北代省三(読み)きただいしょうぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北代省三」の意味・わかりやすい解説

北代省三
きただいしょうぞう
(1921―2001)

美術家、写真家。東京生まれ。多趣味な父親の影響で少年のころからカメラに親しみ、また科学全般に強い関心を抱く。麻布中学を経て1939年(昭和14)、新居浜高等工業専門学校(現愛媛大学工学部)機械科に入学。1941年、太平洋戦争勃発のため同校を繰り上げ卒業、卒業アルバムの撮影・制作にたずさわった。1942年、東京芝浦電気特殊合金工具製作所に入社。まもなく陸軍より召集され、シンガポールサイゴンを転戦する。復員後の1947年(昭和22)、以前より関心のあった創作活動に従事するため同社を退社、翌1948年「モダンアート夏期講習会」(東京・お茶ノ水)に参加する。この会の講師には岡本太郎、受講生にはメディア・アーティスト山口勝弘や画家福島秀子(1927―97)らがいた。同年には岡本主催の「アバンギャルド研究会」にも参加、また山口や福島らと結成した研究会の有志で開催した「七燿会」展(北荘画廊、東京・日本橋)に出品し、作家活動のスタートを切る。同展には、水彩画油彩画と並んで、アレグザンダー・コルダーの動く彫刻モビール」を模した作品を出品、北代は以後も工学知識と技術を生かしたこの系列の作品を多数制作し、代表作となる。

 翌1949年、第1回読売アンデパンダン展に油彩を出品、同展にはその後もたびたび参加して前衛的な作品を発表する一方で、音楽評論家秋山邦晴(1923―96)、湯浅譲二、武満(たけみつ)徹らとも知り合い、山口や福島とともに総合芸術への夢を募らせるようになる。1951年山口、福島、武満、秋山、湯浅らと総合芸術集団「実験工房」結成。読売新聞社より東京・日本橋高島屋のピカソ展関連イベントのバレエの演出構成を依頼され、これを機に「実験工房」の活動は本格的に開始された。以後同グループは、実質的に解散する1957年にいたるまで多くの作品発表会を開催するが、運動の中心を担っていた北代はほとんどの作品発表会に関わり、「モビール」を活用した舞台美術やポスター、パンフレットの写真やデザインを手がけた。「実験工房」で畑違いの美術家と音楽家が多くのコラボレーションを実現できたのは、両者を媒介した北代の存在が大きく、電子音楽やミュージック・コンクレートをはじめ、作品に科学技術を取り込もうとする傾向が強かったのも北代の影響だった。

 また「実験工房」結成直後にタケミヤ画廊(東京・神田)で初個展(企画滝口修造)を開催したほか、写真を雑誌等で発表するなど個人としても精力的に活動した。1956年に『芸術新潮』誌でエッセイ「絵画から写真へ」を発表した後は、絵画制作を継続しながら活動の重点を写真に移し、風景写真や科学写真を中心に多くの写真作品を発表。また1976年には『模型飛行機入門』を刊行し、少年時代の関心に回帰したような活動を展開した。技術者出身であることに加え、長年にわたるジャンル横断的な活動が作家としての評価を難しくしているが、岡本との師弟関係に着目した視点からの再解釈が行われている。

[暮沢剛巳]

『『模型飛行機入門』(1976・美術出版社)』『「風の模型――北代省三と実験工房」(カタログ。2003・川崎市岡本太郎美術館)』

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