デジタル大辞泉
「土橋」の意味・読み・例文・類語
ど‐ばし【土橋】
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ど‐ばし【土橋】
[1] 〘名〙
①
城郭の構成要素の一つ。堀を掘ったときに虎口前の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。
※築城記(1565)「
追手の口は土橋可
レ然也。自然板ばしなどは火を付事ある也。切て出てよき方を土ばしにする也」
② 木などを組んでつくった上に土を覆いかけた橋。つちはし。
[2] 江戸時代、深川八幡二の
鳥居の東側(東京都江東区富岡二丁目)にあった
岡場所。深川七場所の一つ。
明和から
天明(
一七六四‐八九)頃
仲町と並び称され、最上位に属したが
寛政の
改革で取り潰され、
天保(
一八三〇‐四四)頃に廃滅した。
つち‐はし【土橋】
〘名〙 (「つちばし」とも) 木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。どばし。〔十巻本和名抄(934頃)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
土橋
つちはし
[現在地名]和歌山市粟
粟村の東部地域をさした。「続風土記」によれば土橋を名字とする者が住し、土豪となったところから、この地を土橋と称するようになったという。戦国時代の雑賀一揆の中心地は雑賀庄であったが、その北東端の当地土橋に本拠を置く土橋氏は、当初より有力な指導者であった。永禄三年(一五六〇)二月に畠山高政のもとに参じた「雑賀ノ人々ニハ、鈴木孫九郎重宗・同孫市重意・土橋小平種興共一千八百騎」(畠山記)とあるように、鈴木氏と並んで一揆衆の指導者として従軍している。
土橋
つちはし
千田庄に属し、現寺作・御所台付近に比定される。当地の土橋山東禅寺には金沢称名寺の学僧・本如房湛睿が長老として住し、戒律・華厳を講じて地方武士の信仰を集めた。金沢文庫文書(以下断りのない限り同文書)によると、嘉暦三年(一三二八)以降、建武(一三三四―三八)の北条氏滅亡前後にかけて、湛睿は当地と称名寺の間を行き来し積極的に地方教化を展開している。康元二年(一二五七)閏三月三日の憲海手沢本「大聖歓喜天行法次第」の奥書に「下総国千田御庄東禅寺」とあり、元徳三年(一三三一)正月二一日の湛睿手沢本「戒本見聞集」の奥書に「下総国千田庄土橋東禅寺」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
普及版 字通
「土橋」の読み・字形・画数・意味
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報