入野村(読み)にゆうのむら

日本歴史地名大系 「入野村」の解説

入野村
にゆうのむら

[現在地名]河内町入野

上河内かみごうち村・中河内村の南に位置し、中河内村とは標高五三五メートルのたかむら山北側山麓で接する。豊田郡に属した。北西部を入野川が蛇行しながら北流し、流域に平坦地が広がる。南部は丘陵地帯で、その間を入野川の支流大谷おおたに川が流れ、東の善入寺ぜんにゆうじ(現豊田郡本郷町)との境には葛子かつらこ川が南流し、可耕地を形成する。「和名抄」所載の賀茂郡入農にいの郷の地に比定され、古くは賀茂郡に属したことが知られる。平安時代には篁山山上に山岳仏教の修法地として竹林ちくりん寺が建立された。

観応二年(一三五一)四月九日の将軍家御教書(平賀家文書)によると、武石胤泰の田畠屋敷が安芸国入野郷内早田はやた方・貞宗さだむね方にあった。南北朝時代、小早川実義は入野城合戦のときの戦功を賞されており(文和二年一二月一三日付「足利義詮御感御教書写」小早川家文書)、入野は南朝方であったらしい。

至徳二年(一三八五)一〇月一四日、将軍家御教書(東寺百合文書)が松田備前守と宮下野守にそれぞれ発せられ、以前京都東寺へ施行した入野郷国衙分について、命を奉ずべき立場の小早川春平が東寺雑掌を追出しているので、近日中に両人で下地を雑掌に付するように命じている。

入野村
いりのむら

[現在地名]綾町入野

現綾町の南東端に位置し、北寄りを綾北あやきた川、南寄りを綾南(本庄)川が南東へ流れ、当村東方で合流する。北東境をほぼ南へ森永もりなが川が流下している。南は内山うちやま(現高岡町)、東は向高むこうたか村・森永村(現国富町)、西は北俣きたまた村・南俣村、北は深年ふかどし(現国富町)に接する。北俣村内の綾北川北西岸に飛地の椎屋しいや、西方南俣村内の綾南川沿いに飛地の上畑うわばた、同村内に飛地の寺山てらやま四枝よつえがある。

永享五年(一四三三)七月八日、樺山次郎三郎(孝久)に島津庄日向方諸県庄のうち「入名并宮原村」が料所として島津忠国から宛行われた(「島津忠国宛行状」樺山文書)宮原みやばる村は当村内の宮原にあたるか。天正一一年(一五八三)二月一一日宮崎城の上井覚兼は「入野」を礼のために訪問した。だが地頭吉利忠澄が留守だったためその子息が丁重に覚兼を迎えた。肥後への出陣を前にした同年八月一一日には、鹿児島よりの書状が入野まで到着し、吉利氏から覚兼のもとへ届けられた。同一三年六月一五日覚兼は島津家久と、同一七日入野へ赴き豊後計略について吉利氏と談合することを打合せたが、同一七日祖母危篤の報により入野行を取止めている(以上「上井覚兼日記」)。島津氏が豊臣秀吉に帰順したのち島津義弘に与えられた天正一六年八月五日の日向国知行方目録では、「入野名」一六町がみえる。

入野村
いのむら

[現在地名]平塚市入野

東をすず川、西を金目かなめ川が流れ、東は平等寺びようどうじ村、西は広川ひろかわ村、南は長持ながもち村、北は寺田縄てらだな村に接する。集落は金目川と鈴川の間に挟まれた自然堤防上に位置する。中央を南北に伊勢原いせばら道、金目川堤上を北西へ曾屋そや道が通る。宝永三年(一七〇六)村の中央を北東から斜めに流入し鈴川へ合流していた金目川の流路のうち、飯島いいじま村から南原みなみはら村までの八三〇間が直線に改修され、その際村高五七石余が河川敷となった(風土記稿)

永禄二年(一五五九)二月四日の北条氏尭寺領寄進状写(県史三)によれば「中郡入野之郷正林寺」とみえ、前々からの寺領二貫目のほか新たに大藤手作分で正林寺門前にある麦田から二貫五〇〇文、正林寺開五〇〇文の計五貫目の田地が同寺に寄進されている。小田原衆所領役帳には左衛門佐「弐百壱貫八百七拾文 中郡入野郷棟別反銭懸銭共ニ」とある。

天正一八年(一五九〇)青山領、寛永一〇年(一六三三)幕府直轄領、元禄一〇年(一六九七)旗本佐野・堀領の二給。

入野村
いりのむら

[現在地名]肥前町大字入野

納所のうさ半島の基部に位置し、伊万里湾に面した大半は沈降海岸の絶壁で、わずかな平坦海岸に漁師集落がある。陸部は丘陵地で、村内に古久祖ふるくそ川・入野川があるが水利に乏しく、野田のだ礒道いそみちなどの溜池がある。湾内に突出する長岩崎ながいわさきには岩石からなる通称晴気の前はるきのまえ岬があり、湾中にうし島・クブキ島(別名まつ島)がある。

有浦家文書の康永元年(一三四二)の源(佐志)勤から女房所への譲状に「肥前国佐志村内入野村田畠屋敷」とあり、当時は佐志氏の所領であった。「松浦拾風土記」の寺沢家中分限に「四百石(入野村・絃巻村にて)渡辺又右衛門。

入野村
いりのむら

[現在地名]浜松市入野町・佐鳴台さなるだい一―六丁目・大平台おおひらだい一―四丁目・蜆塚しじみづか一―四丁目・山手町やまてちよう

佐鳴さなる湖の南半を囲むように村域は広がり、南は高塚たかつか村、東は伊場いば村、西は西鴨江にしかもえ村。佐鳴湖からは入野川(現新川)が流れ出し浜名湖に注ぐ。戦国期は入野郷として推移した。松平忠頼領郷村帳では高一千六八七石、田一一八町九反余・畑一八町五反余、うち川成堤敷二〇石・小舟石六石・野方四石、ほかに龍雲りゆううん寺領一五石、宝珠ほうしゆ寺領・用徳ようとく庵領・長楽ちようらく寺領・正楽寺領・長福ちようふく寺領各一石、八幡領三石。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳では高一千七〇七石。

入野村
いりのむら

[現在地名]大方町入野

加持かもち川と蠣瀬かきせ川の間、北に八丁はつちよう山を負い、土佐湾に面する海浜の村。入野郷の中心村(本村)。中村街道が通る。「土佐州郡志」は「東限鞭村界吹上、西限田野口村界大久保、北限加持界梵行寺、東西十町許南北十五町許、(中略)有川流、其地砂土、町・芝・浜之宮・早崎・中井、分村為五、惣名曰入野村」と記す。中井を除く四村名は現在通称地名として残る。また「浜松林」をあげ、「在村前、東南二十六町余西北三町余、禁伐」と記すが、これは入野松原で知られる松林をさし、その海岸には二六町にわたる塩浜があるという。なお宝暦一二年(一七六二)村に入野新浦が成立、以降その地域は浦分として掌握された。

入野村
いりのむら

[現在地名]干潟町入野

米込よねごめ村の東に位置する。村の南東部をしん川が流れ、村の中央を南北に通る道と、北縁を通る道筋に人家が集中する。寛文期(一六六一―七三)からの椿つばき海の新田開発によって成立。元禄八年(一六九五)に初めて検地を受け、同年の検地帳(海上町史)では、一六八町八反余。高は一千二七三石余で、うち上田三四石余・中田四四石余・下田五二三石余・下々田一八三石余、下畑二〇石余・下々畑八〇石余・砂畑七石余、芝間一三三石余。なお同検地帳では当村は「諸徳寺村下椿新田」と記される。

入野村
いりのむら

[現在地名]土居町入野

現土居町のほぼ中央、やや南寄りの山沿いの農村。東はなか村、西は畑野はたの村、南は浦山うらやま村、北は土居村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「入野村 日損所」と村名がみえる。

村内の字医王寺いおうじで弥生時代の遺物が発見されている。「和名抄」にみえる宇摩郡近井ちかい郷に属したとされる。江戸時代には幕府領などを経て寛文一〇年(一六七〇)西条藩領となり、土居組に属して幕末に至る。

入野村
いりのむら

[現在地名]久万町入野

久万町くままち村の北に続く小村、緩やかな扇状地形をなす。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高三百石 入野村 日損所、野山有」とある。寛保元年(一七四一)頃の「久万山手鑑」による耕地三二町九反七畝、うち田一九町一反で水田率五八パーセント、久万山くまやまでは田の多い村に属する。天保郷帳の村高は三〇二石七斗九升で、さしたる新田開発もみられない。

慶長年間(一五九六―一六一五)に松山城主加藤嘉明から知行地として久万山六千石を与えられた佃十成が久万町村口称くしよう法然ほうねん寺を建立したが、これは入野村にあった口称院という小堂を移したものという。

入野村
いりのむら

[現在地名]龍野市神岡町入野かみおかちよういりの

林田はやしだ川を挟んで沢田さわだ村の南東に位置し、北は殿岡とのこ山・天光寺てんこうじ山を隔てて寄井よりい村。揖東いつとう郡に属する。集落は殿岡山南麓の上与かみよ(上入野村)、その南の下与(下入野村)、南西の林田川沿いの下与枝郷さかい村に分れる。慶長国絵図に「いり野」とみえる。領主の変遷は宿しゆく(觜崎宿)村と同じ。元和三年(一六一七)の揖東郡郷帳(林田郷土史)では高五六二石余。正保郷帳では田方三六八石余・畑方一〇〇石余。宝永六年(一七〇九)の林田藩領地方覚記(田淵家文書)では上与と下与に分けて記される。上与は高三〇三石余、うち池掛り八八石余で定免四ツ七分、残りが四ツ八分、下与は高二五九石余、うち池掛り一四石余で定免四ツ七分、残りが四ツ八分。

入野村
いりのむら

[現在地名]土佐山田町入野

新改しんがい村の新改川北東上流にあり、長岡郡に属し、東は香美郡の大法寺たいほうじ村。新改四ヵ村の一。天正一六年(一五八八)の殖田郷入野村地検帳に総地積一四町五反一二代半が記される。うち「穂伎山新左衛門給」とある一筆三反を除いてすべて入野左馬助の給地。左馬助は土居屋敷(四三代三歩半)に居住、村内に二町三反余の手作地も有する。

入野村
いりのむら

[現在地名]一宮町入野

山田中やまだなか村の東にあり、谷状になった山間の低地が深く入り込む山間に位置する。中央部を西浦にしうらから千光せんこう(現洲本市)へ向かう巡礼道が北から南へ通る。正保国絵図に村名がみえ、高三二三石余。天保郷帳では高四三六石余。反別戸数取調書によると反別二九町四反余、高五八三石余、うち一二〇石余を中老寄合席坂部主税ら二人の給人が知行し、蔵入高四六四石余。家数六八・人数四四六。柳沢組に属した。明治一〇年(一八七七)に山田中村など二ヵ村と合併して山田村となる。北東の標高約二四〇メートルの金比羅こんぴら山上に烏隈からすがくま神社(旧金比羅社)がある。享保年中(一七一六―三六)庄屋の使いで四国に渡り阿波徳島藩の役所へ書類を届けた当村の幸与文は、帰途吉野よしの川で船が転覆したため藩からの返書の入った包みを失った。

入野村
いりのむら

[現在地名]相生市若狭野町入野わかさのちよういりの

那波なば村の西、たにを境とする。若狭野盆地の南東部に広がる緩扇状地に立地し、北部を山陽道が通る。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に入野・入野林下・入野サイクノ南・入野橋爪などの地名がみえる。同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)に「入野瓦谷コウノス東雨内」とみえ、地頭方に属した。江戸時代の領主の変遷は寛文一一年(一六七一)まで相生おお村に同じであったが、同年赤穂藩の分家旗本浅野領となり幕末に至る(相生市史)。正保郷帳に村名がみえ、田方二五〇石余・畠方四〇石余、「草山有・新田有」とある。

入野村
いりのむら

[現在地名]下條村入野

現下條村の西部、下条山脈亀沢かめざわ(一三五九メートル)の山麓に位置する。慶長六年(一六〇一)より飯田藩領に属し、小笠原氏・脇坂氏の所領となった。寛文一二年(一六七二)より一時幕府領となったが、天和元年(一六八一)以降高須藩領となった。村高は正保四年(一六四七)に一七七石余(信濃国絵図高辻)、天保五年(一八三四)に二一二石余(信濃国郷帳)

村の南西には下条山脈の汗馬沢かんばざわ越えの道が和合わごう(現阿南町)に通じている。険路で人馬の数は少なかったが、下条からは米が、和合方面からは繭・楮・木地材などが運搬された。

入野村
にゆうのむら

[現在地名]川辺町入野

日高川の西岸、若野わかの村の北、玄子げんこ村の南にあたる。「続風土記」に「入野又丹生野と書す、是を正字とす、是天野祝文に日高郡江川丹生とある丹生にして、丹生は旧此辺の大名なり」とある。

慶長検地高目録には「丹生野村」とみえ、村高一四七石余、小物成三升。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」は入野村と記す。同書によれば田畑一三町三反余、高一四七石余、家数三一で内訳は本役八、半役一二、無役七、舟渡し一、庄屋・年寄各一など、人数一二五、牛一三、馬三、渡舟一、池六、御蔵一。

入野村
いりのむら

[現在地名]岩国市大字入野

廿木はたき山の東を北流する保木ほうき川沿いの村で、大平たいへい山の北西麓に位置する。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村の一で、村名は慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」にみえる。

同書による村高は三六〇石余、うち田高二九六石余、畠高三八石余、楮高二五石余。その後少々減少して、元禄以降、幕末まで高三五七石余であった。なお享保一一年(一七二六)には村高三五七石三斗、戸数四六軒、人口二二六人、牛一七頭、馬四頭という状態で(享保増補村記)、山間の村で交通は不便ではあったが、田畑が多く山もあり、薪炭や紙業もあって、比較的ゆとりのある村であった。

入野村
いりのむら

[現在地名]相生町入野

牛輪うしわ村の南西に位置する。北・西・南の三方を山地に囲まれ、東方の最高点二〇〇メートル余の丘陵地との間にわずかに平地が開ける。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に村名の記載があるが、正保国絵図、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳、天保郷帳にはみえない。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)によると人数四八(男二二・女二六)。文化八年(一八一一)の棟付帳(遠藤家文書)によれば、家数三四、うち堂一・先規奉公人三、人数九一、うち先規奉公人八・女七四、牛三〇。

入野村
いりのむら

[現在地名]岡部町入野

村良むらら村の南西に位置し、南は高田たかだ(現藤枝市)。元亀三年(一五七二)一二月一九日の武田信玄判物(小浜文書)に入野とみえ、武田信玄は小浜景隆に入野五四貫三〇〇文などを宛行っている。慶長九年(一六〇四)八月の山西志太郡入野村御縄打水帳(長田家文書)が残る。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)では田方一四三石余・畑方一〇石余。国立史料館本元禄郷帳では田中藩領、その後も同藩領が続き(正徳二年土岐頼殷領知目録など)、享保一五年(一七三〇)幕府領(「寛政重修諸家譜」、元文五年「田中藩領分村別」志太郡誌など)、明和七年(一七七〇)遠江横須賀藩領となり幕末に至る(「西尾家譜」西尾家文書など)

入野村
いりのむら

[現在地名]あきる野市入野

あき川左岸に位置し、南は五日市村。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)に「入野」とある。田園簿に村名がみえ、田一四石余・畑九〇石余で幕府領。元禄郷帳では高一〇九石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳でも高一〇九石余で幕府領。

入野村
いりのむら

[現在地名]岩瀬町入野

おお川右岸、富谷とみや山東麓にあり、北は門毛かどげ村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には村山一、四壁山二、竹藪一二、堰二があり、堰の一つは門毛村に水代金一両を毎年一一月に納めていた。文化期(一八〇四―一八)の戸数二六・人数九七、馬五で、売物は大豆。

入野村
いりのむら

[現在地名]三木市細川町瑞穂ほそかわちようみずほ

上南かみみなみ村の北東、小川おがわ川上流の丘陵地に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる。正保郷帳でも明石藩領で、田方八三石余・畑方一一石余。天保郷帳では高一〇六石余。「寛文朱印留」・旧高旧領取調帳ではともに明石藩領。

入野村
いりのむら

[現在地名]金城町入野

追原おいばら村の西に位置し、入野川が北流する。領主の変遷は追原村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高四二〇石余。古高三〇二石余。寛永一四年(一六三七)の検地高四二六石余。明治四年(一八七一)の総高四二九石余・反別五七町余。家数六三・人数二六〇、米蔵一。

入野村
しおのむら

[現在地名]吉野町大字入野

吉野川北方の津風呂つぶろ川渓谷に立地する。「大和志」には「塩野塩一作入」とみえる。国栖くず郷のうち。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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