合志郡(読み)こうしぐん

日本歴史地名大系 「合志郡」の解説

合志郡
こうしぐん

肥後国中部を流れる白川と北部を流れる菊池川に挟まれた阿蘇外輪山くら岳から西に延びる台地、その縁辺台地下の水田地帯、台地の真ん中を流れる合志川流域の水田地帯からなり、東は阿蘇郡、北は菊池郡、南は託麻たくま郡・飽田あきた郡、西は山本やまもと(貞観二年以前は玉名郡)に接する。「和名抄」東急本国郡部には「加波志」と訓を付し、合志・小川おがわ山道やまじ鳥嶋としま口益くちます鳥取ととり六郷があげられている。ただしこれは貞観元年(八五九)当郡の西部(北流する合志川以西)を分って山本郡をたてたのちのことであり、それ以前には肥後唯一の大郡であった可能性が強い。「日本書紀」持統天皇一〇年四月条に「肥後国皮石郡人壬生諸石授追大弐」とあるのが郡名の初見。平城宮出土木簡には「肥後国恰志郡調綿壱伯屯四両 養老七年」、近年発掘の太宰府出土木簡に「合志(郡カ)□草大根四百五十編」とあり、天平一五年(七四三)八月二九日の建部君足国が書写した大般若経跋文(京都東明寺蔵)には「合志郡(中略)井出原禅房」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報