安田靫彦(読み)ヤスダユキヒコ

デジタル大辞泉 「安田靫彦」の意味・読み・例文・類語

やすだ‐ゆきひこ【安田靫彦】

[1884~1978]日本画家。東京の生まれ。本名、新三郎。小堀鞆音こぼりともとに師事し、同門の仲間とともに紫紅会(のち紅児会)を結成、のち日本美術院の再興に参加。歴史画にすぐれた。文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「安田靫彦」の意味・読み・例文・類語

やすだ‐ゆきひこ【安田靫彦】

日本画家。東京出身。本名新三郎。小堀鞆音に師事。鞆音門の同志と紫紅会(のち紅児会)を結成し、新日本画の開拓に尽くす。日本美術院再興後、その同人として活躍。大和絵風を基調に、高雅な洗練された歴史画に特色がある。帝室技芸員。昭和二三年(一九四八)文化勲章受章。代表作「黄瀬川陣」「王昭君」など。明治一七~昭和五三年(一八八四‐一九七八

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改訂新版 世界大百科事典 「安田靫彦」の意味・わかりやすい解説

安田靫彦 (やすだゆきひこ)
生没年:1884-1978(明治17-昭和53)

日本画家。本名新三郎。東京日本橋に生まれる。生家は江戸時代から続いた〈百尺〉という料亭。生来身体が弱く小学校高等科三年で退学。1897年法隆寺壁画の模写や横山大観下村観山,小堀鞆音(ともね)らの作品に接して感激し,画家になろうと決心した。14歳で大和絵の小堀鞆音(1864-1931)の門に入る。雅号靫彦は鞆音の師川崎千虎がつけた。98年同門の磯田長秋,小山栄達らと紫紅会を結成し,2年後今村紫紅が加わり,名称を紅児会と改める。画壇の若い革新派として注目され,新傾向の歴史画を探求する。その後東京美術学校に在籍するがあきたらず,1年足らずで退学し,紅児会展に出品をつづける。1902年京都,奈良に遊び古美術に接し100余枚の写生をする。07年岡倉天心を中心とする国画玉成会の創立に加わり評議員となる。天心にその資質を認められ,五浦(いずら)の研究所にも招かれ,またそのすすめにより奈良で古美術研究に従う。その後健康をそこねるが屈することなく,08年の国画玉成会に《守屋大連》を出品。排仏派の頭目物部守屋の心理を洋風の陰影を加えてたくみに表現したこの傑作により,頭角を現すが,発病し療養を余儀なくされる。制作は静養中にもつづき,12年第6回文展に《夢殿》を発表。夢殿で瞑想にふける聖徳太子の姿を想像力豊かに淡く柔らかに描いたこの作品によって歴史画家としての地位を確立した。13年紅児会を解散するが,14年日本美術院再興とともに同人となり《御産の禱(いのり)》を発表,以後大和絵を基礎として,古典追求により新生面をひらく画風は小林古径前田青邨らとともに新古典主義と呼ばれ,院展の主流となる。靫彦画の特質の一つである柔らかさのうちに強靱なものを秘めた描線と温雅な色彩,その気品を速水御舟は〈まねのできない馥郁たる香り〉と称えている。大正の初めころより三渓原富郎に招かれ,古名画鑑賞の会を通じて良寛の書を知り,その人格と芸境に傾倒短歌にもうちこむ。代表作には前述のほかに,大正期のものとして《日食》があり,昭和期に入ると,白描の《風来山人》,彩色画の《孫子勒姫兵》《黄瀬川の陣》《山本五十六元帥之像》がある。第2次大戦後も制作はおとろえず,色調は華やかさを増し,《王昭君》《大観先生像》《飛鳥の春の額田王》《卑弥呼》《出陣の舞》などと多彩を極め,冷静な史眼をもとに具体像に至ろうとする構想力の豊かさを示した。44-51年東京芸術大学教授をつとめる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安田靫彦」の意味・わかりやすい解説

安田靫彦
やすだゆきひこ
(1884―1978)

日本画家。本名新三郎。東京日本橋に生まれる。1898年(明治31)に小堀鞆音(ともと)に入門、同年仲間と紫紅(しこう)会を組織。これは1900年今村紫紅を迎えて紅児(こうじ)会と改め、ともに新しい日本画の創出を目ざした。01年東京美術学校に入学、しかし半年ほどで退学する。07年の東京勧業博覧会で『最手(ほて)』が二等賞、第1回文展で『豊公(ほうこう)』が三等賞を受賞。このころ療養を余儀なくされたが、12年(大正1)の第6回文展に『夢殿(ゆめどの)』(東京国立博物館)を出品して注目を集めた。大和(やまと)絵の伝統を独自に消化し、新たな格調ある歴史画を志向する画風が評価されたのである。13年に紅児会を解散、翌14年の日本美術院再興に同人として加わり、その第1回展に『御産の祷(いのり)』を出品、地歩を確定した。34年(昭和9)帝室技芸員、35年帝国美術院会員。44年から51年(昭和26)まで東京美術学校(49年東京芸術大学に改まる)教授。48年文化勲章受章。ほかに『御夢(おんゆめ)』『五合庵(あん)の春』『孫子勒姫兵(そんしろくきへい)』『黄瀬川(きせがわ)の陣』などが代表作。神奈川県大磯(おおいそ)に没。

[原田 実]

『『画想――安田靫彦文集』(1982・中央公論美術出版)』『今泉篤男解説『現代日本美術全集14 安田靫彦』(1974・集英社)』『佐々木直比古編『日本画素描大観4 安田靫彦』(1984・講談社)』『河北倫明・高階秀爾他監修『日本の名画14 安田靫彦』(1976・中央公論社)』『安田建一解説『安田靫彦の書』(1979・中央公論美術出版)』

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百科事典マイペディア 「安田靫彦」の意味・わかりやすい解説

安田靫彦【やすだゆきひこ】

日本画家。東京日本橋生れ。本名新三郎。小堀鞆音の門に入り,1898年同門の有志と研究団体紫光会(のち今村紫紅らが参加して紅児会と改称)を組織,新日本画の開拓に尽力。おもに文展に発表して認められ,1914年再興日本美術院の同人,1935年帝国美術院会員となった。優美な線描と典雅な色彩を特徴とする新古典主義的画境を開拓し,日本,中国の古代に材を取った歴史画を多く描いているが,そこには古代史への深い造詣がうかがわれる。代表作《御産の祷》《王昭君》など。1948年文化勲章。
→関連項目岩橋英遠小倉遊亀小林古径前田青邨横山大観

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安田靫彦」の意味・わかりやすい解説

安田靫彦
やすだゆきひこ

[生]1884.2.16. 東京
[没]1978.4.29. 神奈川,大磯
日本画家。本名は新三郎。 1898年小堀鞆音に師事,同年 14歳で日本美術院展に出品。紫紅会 (のちの紅児会 ) を結成,今村紫紅らと研鑽を積み,新日本画運動を推進した。初期文展でも活躍したが,1914年日本美術院再興にあたって同人となり,以後は院展発展のために尽した。歴史画にすぐれ,やまと絵を基礎とした高雅で洗練された新古典主義と呼ばれる画風を展開。古美術についても造詣が深く,また良寛の筆跡を世に宣揚した。帝室技芸員,帝国芸術院会員,東京美術学校教授をつとめ,48年文化勲章受章。その他第2次世界大戦前および戦後を通じ,法隆寺壁画の再現事業に尽し,69年には前田青邨とともにその総監修をつとめた。主要作品『夢殿』 (1912,東京国立博物館) ,『五合庵の春』 (20,同) ,『日食』 (25,東京国立近代美術館) ,『役優婆塞 (えんのうばそく) 』 (36,群馬県立近代美術館) ,『黄瀬川陣』 (41,東京国立近代美術館) ,『王昭君』 (47) ,『鴻門会』 (55,東京国立近代美術館) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安田靫彦」の解説

安田靫彦
やすだゆきひこ

1884.2.16~1978.4.29

大正・昭和期の日本画家。東京都出身。本名新三郎。小堀鞆音(ともと)に師事し,紫紅会(のち紅児会)を結成。東京美術学校中退。1914年(大正3)日本美術院再興に参加,同人となり院展三羽烏として活躍。34年(昭和9)帝室技芸員,翌年帝国美術院会員,44年東京美術学校教授。48年文化勲章受章。法隆寺金堂壁画模写,同再現模写に従事。作品「風神雷神」「飛鳥の春の額田王」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安田靫彦」の解説

安田靫彦 やすだ-ゆきひこ

1884-1978 明治-昭和時代の日本画家。
明治17年2月16日生まれ。小堀鞆音(ともと)に入門し,紫紅会(のちの紅児会)を結成。文展出品の「夢殿」で注目される。大正3年日本美術院の再興に参加。以後,歴史画を中心に新古典主義とよばれる高雅な画風の作品を院展などに発表。東京美術学校(のち東京芸大)教授。昭和23年文化勲章。昭和53年4月29日死去。94歳。東京出身。本名は新三郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安田靫彦」の解説

安田靫彦
やすだゆきひこ

1884〜1978
明治〜昭和期の日本画家
本名は新三郎。東京の生まれ。東京美術学校中退。今村紫紅らと紅児会を組織し,のち横山大観らと日本美術院再興に尽力した。作風は大和絵を基礎にし,古典や有職故実の知識を生かすとともに近代的感覚をももりこんだ,独持のもの。歴史的人物を個性的に表現した。1948年文化勲章受章。代表作に『王昭君』『黄瀬川の陣』など。

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