工藤祐経(読み)くどうすけつね

精選版 日本国語大辞典 「工藤祐経」の意味・読み・例文・類語

くどう‐すけつね【工藤祐経】

鎌倉初期の武将。祐継の二男。伊豆狩野氏一族ではじめ平重盛仕える。伊東祐親と伊東荘を争い、その子河津祐泰を殺害。のち源頼朝に仕えたが、富士裾野の狩り場で、祐泰の子、曾我祐成・時致(ときむね)兄弟に討たれた。この仇討を素材とした「曾我物語」は広く流布した。建久四年(一一九三)没。

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デジタル大辞泉 「工藤祐経」の意味・読み・例文・類語

くどう‐すけつね【工藤祐経】

[?~1193]鎌倉初期の武将。伊豆の人。所領の争いから同族河津祐泰かわづすけやすを殺害。のち、その遺児曽我祐成そがすけなり時致ときむねの兄弟に、富士の巻狩り陣中で殺された。→曽我兄弟

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「工藤祐経」の意味・わかりやすい解説

工藤祐経
くどうすけつね
(?―1193)

鎌倉初期の伊豆(いず)(静岡県)の豪族。祐継(すけつぐ)の子。初め平重盛(しげもり)に仕え、京都に宿衛したが、この間従兄(いとこ)伊東祐親(いとうすけちか)に所領伊豆国伊東庄(しょう)を押領(おうりょう)せられ、さらに妻を奪われたのを怒って帰国し、1176年(安元2)祐親を傷つけ、その子祐泰(すけやす)を殺した。その後源頼朝(よりとも)に仕えて寵遇(ちょうぐう)せられ、北条氏とも親交があった。祐経は在京の間舞楽の道を学んで名手とうたわれ、86年(文治2)源義経(よしつね)の妾(しょう)静御前(しずかごぜん)が鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の社頭で舞ったとき、鼓を打ってこれに和した。しかし、祐泰の遺子祐成(すけなり)、時致(ときむね)(曽我(そが)兄弟)に親の仇(あだ)としてねらわれ、93年(建久4)5月28日夜、頼朝の富士野の巻狩(まきがり)に従った際、狩場の陣営で2人のために殺された。

[新田英治]

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朝日日本歴史人物事典 「工藤祐経」の解説

工藤祐経

没年:建久4(1193)
生年:生年不詳
平安末・鎌倉初期の武士。工藤一郎と称す。父は祐継。平重盛の許に出仕し家人となり在京,左衛門尉に任官した。在京中に叔父(従兄弟とする説あり)伊東(河津)二郎祐親に,伊豆国伊東荘を預けていたが,祐親が押領したとして相論となった。祐経の妻は祐親の娘であり,この対立のため祐親の許に連れ戻され,土肥遠平に嫁がされた。これを怒った祐経は,安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い,祐親の嫡子河津祐泰を殺害した。源頼朝の挙兵以後,早くから頼朝方に付き,幕府成立以後は,在京の経験から,楽などの道にも通じており,頼朝の信任も厚く,平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴や文治2(1186)年に源義経の妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞をまった際に鼓の役を務めた。また,平家追討で九州へ従軍し,5年には奥州合戦にも出陣している。建久4(1193)年,河津祐泰の子の曾我十郎祐成・五郎時致兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。

(飯沼賢司)

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改訂新版 世界大百科事典 「工藤祐経」の意味・わかりやすい解説

工藤祐経 (くどうすけつね)
生没年:?-1193(建久4)

鎌倉時代初期の武士。祐継の子。元服後まもなく上洛し,皇室関係の武者所(むしやどころ)に仕えて一﨟(いちろう)の地位にのぼったため工藤一﨟と称された。弟の宇佐美祐茂(助茂)におくれて源頼朝に仕えたが,在京中に身につけた文化的教養によって重用され,捕らわれた静御前が頼朝の前で舞った際に伴奏の鼓を打ったのは有名。1193年5月富士野巻狩りの夜,曾我兄弟に討たれた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「工藤祐経」の意味・わかりやすい解説

工藤祐経
くどうすけつね

[生]?
[没]建久4(1193).5.28. 駿河,富士野
鎌倉時代初期の武将。伊豆,伊東の荘を領した。祐継の子。平重盛に仕え,在京中従兄伊東祐親に所領を奪われたので,安元2 (1176) 年富士野の狩り場にこれを襲い,祐親の子祐泰を殺した。のち源頼朝に仕えたが,祐泰の遺子祐成,時致 (→曾我兄弟 ) によって狩り場の陣営で討たれた。鼓をよくしたと伝えられる。

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百科事典マイペディア 「工藤祐経」の意味・わかりやすい解説

工藤祐経【くどうすけつね】

鎌倉初期の武将。祐継の子。初め平重盛に仕え,のち源頼朝に従った。所領伊豆(いず)伊東荘をめぐって従兄伊東祐親と争い,その子祐泰を殺したが,そのため1193年富士の巻狩(まきがり)の時,祐泰の子祐成(すけなり)・時致(ときむね)(曾我兄弟)に討たれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「工藤祐経」の解説

工藤祐経 くどう-すけつね

?-1193 平安後期-鎌倉時代の武将。
伊豆(いず)伊東荘(静岡県)の豪族。平重盛につかえ京都に宿衛。伊東祐親(すけちか)と所領のことであらそって,祐親をきずつけ,その子河津祐泰を殺害。のち源頼朝につかえる。建久4年5月28日富士の巻狩りの夜,祐泰の遺子曾我祐成・時致(ときむね)(曾我兄弟)に討たれた。

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世界大百科事典(旧版)内の工藤祐経の言及

【曾我兄弟】より

…平将門の乱のときの常陸国司藤原惟幾の子孫を称する工藤氏の人。伊豆の国衙有力官人として伊豆半島海岸一帯に勢力をはった有力武士団工藤氏のなかで,伊東祐親(兄弟の祖父),河津祐通(泰)(兄弟の父)父子と工藤祐経(すけつね)との間で所領相論がおこり,1176年(安元2)祐通が祐経の従者によって殺害された。祐通の妻は幼い兄弟を連れて,同じ工藤一族の曾我祐信に再嫁した。…

※「工藤祐経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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