亀岡村(読み)かめおかむら

日本歴史地名大系 「亀岡村」の解説

亀岡村
かめおかむら

[現在地名]尾島町亀岡・太子町たいしちよう

東は尾島村堀口ほりぐち村、西は大館おおたち村と阿久津あくつ元地もとち(現荒久)、南は前島まえじま村・武蔵島むさしじま村。本村ほんむら軽浜かるはま裏地うらじの三字からなる。軽浜付近の表土の下一面に軽石層があり、往古利根川の流路を知る手がかりにもなる。標高は南になるにつれ低くなっており、村域もかつては利根川の流路に含まれていたらしい。西を南北に元禄年間(一六八八―一七〇四)以降の銅山あかがね街道が通る。明徳三年(一三九二)八月一一日の岩松頼宥寄進状(長楽寺文書)に「新田庄亀岡郷額戸方」とみえ、額戸氏相伝分が闕所として岩松氏に吸収され、世良田長楽せらだちようらく寺へ永代寄進された。年月日未詳の長楽寺寺領目録案(同文書)にも同所が寺領としてあげられている。

亀岡村
かめおかむら

[現在地名]高畠町亀岡

入生田いりゆうだ村の東、文珠もんじゆ(五二二メートル)の西麓に位置。亀岡文殊かめおかもんじゆ(大聖寺)の門前集落として発達した村で、江戸時代初期までは文殊寺(文珠寺とも)村といった。亀岡村と改称された時期は不明だが、正保郷帳には文殊寺村とあるのでそれ以後であろう。

山地南端に飯坂蔵人左衛門の館跡と称する所があり、永正一三年(一五一六)六月一八日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によると、「下飯坂方より買地、屋代之庄文殊寺の内丹波在家一宇」などが山岸長門守に安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳では「もんしゆ寺」の段銭は二九貫四二〇文、うち二貫一〇〇文は中館への引分となっている。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、「文珠寺のうち、こはし八郎ゑもんつくり」が宮崎修理に、「文しゆ寺之内、かハより西五百かり」が浜田宮内少輔に、「文しゆ寺の内、川より西きり田五百かり」が浜田与四郎に与えられている。

亀岡村
かめおかむら

[現在地名]藤崎町亀岡

東は吉向よしむかい村、西は横沢よこさわ(現北津軽郡板柳町)、南は五林ごりん村、北は大俵おおだわら(現板柳町)に接する。

神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば、寛文元年(一六六一)正観音(現八幡宮)が亀岡村から西中野目にしなかのめ村に移されたという。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高三三〇・六石とあり、同四年の検地帳によれば、田方三〇町六反四畝二〇歩、畑方二町二反一畝一九歩、田畑屋敷合せて三二町八反六畝九歩、村高三三四・八三九石とある。

亀岡村
かめおかむら

[現在地名]岩瀬町亀岡

桜川右岸、岩瀬盆地の北東部に位置し、北は平沢ひらさわ村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。亀岡村差出帳(大和田家文書)によれば、慶安三年(一六五〇)に検地が行われ、万治三年(一六六〇)・延宝五年(一六七七)・元禄一五年(一七〇二)に新開検地が行われた。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には堰四、竹藪一二があり、岩瀬村との共同秣場や間中まなか村への入草刈場もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報