日本大百科全書(ニッポニカ) 「実験工房」の意味・わかりやすい解説
実験工房
じっけんこうぼう
1950年代に活動した総合芸術集団。美術の分野では山口勝弘、北代省三(きただいしょうぞう)、画家福島秀子(1927―1997)、美術家今井直次(1928― )、音楽の分野では武満徹(たけみつとおる)、湯浅譲二、音楽評論家秋山邦晴(1923―1996)、作曲家福島和夫(1930― )、音楽家園田高弘(1928―2004)、そして写真家大辻清司(おおつじきよじ)などが参加、美術、音楽、文学、写真、舞踏などの分野を越えた活動を展開し、演奏会と展覧会をあわせたような発表会を開催した。
実験工房の発端は第二次世界大戦後間もない1948年(昭和23)、日本アヴァンギャルド美術家クラブ主催の「モダンアート夏期講習会」(東京・お茶ノ水)に北代、山口、福島秀子が参加し、同会で知り合った3人が意気投合したことに始まる。3人は同年の「七燿会」展(北荘画廊、東京・日本橋)に出品したり、北代宅で研究会「トリダン」を開催するなど、前衛芸術への問題意識を共有する。また翌1949年以後、山口が秋山や湯浅と知り合ったことがきっかけで美術と音楽の垣根を越えた横断的な総合芸術運動に積極的に取り組むようになり、武満、福島和夫らの合流によって拍車がかかった。
グループの正式な結成は1951年8月。参加メンバーの多くが私淑していた批評家滝口修造によって「実験工房」と命名された。初の作品発表は同年11月、東京・日本橋高島屋でのピカソ展開催に際して、読売新聞社からその関連イベントのプロデュースが依頼されたことによって実現する。このときは、振付師兼ダンサーの益田隆(1910―1996)とバレリーナの谷桃子によるバレエ『生きる悦(よろこ)び』を上演したにとどまったが、翌1952年の第2回発表会以後は、現代音楽の演奏会場にオブジェを設置したり照明演出を行うなど、複数のメディアを活用した発表が繰り広げられた。第2回発表会ではメシアンやバルトークなどの作品の日本初演が行われ、同年の第3回発表会では山口の立体作品『ヴィトリーヌ』が発表された。1953年の第5回発表会ではスライド映写機と音響装置を組み合わせた「オートスライド・プロジェクター」を用いた映像音響作品を出品。1954年には、『月に憑(つ)かれたピエロ』をはじめとするシェーンベルク作品の日本初演が実現し、これらの活動は1957年まで続いたが同年実質的に解散。
「実験工房」という名とは裏腹に、この運動は拠点となる工房をもたず、また運動のマニフェストや解散宣言も発表されなかった。多くのメンバーが読売アンデパンダン展に出品し、またメンバー外の作家ともしばしば共同するなど、組織のあり方はきわめて柔軟で、活動はかならずしも固定メンバーだけに限定されてはいなかった。また技術者出身で、量子力学や航空力学に精通していた北代の存在は、美術と音楽という異分野の媒介のみならず、芸術とテクノロジーの融合という当時としては先駆的な試みでも重要な役割を果たした。後に武満や山口が国際的に活躍したこともあり、「実験工房」は高い知名度を得た。しかし活動範囲が美術に限らず多岐にわたっていたこともあり、日本の現代美術を紹介した代表的な展覧会として知られる「前衛日本の芸術1910―1970」(1989、ポンピドー・センター)や「戦後日本の前衛美術」(1994、横浜美術館)などでも明確な位置づけはされなかった。同時代の具体美術協会による前衛美術運動「具体」と比べても評価が定まっているとはいいがたく、その評価は後の美術界にとっても課題となっている。
[暮沢剛巳 2018年5月21日]
『「1953年ライトアップ――新しい戦後美術像が見えてきた」(カタログ。1996・目黒区美術館)』