北山十八間戸(読み)きたやまじゆうはちけんと

日本歴史地名大系 「北山十八間戸」の解説

北山十八間戸
きたやまじゆうはちけんと

[現在地名]奈良市川上町

鎌倉時代中期、奈良坂の丘陵地に忍性が建てた現存最古の救癩施設。国史跡。当初の建物般若はんにや寺の東北にあったが、永禄一〇年(一五六七)三好松永の乱に焼失、「多聞院日記」に「十八間癩人ノ宅焼了、不便至極」とみえる。

現存の建物は、もとの規模様式に従った寛文年間(一六六一―七三)再建といわれる。南面する東西に長い建物で、切妻造・本瓦葺。

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国指定史跡ガイド 「北山十八間戸」の解説

きたやまじゅうはちけんど【北山十八間戸】


奈良県奈良市川上町にあるハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。京都に抜ける街道の奈良坂に近い丘陵上に所在する。鎌倉時代に活躍した西大寺の僧忍性(にんしょう)の創建とされ、当初は北方にある般若寺の東北にあったが、1567年(永禄10)の三好・松永の乱で焼失したものを寛文年間(1661~73年)に現在地に移し、1693年(元禄6)に修築された。南北に細長い棟割り長屋で、切り妻造りの本瓦葺き。1921年(大正10)に、中・近世における社会事業史を考察するうえで重要とされ、国の史跡に指定された。建物は東西約38mあり、内部は18室に区切られている。1室の広さは2畳ほどで、東端には仏間がある。仏間には一段高く仏壇があり、裏戸には「北山十八間戸」と縦書きの銘が、東側にはもと炊事場があり、南側には庭園と井戸2ヵ所が残されている。ここで衣食住を提供された収容者の数は、延べ1万8000人といわれる。近畿日本鉄道奈良線近鉄奈良駅から奈良交通バス「今在家」下車、徒歩約3分。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北山十八間戸」の意味・わかりやすい解説

北山十八間戸
きたやまじゅうはちけんこ

奈良の北山宿 (奈良市川上町坂ノ上) に現存する日本最古の救らい (ハンセン病) 施設。その創設は忍性によると伝えられる。最初のものは永禄 10 (1567) 年に焼失。現在のものはもとの規模,様式に従って再建されたといわれるが,再建の時期は不詳。建物は南に面して東西に長い平屋造瓦ぶきの棟割長屋で,18戸から成る。1室の広さは約4畳であり,東端の部屋に仏壇が設けられている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北山十八間戸」の解説

北山十八間戸
きたやまじゅうはっけんど

奈良市東之阪町にある史跡。癩患者の収容と救済を目的とし,日本最古の社会事業施設の一つとして欧米にも知られる。光明皇后の創始というが,実際は鎌倉中期頃,西大寺の僧忍性(にんしょう)が創建。1567年(永禄10)三好・松永の兵乱で焼失したが,寛文年間に旧規模に忠実に再建。鎌倉時代の遺風をよく伝える。国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北山十八間戸」の解説

北山十八間戸
きたやまじゅうはっけんど

奈良市川上町坂上にある現存最古の社会救済事業の史跡
光明皇后の創始と伝えられるが,13世紀中ごろ僧忍性 (にんしよう) がハンセン病患者の収容と救済のために創建したもの。十八間の棟割長屋。1567年焼失,のち再建。明治維新のころまで実際に患者が住んでいた。

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世界大百科事典(旧版)内の北山十八間戸の言及

【忍性】より

…また,東大寺大勧進,四天王寺別当,摂津多田院別当などを兼任,死後菩薩号を贈られた。【細川 涼一】
[医療活動]
 叡尊門にいて奈良西大寺に住していた1240年,常施院,悲田院を設けて病者を収容,83年(弘安6)疫病流行の際には群僧を指揮して救療を行い,日本最初の癩病舎北山十八間戸を建立した。難波四天王寺に悲田院,施薬院,療病院を復興,鎌倉極楽寺を開山し寺域内に救療施設を設け,桑谷(くわがやつ)に広大な療病舎を設け貧病者を救済するなどして,世人より生身の如来,医王如来とあがめられた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」