内牧村(読み)うちまきむら

日本歴史地名大系 「内牧村」の解説

内牧村
うちまきむら

[現在地名]春日部市内牧

梅田うめだ村の西の台地上に位置する。南境を古隅田ふるすみだ川が流れ、土橋新方袋にいがたぶくろ村に通ずる。元亀二年(一五七一)九月二五日の北条氏照判物写(安得虎子)によると、氏照は小田野源太左衛門尉に「内牧之郷」の地を宛行っているが、氏照と岩付いわつき領との関係が不明なため「内牧之郷」を当地に比定するのは検討を要する。天正七年(一五七九)二月二五日の北条氏舜判物(思文閣古書資料目録)には「拾九貫三百文 内牧」とみえ、宛所不明であるが、これは岩付城(現岩槻市)の春日摂津の陣代を命じたために宛行われたもので、氏舜の父北条氏繁が同二年まで岩付城代であったことから、この内牧は当地のこととも考えられる。江戸時代には埼玉郡百間もんま領に属した(風土記稿)

内牧村
うちまきむら

[現在地名]静岡市内牧

安倍川下流右岸、同川に合流する内牧川沿いの谷間に位置し、北は足久保あしくぼ村、東は中之郷なかのごう村など。古代の馬牧の跡ではないかと伝えられ、小地名として馬別所・駒返しなどが残っていたという(「駿河記」など)。「延喜式」兵部省諸国馬牛条に駿河国の「蘇弥奈馬牧」がみえ、一説にこの馬牧は当地から安倍川・藁科わらしな川合流点南のまきにかけての一帯に比定される(旧版「静岡県史」など)。これに対し、曾比奈そびなの字名を残す現富士市大淵おおぶち付近に比定する説もある(「富士市史」など)

内牧村
うちのまきむら

[現在地名]阿蘇町内牧

西は駄原だばる村、南東成川なるかわ村と接する。室町期の成立と思われる阿蘇社年中神事次第写(阿蘇家文書)に一一月中の卯の日から始まる北宮の火迎の神事の献物として「郡浦御贄真口魚三喉貫ニ掛、小里内ノ牧狩蔵ヨリ参御贄、猪鹿左脇ニ掛奉ル」とある。近世は内牧手永に属した。正保郷帳では高三八四石八斗余、内訳は田方二四七石八斗余・畠方一三六石九斗余である。「国誌」に「広瀬村井手口村等ノ小村アリ」とある。

内牧村
うちのまきむら

[現在地名]榛原町大字内牧うちまき

内牧うちまき川上流の渓谷地域に所在慶長郷帳村高四八一・二石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)幕府領元禄検地により村高は六二一・二七〇石となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報