滝川村
たきかわむら
[現在地名]滝川市栄町一―四丁目・明神町一―四丁目・花月町一―三丁目・中島町・中島町一―五丁目・空知町一―三丁目・空知町河川敷地・新町一―六丁目・新町河川敷地・東町・東町一―八丁目・緑町一―七丁目・大町一―六丁目・本町一―六丁目・一の坂町東一―三丁目・一の坂町西一―三丁目・朝日町東一―四丁目・朝日町西一―四丁目・黄金町東一―四丁目・黄金町西一―四丁目・二の坂町東一―四丁目・二の坂町西一―四丁目・二の坂町・泉町・泉町一―二丁目・泉町河川敷地・幸町一―四丁目・扇町一―三丁目・扇町河川敷地・有明町一―六丁目・有明町河川敷地・西町一―八丁目・西滝川・北滝の川・滝の川町東一―四丁目・滝の川町西一―八丁目・屯田町西一―四丁目・南滝の川・文京町一―四丁目・東滝川・東滝川町一―四丁目・流通団地一―三丁目・江部乙町・江部乙町東一〇―一三丁目・江部乙町西一〇―一三丁目、砂川市空知太東一条など、深川市音江町など
明治二三年(一八九〇)から同四三年まで存続した空知郡の村。
滝川村
たきがわむら
[現在地名]男鹿市男鹿中滝川
男鹿半島中部、寒風山の西麓に位置し、西に真山・本山を望む。滝川の上流・中流に神田・川原・萱置場・杉ノ下・三ッ森・上島田・下島田の七ヵ村が点在、総称して滝川村という。
嘉禎四年(一二三八)橘公業の子公員あての将軍家政所下文案(肥前小鹿島文書)に「小鹿嶋内滝河、磯分、大嶋」とある。「滝河」は滝川を中心とし五里合盆地に広がる地域と考えられる。
滝川村
たきがわむら
[現在地名]館山市山本
大作村の北、滝川の左岸に展開する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高七五石余(うち田二九石余)、同一五年の里見家分限帳によると奏者関神平の給知。正保郷帳では高七〇石余(うち田二六石余)で北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では幕府領。安房国村高帳でも同領であった。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名が載り、房陽郡郷考でも武蔵忍藩領で家数一三。
滝川村
たきかわむら
[現在地名]七山村大字滝川
七山川の左岸地域にあり、支流滝川の合流点に位置する。滝川は急流で、上流は池原川といい、支流に葉山川がある。村域の大半は山岳地で耕地は少なく、林業で生計を立てる者が多い。古くから七山郷の中心地で、藩政期中頃より大庄屋が置かれた。字祈祷地には弥生期の土器の破片の散在が認められる。
藤川の賀茂神社の「岡本家諸家系譜類集」によれば、賀茂(加茂)義賢が安元二年(一一七六)肥前守に任ぜられ、ほどなく滝川に館を構えて土着した。義賢は、上松浦入道直伝と号し、治承年間(一一七七―八一)拈華山直伝寺(曹洞宗)を建立した。加茂神社の社寺で、寺内に義賢および娘梅園の石碑がある。
滝川村
たきがわむら
[現在地名]新城市横川
出沢村の東北、寒狭川右岸に沿い、大部分は山地で川沿いに耕地があるのみである。近世を通じて幕府領であった。東部は寒狭川河岸の伊那街道に沿い、対岸の横山村に渡る重要な渡河点であった。延享三年(一七四六)の指出帳(滝川区有)では
<資料は省略されています>
とある。またこれ以前に「公儀入用」で長二〇間余の一本橋を架したが腐朽し、橋材がないので五〇両を拝借して渡船をつくったという。
滝川村
たきがわむら
[現在地名]十津川村大字滝川
十津川の支流、滝川・栗平川合流地左岸に立地。十津川郷のうち。寛永郷帳には「たい川」村と記され、村高二七・〇石、幕府領。元禄郷帳では「滝川村」、村高二二石とある。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆一〇〇本、檜角尺〆三〇本、椴栂松尺〆一六〇本、煙草九〇〇貫目、割菜一五〇貫目、楮一五貫目、椶櫚皮二〇〇枚、茶一二貫目、椎茸一貫目、樽丸三〇丸とみえる。
滝川村
たんにやーむら
[現在地名]喜界町滝川
伊砂村の南西方、西目間切の南に位置する。伊砂間切のうちで、タンニャーという。元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に伊砂間切与人のとして「滝川村」とみえる。湾村与人の妻である阿人樽は滝川ノロで、元禄前後の人であった(「勘樽金一流系図」奄美大島諸家系譜集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報