合志(市)(読み)こうし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「合志(市)」の意味・わかりやすい解説

合志(市)
こうし

熊本県中北部にある市。2006年(平成18)菊池(きくち)郡合志町、西合志町(にしごうしまち)が合併、市制施行して成立。市域は、ほぼ全域が火山灰土壌で覆われた合志台地上に広がる。北部には北西流する塩浸(しおひたし)川(合志川支流)によって開析された低地がある。国道387号が縦走し、九州自動車道が南部を横断。御代志(みよし)を起点に熊本市街とを結ぶ熊本電気鉄道が走る。

 北西部の丘上に縄文後期から晩期の二子山石器製作遺跡(ふたごやませっきせいさくいせき)(国指定史跡)がある。10世紀末、竹迫(たかば)付近に大宰府安楽(あんらく)寺領の合志荘が成立。ほかに比叡山延暦寺領の合志荘もあったとみられる。建久年中(1190~1199)中原師員(もろかず)が合志郡地頭職に任じられて竹迫に下り、のち竹迫氏を称して竹迫城に拠ったという。南北朝期、竹迫定種は肥後南朝方の菊池氏に属した。一方、延暦寺領の奉行として1337年(延元2・建武4)に佐々木長綱が下向、合志氏を称し、北朝方に属して菊池氏などに対抗、竹迫城、鳥栖原(とりのすばる)などは合戦場となった。代々竹迫城に拠った竹迫氏は16世紀前半に豊後に移住。代わって合志隆岑(たかみね)が竹迫城に入り、合志全郡を領したが、1585年(天正13)薩摩の島津氏に攻め落とされた。竹迫城は、1587年の豊臣秀吉の九州平定の際、薩摩へ撤退する島津氏によって焼却された。1588年に肥後国北半を領した加藤清正は、水の便の悪い肥後台地の開墾を意図して、現市域の南端部を流れる堀川を開削したとされる。江戸時代、竹迫は熊本城下より北方約五里に位置し、隈府(わいふ)町(現、菊池市)に至る南北の往還と、東西の往還が交わる交通の要所となり、月に10日ずつの市が開かれ、町場化した。竹迫町西方、鹿水(しかみず)村(現在の栄(さかえ)地区)も竹迫町に次ぐ交通の要所として賑わった。第二次世界大戦前までは桑園が広く分布し、麦、陸稲、豆、サツマイモなどが自給作物として栽培されていた。近年は熊本市に隣接した南西部一帯で市街地化が進み、ベッドタウン化が著しい。北部は県内有数の穀倉地帯で、米作のほか葉タバコ、花卉栽培、蔬菜園芸、畜産などが盛ん。とくにスイカは特産として知られる。面積53.19平方キロメートル、人口は6万1772(2020)。

[編集部]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例