前田青邨(読み)マエダセイソン

デジタル大辞泉 「前田青邨」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐せいそん〔まへだ‐〕【前田青邨】

[1885~1977]日本画家。岐阜の生まれ。本名、廉造。大和絵琳派りんぱの技法を独自に消化し、清新・豊麗な画風を確立した。文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「前田青邨」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐せいそん【前田青邨】

日本画家。本名廉造。岐阜県出身。梶田半古に師事。大正三年(一九一四日本美術院の再興に当たって同人となった。代表作「洞窟の頼朝」「出を待つ」など。明治一八~昭和五二年(一八八五‐一九七七

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改訂新版 世界大百科事典 「前田青邨」の意味・わかりやすい解説

前田青邨 (まえだせいそん)
生没年:1885-1977(明治18-昭和52)

日本画家。岐阜県中津川市に生まれる。本名廉造。1901年上京して梶田半古の門に入る。2歳年上で塾頭の小林古径を知り,以来行動をともにする。02年17歳で第12回日本絵画共進会展に《金子家忠》を出品,3等褒状を受け,半古から青邨の号をもらう。その後今村紫紅,安田靫彦らの紅児会に加わり,新しい歴史画の研究に進み,12年,岡倉天心の示唆をうけて制作した《御輿振(みこしふり)》(絵巻)を第6回文展に出品,3等賞を受け画名を知られるようになった。14年再興日本美術院に参加し,その第1回院展に《竹取物語》(絵巻)と《湯治場》を出品,会期中に同人に推挙された。このころから彼の個性的な感覚と画面構成のおもしろさは注目され,《京名所八題》の内〈先斗町〉の大胆な俯瞰法は,岡本一平の漫画(軍人がこの絵の前に立ち〈高度何メートルの飛行機から見たところ〉と説明する)でも評判になった。このような視角の斬新さは,一連のやまと絵研究の成果でもあるが,生来の感性と卓抜な素描力によってはじめて可能となった。

 22-23年古径とともに渡欧,遊学し,大英博物館で顧愷之筆《女史箴図巻》を模写。帰国後,院展に《伊太利所見》(1925),《羅馬使節》《西遊記》(ともに1927),《洞窟の頼朝》(1929,第1回朝日賞受賞)と相次いで秀作を発表。30年の《罌粟(けし)》では琳派の新しい解釈を示し,宮中献上の《唐獅子》(1935)では金銀箔を用い単純明快な独特のフォルムを生み出し,35年ころからは〈たらしこみ〉描法を多く用いるなど,闊達な鉄線描を生かした青邨様式を不動にしていく。

 第2次大戦後,51年に東京芸術大学教授となり,55年文化勲章受章。日本画壇の長老的地位を占めるが,創作意欲は衰えず,安井曾太郎をモデルとした《Y氏像》(1951),松永安左エ門を描いた《耳庵像》(1953)などの肖像や,多くの〈紅白梅図〉などの花鳥画にも独自の画境をきりひらいた。《石棺》(1962),《大物浦(だいもつのうら)》(1968),《腑分》(1970)など歴史画もひきつづき描いたが,第2次大戦前とは歴史画の主要テーマである〈戦い〉のとらえ方が異なっている点も注目される。71年の《知盛幻生》は歴史画への鎮魂歌ともいえる大作である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田青邨」の意味・わかりやすい解説

前田青邨
まえだせいそん
(1885―1977)

日本画家。本名廉造。岐阜県中津川に生まれる。1901年(明治34)に上京し、梶田半古(かじたはんこ)に師事。1907年に今村紫紅(しこう)、安田靫彦(ゆきひこ)らの紅児(こうじ)会に加わって研究を重ねた。1914年(大正3)の再興日本美術院の第1回展で『湯治場』『竹取(たけとり)』が認められて同人に推挙され、1922年に日本美術院留学生として小林古径(こけい)とともに渡欧し、大英博物館で『女史箴図巻(じょししんずかん)』を模写、翌年帰国した。大和(やまと)絵や琳派(りんぱ)の技法を独自に消化した明快で清新な画風が注目され、1927年(昭和2)の『羅馬(ローマ)使節』(早稲田(わせだ)大学)、1929年の『洞窟(どうくつ)の頼朝(よりとも)』(東京・大倉集古館)はことに高い評価を得た。院展のほか文展、第二次世界大戦後の日展にも出品し、1935年に帝国美術院会員、1944年に帝室技芸員にあげられ、1955年(昭和30)には文化勲章を受章した。また1951年から1959年まで東京芸術大学教授を務め、その後も1967年の法隆寺金堂壁画再現模写、1973年の高松塚古墳壁画模写事業をそれぞれ監修、監督した。ほかに代表作として『罌粟(けし)』『石棺』『お水取(みずとり)』『西遊記』『紅白梅図』などがあげられる。1966年、郷里に中津川市青邨記念館が建設された(2015年閉館)。

[原田 実 2017年1月19日]

『『作画三昧――青邨文集』(1979・新潮社)』『久富貢編『現代日本美術全集15 前田青邨』(1973・集英社)』『関千代編『日本画素描大観5 前田青邨』(1984・講談社)』『河北倫明・高階秀爾他監修『日本の名画15 前田青邨』(1977・中央公論社)』『河北倫明監修・解説、関千代解説『現代日本絵巻全集9・10 前田青邨Ⅰ・Ⅱ』(1981、1984・小学館)』

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百科事典マイペディア 「前田青邨」の意味・わかりやすい解説

前田青邨【まえだせいそん】

日本画家。岐阜県生れ。本名廉造。1901年梶田半古に入門,のち紅児会会員となって,今村紫紅安田靫彦らと知る。初期文展で認められ,再興院展では靫彦,小林古径とならんで中心的作家となった。1952年には東京芸大教授に就任,日本画壇の長老として活躍した。歴史画,花鳥画肖像画を描き,琳派の装飾的技法も採り入れて独自の洗練された画風に到達。作品《洞窟の頼朝》《紅白梅》《風神雷神》など。1955年文化勲章。
→関連項目太田聴雨岐阜県美術館平山郁夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前田青邨」の意味・わかりやすい解説

前田青邨
まえだせいそん

[生]1885.1.27. 岐阜,中津川
[没]1977.10.27. 東京
日本画家。本名は廉造。 1901年上京,梶田半古に師事。 07年紅児会の結成に参加。内国勧業博覧会,内国絵画共進会,紅児会などに出品を続け,次第に画壇に地歩を築いた。 14年日本美術院の再興とともに同人となり,以後は小林古径,安田靫彦 (ゆきひこ) らとともに院展の三羽烏として活躍。 22~23年日本美術院留学生として渡欧。東洋の古美術研究に努め,第2次世界大戦前には中国,朝鮮へ旅し,戦後も 60年に日本画家代表団団長として訪中。帝室技芸員,東京芸術大学教授,日本芸術院会員,55年文化功労者,同年文化勲章受章。武者絵などの歴史画を得意とするほか,静物画,風景画,肖像画などにも洗練された技巧を示し,絵巻なども描いた。その他,法隆寺金堂壁画の再現や,高松塚古墳の壁画模写など,日本の古美術の保存や復元に尽した。主要作品『京名所八題』 (1916,東京国立博物館) ,『西遊記』 (27,MOA美術館) ,『奎堂先生』 (42) ,『風神雷神』 (49) ,『石棺』 (62,東京国立近代美術館) ,『腑分』 (70,山種美術館) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前田青邨」の解説

前田青邨 まえだ-せいそん

1885-1977 明治-昭和時代の日本画家。
明治18年1月27日生まれ。梶田半古(かじた-はんこ),岡倉天心にまなぶ。大正3年院展に「湯治場」「竹取物語」を出品し,同人となる。昭和26年東京芸大教授,30年文化勲章。芸術院会員。法隆寺金堂壁画再現,高松塚古墳壁画模写にかかわる。妻すゑは荻江節(おぎえぶし)5代家元荻江露友。昭和52年10月27日死去。92歳。岐阜県出身。本名は廉造。平成22年「洞窟の頼朝」が重要文化財に指定される。作品はほかに「京名所八景」「羅馬(ローマ)使節」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「前田青邨」の解説

前田青邨
まえだせいそん

1885.1.27~1977.10.27

大正・昭和期の日本画家。岐阜県出身。本名廉造。1901年(明治34)梶田半古(はんこ)に入門し,紅児(こうじ)会に参加。14年(大正3)再興日本美術院同人となり,小林古径(こけい)・安田靫彦(ゆきひこ)とともに院展三羽烏として活躍。22年渡欧。37年(昭和12)帝国芸術院会員,51年東京芸術大学教授となる。55年文化勲章受章。法隆寺金堂壁画再現模写や高松塚古墳壁画模写に従事した。作品「洞窟の頼朝」「お水取」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「前田青邨」の解説

前田青邨
まえだせいそん

1885〜1977
大正・昭和期の日本画家
岐阜県の生まれ。安田靫彦 (ゆきひこ) らの紅児会に参加,第6回文展で画名を知られる。のち院展で活躍し,帝展会員・東京芸大教授を経て日本画壇の中心となる。明快でのびのびした筆法で独自の画風を確立。晩年まで気力・画技ともに充実した作品を発表した。1955年文化勲章受章。代表作に『京名所八題』『洞窟の頼朝』など。

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