(みなとがわ)(兵庫県神戸市)において激戦のすえ敗北し、弟正季(まさすえ)とともに自刃した。「今度ハ君ノ戦必破ルベシ。正成和泉河内両国ノ守護トシテ勅命ヲ蒙(こうむ)ル間、軍勢ヲ催スニ、親類一族猶以(なおもって)難渋ノ色アリ、何ニ況(いわん)ヤ、国ノ人民ニヲイテヲヤ、是則(これすなわち)、天下君ヲソムケ奉ル証拠ナリ」(梅松論)との、湊川の戦いへ向かう途中、朝廷へ上奏した最後のことばからは、正成が歴史の趨勢(すうせい)を洞察しうる正確な判断力をもった武将であったことが知られ、金剛寺などに残された書状などからその風格をしのぶことができる。

[佐藤和彦]

『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院)』『藤田精一著『楠氏研究』(1933・積善館)』『植村清二著『楠木正成』(1966・至文堂)』


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改訂新版 世界大百科事典 「楠木正成」の意味・わかりやすい解説

楠木正成 (くすのきまさしげ)
生没年:?-1336(延元1・建武3)

鎌倉時代末~南北朝時代の武将。橘正遠の子というが出自は不明。金剛山のふもと赤坂を本拠とし,和泉,北紀伊にもかかわりを持つ。鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇は,蔵人日野俊基,醍醐寺報恩院の文観,道祐を通じて正成を反乱計画に引き入れ,1331年(元弘1)兵衛尉正成は,後醍醐が道祐に与えた和泉国若松荘の所領に姿を現す。後醍醐挙兵後は悪党として追及され,本拠赤坂城で幕府軍と戦ったが敗北,吉野の護良親王と連繫しつつ潜行する。32年末,後醍醐,護良に与えられたとみられる左衛門尉の官途を名のって紀伊北部に出現,湯浅氏を破って味方とし,翌年摂河泉に進出,天王寺,赤坂城,千早城などに幕府の大軍を引きつけ,野伏を駆使,飛礫(つぶて)を打つなど,悪党的戦法によってこれを悩ました。この大功により,後醍醐の新政府成立後,検非違使,河内守,河内・和泉の守護として,記録所,雑訴決断所など,新政の多くの機関に名を連ね,河内国新開荘,土佐国安芸荘,出羽国屋代荘,常陸国瓜連等,多くの所領を与えられ,名和長年,結城親光,千種忠顕とともに三木一草の一人としてもてはやされた。しかし,34年(建武1)の護良失脚後,新政府内での動きは精彩を欠き,紀伊飯盛山の北条氏余党の反乱鎮圧に出動したが,まもなく斯波高経と交替している。36年,新政府に反した足利尊氏,直義が入京するや,いったんこれを九州に追ったが,その大胆な献策を朝廷にいれられぬまま,再挙東上した尊氏らの軍を兵庫の湊川で迎えうち,敗死した(湊川の戦)。

 《太平記》はその出生を信貴山の毘沙門天に結びつけ,智謀無双の悪党的武将の典型として正成を縦横に活躍させ,怨念に満ちた凄絶な最期を描き,直ちに怨霊として登場させている。こうした《太平記》の描く正成像はその普及とともに,強い影響を与えた。室町期から江戸初期にかけて,楠木流の兵法,政道に関する多くの書物や,〈非理法権天〉の法諺を正成の軍旗に結びつける説なども現れ,由井正雪は楠木流兵法を唱え,正成・正行にかかわる偽文書も盛んに作られた。一方,儒学者により正成は忠孝の臣とされ,とくに水戸学は南朝正統論と結びつけて,正成を称揚,崇拝の対象とした。明治以後,敗戦までの正成像は,その流れを汲んだ虚像であり,戦後,ようやく正確な実像が追究されるようになった。
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百科事典マイペディア 「楠木正成」の意味・わかりやすい解説

楠木正成【くすのきまさしげ】

南北朝時代の武将。1331年後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐に参加し河内(かわち)赤坂城に挙兵。翌年河内千早城で幕府軍を支え諸国に反幕軍の蜂起を促した。建武新政により河内守および摂津(せっつ)・河内・和泉(いずみ)3国の守護。足利尊氏が離反するやこれを九州に駆逐したが,再起した尊氏の大軍を湊川に迎え撃って敗死。
→関連項目赤坂城赤松則村悪党楠木正行楠木正儀元弘の乱島本[町]千早赤阪[村]千早城天王寺湊川神社湊川の戦渡辺津

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朝日日本歴史人物事典 「楠木正成」の解説

楠木正成

没年:建武3/延元1.5.25(1336.7.4)
生年:生年不詳
鎌倉末・南北朝初期の武将。橘正遠の子というが出自未詳。河内金剛山の麓を本拠とする。楠木氏は武蔵国御家人で北条氏の被官となり,得宗領河内国(大阪府)観心寺地頭職にかかわって河内に移ったものと推定される。元亨2(1322)年,正成が得宗北条高時の命で,紀伊国(和歌山県)保田荘司湯浅氏を討ち,阿弖河荘を与えられたという『高野春秋編年輯録』の記事は恐らく事実であろう。得宗被官でありながら正成は律僧文観,これに心服する醍醐寺報恩院道祐の働きかけで,後醍醐天皇の討幕計画に加担,元徳3(1331)年2月,後醍醐が道祐に与えた和泉国若松荘に所領を得た。この年,後醍醐が挙兵すると正成は「悪党楠兵衛尉」として鎌倉幕府の追及を受け,赤坂城で幕府軍と戦って敗北,身を隠すが正慶1(1332)年末に後醍醐・護良親王から与えられた左衛門尉の官途を名乗って紀伊北部に出現,湯浅氏と戦ってこれを味方とし,翌年摂河泉に進出,天王寺,赤坂城,千早城などに幕府の大軍をひきつけ,野伏を駆使し,飛礫を打つなどの悪党的戦法によってこれを悩まし,後醍醐の討幕を成功に導いた。この大功により,後醍醐の新政府のなかで正成は記録所,恩賞方,雑訴決断所などの重要機関に名を連ね,検非違使,河内守,河内・和泉の守護となり,河内国新開荘,土佐国安芸荘,出羽国屋代荘,常陸国(茨城県)瓜連など多くの所領を与えられ,名和長年,結城親光,千種忠顕と共に,三木一草のひとりとしてもてはやされた。しかし建武1(1334)年の護良失脚後は,紀伊飯盛山の北条氏与党の反乱鎮圧に出動しているが,まもなく斯波高経と交替するなど,その動きは精彩を欠く。延元1(1336)年,新政府に反した足利尊氏・直義が入京するや,一旦はこれを九州に追ったが,尊氏と手を結ぼうとする献策が朝廷に容れられず,敗戦を見通しつつ再挙東上してきた尊氏・直義の軍を兵庫の湊川で迎え撃ち,敗死した。『太平記』は正成を悪党的武将の典型として,その怨念に満ちた凄絶な最期までを生き生きと描き,後世に強い影響を与えた。<参考文献>植木清二『楠木正成』

(網野善彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楠木正成」の意味・わかりやすい解説

楠木正成
くすのきまさしげ

[生]?
[没]延元1=建武3(1336).5.25. 湊川
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。河内の土豪。正成以前の楠木氏については不明。元弘1=元徳3 (1331) 年,後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し,河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。翌年千早城を築いて籠城し,幕府軍の猛攻に耐え,諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により,河内,和泉の守護,河内の国守に任命された。建武2 (35) 年足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと,新田義貞らとともにこれを討ち,いったんは撃退した。翌延元1=建武3 (36) 年尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際,摂津湊川にこれを迎撃して敗死。明治になって湊川神社に祀られ,正一位を追贈された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「楠木正成」の解説

楠木正成
くすのきまさしげ

?~1336.5.25

南北朝期の武将。父は正遠(まさとお)というが不詳。兵衛尉・左衛門尉。河内国石川郡赤坂(現,大阪府千早赤阪村)に居館があった。北条氏得宗家の被官であった可能性が高いが,文観(もんかん)らを通じて後醍醐天皇と結びついたと思われる。元弘の乱で,後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵するが落城。翌年冬に再度挙兵,千早城に幕府の大軍を引きうけて悪党的戦法で悩ませた。これらの軍功によって,建武政権下で河内国司,河内・和泉両国守護となり,記録所・恩賞方・雑訴決断所などの枢要機関にも参画。1336年(建武3・延元元)2月,関東から上洛した足利尊氏を九州へ敗走させたが,5月に尊氏の東上を摂津国湊川(現,神戸市中央区・兵庫区)に迎えうって敗死。

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旺文社日本史事典 三訂版 「楠木正成」の解説

楠木正成
くすのきまさしげ

?〜1336
鎌倉末期・南北朝時代の武将
河内国の土豪。1331年元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇の鎌倉幕府征討に参加し,河内の赤坂城・千早城で幕府の大軍と戦い活躍。その功により建武新政府のもとで河内守に任じられ,河内・摂津・和泉3国の守護,記録所の寄人 (よりゆうど) となる。'35年建武新政府にそむいた足利尊氏を九州に敗走させたが,翌年大挙東上した尊氏を摂津国湊川 (みなとがわ) に迎え撃って敗死した(湊川の戦い)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楠木正成」の解説

楠木正成 くすのき-まさしげ

?-1336 鎌倉-南北朝時代の武将。
河内(かわち)(大阪府)赤坂の土豪。元弘(げんこう)元年(1331)後醍醐(ごだいご)天皇の呼びかけに応じて挙兵。配下の武士団をうごかして奇策を駆使,赤坂城・千早城の戦いなどで幕府軍をくるしめる。建武(けんむ)政権下で摂津守,河内守。建武3=延元元年足利尊氏と摂津湊川(兵庫県)でたたかい,5月25日敗れて自刃した。
【格言など】誉れを求めんより恥をいとえ

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世界大百科事典(旧版)内の楠木正成の言及

【赤坂城】より

…河内国石川郡赤坂(現,大阪府南河内郡千早赤阪村)にあった山城。上・下の2城からなり,元弘の乱にさいし楠木正成が挙兵した城として著名。正成は1331年(元弘1)後醍醐天皇の笠置没落とともに挙兵した。…

【和泉国】より

…しかし鎌倉幕府の保守的な荘園政策によって在地領主としての発展の道を閉ざされた土豪の中には,〈悪党〉として特異な活動に出る者が輩出した。1332年(正慶1)和泉若松荘を中心とする河内・和泉北部の街道幹線を押さえていた悪党楠木正成は,和田氏ら近隣の小土豪を勢力下に収め,やがて元弘・建武の争乱には後醍醐天皇の与党として,南朝の有力な軍事力となる。36年(延元1∥建武3)室町幕府が開創されると,初代の守護に畠山国清が命ぜられるが,当国は南朝方の重要な戦略地であり,南北朝争乱の過程で軍事指揮の責任を問われ,守護はその後もしばしば更迭された。…

【大森彦七】より

…誠に血気の勇者と謂(いい)つべし〉とたたえられている。ことに,有名な湊川の合戦で足利方の細川定禅に従って活躍し,楠木正成を死地に追い込んだのは生涯の面目であった。この彦七が伝説的人物として後世に名を伝えるきっかけとなったのは,湊川合戦の直後に彦七が,その刀を奪い取ろうとする正成の亡霊たる鬼女に遭遇し,錯乱状態に陥ったが《大般若経》の功徳で救われたという《太平記》の所伝による。…

【千早城】より

…千剣破城とも書く。1331年(元弘1)赤坂城から落ちた楠木正成(くすのきまさしげ)は翌年冬,当城を築いて再起した。33年1月,鎌倉幕府は護良(もりよし)親王の拠る吉野と当城に大軍をさしむけた。…

【野伏】より

…領主にとって野伏を無視して戦いを遂行することは,南北朝以後ほとんど不可能になっていた。1333年(元弘3)1月楠木正成が摂津天王寺で宇都宮公綱(きんつな)と合戦した際には,〈和泉・河内ノ野伏共ヲ四五千人駈(かり)集テ〉(《太平記》巻六)いる。正成が関東の大軍を前にして不死鳥のごとく赤坂城,千早城で戦いえたのも,土地の地理に明るくゲリラ戦を得意とする野伏を組織していたためで,現体制に不満を有する農民層の支持を得ていたからである。…

【湊川神社】より

…神戸市中央区にあり,楠木正成をまつる。1336年(延元1∥建武3),正成は九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃ち,ここで敗死した。…

【湊川の戦】より

…同年1月京都を駆逐されて翌月九州に逃れた足利尊氏・直義は,4月大軍を集めて博多を発し,尊氏は海路,直義は陸路を進んで畿内に迫り,四国勢を率いた細川一族も海上で主力と合流した。建武新政府は新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ,義貞は和田岬に,正成はその西の湊川に布陣した。5月25日,四国勢は岬の前を迂回して生田に上陸し,尊氏軍の主力は和田岬に上陸して新田軍を攻めたので,新田軍は京都に向かって敗走した。…

【吉水神社】より

…奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座。後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。…

※「楠木正成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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