高畠町(読み)タカハタマチ

デジタル大辞泉 「高畠町」の意味・読み・例文・類語

たかはた‐まち【高畠町】

高畠

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日本歴史地名大系 「高畠町」の解説

高畠町
たかはたまち

面積:一八一・二一平方キロ

米沢盆地の東部に位置し、東は宮城県境、西は川西かわにし町、北は南陽市・上山かみのやま市・南は米沢市に接する。地形的には中心部の屋代やしろ川流域、南陽市に続く泥炭湿原大谷地おおやち、南部の和田わだ小盆地に三区分され、大和三山に擬される竹森たけのもり(二八一・五メートル)相森あいのもり(二五八・八メートル)根岸ねぎし(三〇〇メートル)があり、亀岡文殊かめおかもんじゆ(大聖寺)の背後には文珠もんじゆ(五二二メートル)がそびえる。

大谷地の東部山地には、断層活動や風化浸食でできた数多くの小洞窟・岩陰が点在し、石器時代以来、住居・墓地などに利用されてきた。高畠町域の原始・古代遺跡一三〇のうち、洞窟・岩陰遺跡は二〇ヵ所に及ぶ。日向ひなた火箱岩ひばこいわ大立おおだちいちさわおよび神立かんだち尼子あまこの各遺跡は中石器時代にさかのぼり、昭和三〇年代の調査で、大型尖頭器類とともに撚糸文・押型文土器群以前の土器が発掘され、全国的な注目を集め、「縄紋時代草創期」編年論の根拠をなした。以後、縄文時代早期から古墳時代まで断続して利用されたこれら岩陰遺跡のうち、日向・火箱岩・大立・一ノ沢は国指定の史跡となっている。吉野よしの川と屋代川の合流点に近い大谷地の排水口周辺の自然堤防上から後背湿地にかけて立地する相森遺跡と押出おんだし遺跡は、縄文時代前期の低湿性遺跡で、とくに後者からは打込柱・丸太床の平地式住居群と多数の土器・木製品やクッキー状炭化物などが出土、縄文人の生活を浮彫にした。縄文時代中期の上平柳かみひらやなぎB・だいはた、後期の上平柳Aといしもり、晩期の宮下みやしたの諸遺跡は、屋代川流域の河岸段丘・自然堤防・扇端部に立地する。

弥生時代の遺物は、前―後期を通じて岩陰遺跡で発見される。多くは墓地であろう。尼子岩陰からは石鏃、観音岩十三仏かんのんいわじゆうさんぶつ洞からは磨製骨角器・紡錘車、神立洞窟からはシカ角製レピア・ヘッドが出土した。平地部では中期のはら遺跡が知られるのみ。古墳時代前期にも、鉄刀・鉄鏃を副葬した塩竈式期の地獄岩じごくいわ遺跡など岩陰利用の墓地がみられる。後期に入って川沼かわぬま遺跡(別称寝鹿遺跡)が和田川の自然堤防上に営まれた。金原かなばら古墳や清水前しみずまえ古墳群など内部構造が横穴式石室の古墳は、七世紀代に屋代川上流の谷底平地に出現した。

大化改新後まもなく成立したとみられる陸奥国うきたま(「日本書紀」持統天皇三年一月三日条)ないし和銅五年(七一二)出羽国成立時の置賜郡の郡衙は、屋代川上流の小郡山こごりやまが擬定地である。

高畠町
たかばたけちよう

[現在地名]奈良市高畑たかばたけ

下高畠町の東方所在。通称上高畑町にあたる。「奈良曝」にはみえず、「奈良坊目拙解」によれば春日社の禰宜が住み無税地。興福寺寺門郷の新薬師しんやくし郷のうち。「大乗院雑事記」の文明一五年(一四八三)八月六日条には「七郷上高畠」とある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高畠町」の意味・わかりやすい解説

高畠〔町〕
たかはた

山形県南東部,米沢盆地東縁の町。米沢市の北東に位置し,東は宮城県に接する。 1895年町制施行。 1954年,二井宿 (にいじゅく) 村,屋代村亀岡村,和田村と合体し社郷 (やしろごう) 町となる。 55年糠野目 (ぬかのめ) 村を編入し,現町名に再改称。中心集落の高畠は中世の城下町で,近世には江戸幕府直轄領ともなっていた。米作のほか,果樹栽培,乳牛,肉牛の飼育が行われる。精密機器・電気機器工業も立地。縄文時代早期の日向 (ひなた) 洞窟や大立洞窟,一の沢洞窟,火箱岩洞窟は史跡に指定されている。羽山 (はやま) 古墳をはじめとする多くの古墳のほかにも,亀岡文殊堂や安久津八幡宮などの歴史的遺産がある。また,児童文学者浜田広介の出生地でもあり,記念館がある。北東部一帯は県南県立自然公園に属する。山形新幹線,JR奥羽本線,国道 13,113,399号線が通る。面積 180.26km2。人口 2万2463(2020)。

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