今村紫紅(読み)いまむらしこう

精選版 日本国語大辞典 「今村紫紅」の意味・読み・例文・類語

いまむら‐しこう【今村紫紅】

日本画家。本名寿三郎。横浜生まれ。松本楓湖(ふうこ)に師事し、紅児会日本美術院に参加。代表作伊達政宗」「近江八景」「熱国之巻」。明治一三~大正五年(一八八〇‐一九一六

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デジタル大辞泉 「今村紫紅」の意味・読み・例文・類語

いまむら‐しこう【今村紫紅】

[1880~1916]日本画家。神奈川の生まれ。本名、寿三郎。松本楓湖まつもとふうこに師事し、紅児会を結成。大胆な技法と構図、新鮮な色彩感覚で近代日本画革新に貢献。

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改訂新版 世界大百科事典 「今村紫紅」の意味・わかりやすい解説

今村紫紅 (いまむらしこう)
生没年:1880-1916(明治13-大正5)

日本画家。横浜市に生まれる。名は寿三郎。はじめ水彩画の手ほどきを受け,1897年上京,松本楓湖の塾に入り,日本絵画共進会に出品,1901年安田靫彦らと紅児会を組織して新しい歴史画の開拓に努め,07年には安田靫彦の仲介で五浦の日本美術院研究所に参加。岡倉天心の指導を受け,横山大観,菱田春草,下村観山らの制作ぶりを見て啓発される。紅児会に出品した《政宗》,巽画会の《説法》あたりからおおらかな独特の画風を示したが,第6回文展に南画の技法に印象派の色彩表現をとりいれた新解釈の《近江八景》を発表し,世の注目をひいた。14年インドに渡り帰国後再興日本美術院の同人となり,第1回院展に《熱国の巻》2巻を発表。太陽と海を背景に展開する南国の生活を詩情豊かに大胆な構図にまとめ,金泥の巧みな使用と,点描風の技法を用いて近代日本画の新生面を切り開いた。紫紅はやまと絵から出発,宗達風のおおらかな画趣に印象派の感覚をとりいれ,さらに天心らが軽視していた南画を印象派に先行するものとしてとりあげた。また同14年速水御舟小茂田青樹らと赤曜会を組織して目黒夕日ヶ丘にて野外展を催すなど,豪放磊落らいらく)な性格をもって後進を指導した。

 美の反面である醜をも積極的にとりあげて自我の表現を主張,現代画に通じる道を開いた役割は大きく,その生涯大正デモクラシーのさきがけをなす。酒を好み36歳で没した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「今村紫紅」の意味・わかりやすい解説

今村紫紅
いまむらしこう
(1880―1916)

日本画家。本名寿三郎。明治13年12月16日横浜に生まれる。1897年(明治30)17歳のとき松本楓湖(ふうこ)の門に入った。98年日本美術協会展に入選、翌年から日本美術院日本絵画協会連合共進会に出品した。1901年(明治34)小堀鞆音(こぼりともと)門下の安田靫彦(ゆきひこ)らと紅児会(こうじかい)を結成、さらに巽画会(たつみがかい)にも加わって歴史画の新境地を求め、07年には岡倉天心の知遇を得て五浦(いづら)(茨城県)の日本美術院研究所を訪れ、研究を深めている。11年第5回文展出品の『護花鈴(ごかれい)』はそうした精進の成果を示すものであるが、翌12年(大正1)の第6回文展に出品の『近江(おうみ)八景』8幅は、南画と後期印象派風の表現とが渾然(こんぜん)する斬新(ざんしん)な風景画として注目された。14年インドに旅行。同年の日本美術院再興に同人として参画、その第1回展に大胆な構成と明快な色調をもち、彼の代表作となる『熱国の巻(まき)』2巻を出品した。やはりこの年、速水御舟(はやみぎょしゅう)、小茂田青樹(おもだせいじゅ)、中村岳陵(がくりょう)らと赤燿会(せきようかい)を結成し、日本画の近代化になお盛んな意欲を燃やしたが、翌15年病に倒れ、大正5年2月28日、35歳の若さで世を去った。作品にはほかに『説法』『風神雷神』『潮見坂』などがよく知られている。

[原田 実]

『『現代日本美術全集3 菱田春草/今村紫紅』(1972・集英社)』『「熱国の巻」(『現代日本絵巻全集7』所収・1982・小学館)』

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朝日日本歴史人物事典 「今村紫紅」の解説

今村紫紅

没年:大正5.2.28(1916)
生年:明治13.12.16(1880)
明治大正期の日本画家。輸出向け提灯屋を営む今村岩五郎の3男。横浜生まれ。明治28(1895)年ごろ山田馬介に英国風の水彩画を学んだのち,30年松本楓湖に入門,歴史画を学ぶ。33年安田靫彦らの紫紅会に入会するが,会名と紫紅の名前が同じため,会名を紅児会と改称。同会,および楓湖門下生を中心とする巽画会で,歴史画の研究を進めた。40年に訪れた茨城県五浦の日本美術院研究所では,横山大観らの制作姿勢に大きな刺激を受けた。このころから宗達の研究を始め,43年第10回巽画会「達磨(説法)」(東京国立博物館蔵),翌年第12回「風神雷神」(個人蔵)など柔らかな形態と色彩の点描による作品を発表。また44年から原三渓の援助を受け,同時に原邸で毎月日本中国の古美術鑑賞を行い,明清画や富岡鉄斎を研究する。45年第6回文展「近江八景」(東京国立博物館蔵)では,そうした南画研究による柔らかな筆致とやまと絵の色彩に,当時紹介された後期印象派的な点描を加え,紫紅様式を確立。単身インドに渡航して制作した大正3(1914)年第1回再興院展「熱国の巻」(東京国立博物館蔵)は,輝く色彩で紫紅芸術の頂点を示した。また同年再興日本美術院に経営者同人として参加し,速水御舟ら若手作家を率いて赤曜会を結成。その芸術的革新性と,若手の親分格としての豪放な性格から,将来を大いに期待されたが,酒による肝臓病と脳溢血のため,37歳の若さで死去した。

(佐藤道信)

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百科事典マイペディア 「今村紫紅」の意味・わかりやすい解説

今村紫紅【いまむらしこう】

日本画家。横浜市生れ。本名寿三郎。1895年ころ山田馬介に英国風水彩画を学び,さらに1897年松本楓湖に入門。1901年安田靫彦らと紅児会を組織,歴史画に新境地を求めた。1914年の院展再興にも同人として参加。後期印象派宗達文人画に学んだ影響を独自の近代日本画として開花させようとしたところに新鮮な魅力があった。代表作《近江八景》《熱国の巻》など。
→関連項目近江八景(美術)速水御舟前田青邨

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今村紫紅」の意味・わかりやすい解説

今村紫紅
いまむらしこう

[生]1880.12.16. 横浜
[没]1916.2.28. 東京
日本画家。ちょうちん商今村岩五郎の子。本名は寿三郎。初め山田馬介に水彩画を学び,1897年松本楓湖に師事し,翌年から紫紅と号した。 1901年安田靫彦 (ゆきひこ) ,小林古径,前田青邨らと紅児会を結成,新日本画の創造に励む。その間,1898年日本美術協会展初入選の『箙 (えびら) の梅』を最初に,巽 (たつみ) 画会,文展,院展などに新工夫を加えた歴史画,風俗画,肖像画を出品して名声を博した。俵屋宗達,富岡鉄斎に私淑。 1914年にはインド旅行を試みて風景画に新境地を開き,同年速水御舟らと赤曜会を創立したが,16年将来を惜しまれつつ 36歳で早世した。主要作品『近江八景』連作 (1912,東京国立博物館,重文) ,『熱国の巻』 (14,同,重文) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「今村紫紅」の解説

今村紫紅 いまむら-しこう

1880-1916 明治-大正時代の日本画家。
明治13年12月16日生まれ。松本楓湖(ふうこ)にまなぶ。明治33年安田靫彦(ゆきひこ)らと紅児会を結成。大正元年文展出品の「近江(おうみ)八景」は文人画と洋画の印象派の表現法をとりいれ注目された。3年再興日本美術院に参加,また速水御舟(はやみ-ぎょしゅう)らと赤曜会をつくった。大正5年2月28日死去。37歳。神奈川県出身。本名は寿三郎。作品はほかに「熱国の巻」など。

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