西宇和郡(読み)にしうわぐん

日本歴史地名大系 「西宇和郡」の解説

西宇和郡
にしうわぐん

面積:一七三・九九平方キロ
保内ほない町・伊方いかた町・瀬戸せと町・三崎みさき町・三瓶みかめ

宇和海に突出した佐田岬さだみさき半島の保内町伊方町・瀬戸町・三崎町および八幡浜やわたはま市を隔てて飛地となっている三瓶町の五町からなる。背後には山岳が起伏し、海岸はリアス海岸が続き、宇和海北部の漁業地域となっている。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡は乏しく、弥生時代の遺跡には磯岡いそおか遺跡(現保内町)があり、弥生後期の土器が発見されている。

奈良時代においてはこの地域は宇和郡に属していたが、「三代実録」によると貞観八年(八六六)一一月、宇和郡を宇和・喜多きた両郡に分割した際、喜多郡の所管となった。「和名抄」にみえる矢野やの郷がそれであり、同郷は現在の西宇和郡・八幡浜市の地域に比定される。また同郷は平安末期に再び宇和郡に所管されたとする見方もある。

矢野郷内には、平安時代に矢野保が成立したと思われ、矢野保内という呼称も生じた。のちに近世まで用いられる地名となっている。

院政期には矢野領とよばれ、池大納言平頼盛の荘園であった。治承・寿永の内乱のなかで、一時平家没官領の中に入るが、寿永三年(一一八四)四月五日、源頼朝が故池禅尼の恩徳に報いるため、後白河法皇にその返還を願い出ている。「吾妻鏡」によると、頼盛に返還された所領三四ヵ所の内に「矢野領伊与」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報