丸山村(読み)まるやまむら

日本歴史地名大系 「丸山村」の解説

丸山村
まるやまむら

[現在地名]岸本町丸山

小林こばやし村の北西、大山北西麓の高台に位置し、集落の周辺にわずかに耕地が広がるほかは村域の大半を山林が占める。村の北側をはん(佐陀川の上流)が流れ、同川沿いに分村の半川はんがわがある。また半川流域には、大かなくそ谷・小かなくそ谷とよばれる鑪製鉄跡が残る。古来、大山と西伯耆・出雲方面とを結ぶ交通の要地で、当地を通って大山に向かう道は、集落約一里東方の地内で赤松あかまつ(現大山町)から大山に通じる道(大山道の一、尾高道)を合せ、同所に設けられた茶屋はわけの茶屋とよばれた。「日本九峰修行日記」の著者野田成亮も文化一一年(一八一四)出雲路から伯耆に入り、相見あいみ八幡宮(現米子市)に詣でたのち、福万ふくまん(現同上)・当村を経て大山に登拝している。なお万治三年(一六六〇)には本坊西楽さいらく院をはじめとする大山一山各坊の里坊屋敷が当地に設けられ、冬季には西楽院留守居役が同所で執務していた。

文明一三年(一四八一)と推定される九月一二日の山名政之注進状(蜷川家文書)に「兵部少輔元之以下楯籠候円山城、去月十二日夜追落候」とみえる。応仁・文明の乱の過程で伯耆国人たちは守護山名政之に対抗するため同氏一族の兵部少輔元之を擁して円山城に立籠った。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]岡崎市丸山町

村域内を作手つくで道が通り、街道沿いの広いおと川右岸の河岸段丘上に集落が立地。北部は山地である。東は小美おい村、西はほら村・大平おおひら村・丸平まるひら新田村、北は高隆寺こうりゆうじ村、南は男川で対岸のおか村と境する。

村上むらかみでは、縄文早期の押型文土器をはじめ、中期後半の竪穴住居跡二ヵ所、埋葬人骨などが発見された。丸山地籍に群集してみられる丸山古墳群は後期のものが多く、字村上の村上古墳、字宮前みやまえの神明宮境内にある神明宮一号墳、字きようみねの帆立貝式古墳形式の経ヶ峰一号墳などが主なものである。古代の東海道筋と想定される現美川中学校の校庭より奈良時代初期の軒平瓦・布目瓦が出土し、丸山廃寺と称された。伝承では加良須からす神社の手洗が同寺の礎石とされる。中世、男川おとがわ庄に属したという。

丸山古城跡は三ヵ所とされ、一つは丸山中務の居城で、後に成瀬一族の居城となったと伝える。他は永禄七年(一五六四)頃の川澄文助居城跡とされ、残り一ヵ所は不明。丸山中務は康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「弐貫六百七十文 丸山掃部助 三河国宝飯郡内三ケ所」とみえる。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]太田市丸山

吉沢よしざわ村の東南、八王子はちおうじ丘陵東南の平地に位置し、南は矢田堀やたぼり村、東は只上ただかり村。用水として西辺を新田につた堀、東辺を休泊きゆうはく堀が南流する。また村内中央を桐生道が南北に、足利街道が東西に通じ交通の要地であった。元亀三年(一五七二)三月二四日の上杉謙信書状(写、「歴代古案」所収)で謙信は、新田の砦である「丸山之地」に攻め入りこれを焼払った河田重親を賞している。慶長一一年(一六〇六)の市開設定(青木文書)に「丸山之郷」とみえる。寛文郷帳では館林藩領とあり、田方三六五石余・畑方二五五石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳によると高六三一石余分が旗本石川領などの三給。明和七年(一七七〇)の御普請所仕来帳(青木文書)によると、旗本野々山領などの三給で、村内には当時新田堀・車田くるまだ堰・休泊堀の三用水が流れていた。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]畑野町丸山

小佐渡山中の南向きの斜面から山麓にかけての山村的性格の強い村。北に男神おがみ山・女神めがみ山とその奥に飯出いいで(四〇九メートル)が続く、南・西は山田やまだ(現赤泊村)、東は河内かわち(現浜河内)を経て多田おおだ湊にも近い。中央部の権現堂ごんげんどう山という円形の丘を取囲むように柳久保やなくぼ平清水ひらしみず・丸山の三つの集落がある。檜山ひのきやま越の途中に馬込まごめという馬飼場があり、古代北陸道の通過地点とも考えられる。権現堂山の一角に丸山城跡がある。国仲くになかに通ずる街道筋に当たり、中世末丸山殿は多田城城主の本間信濃守の家臣という。江戸初期に数度の火災に遭い、元禄(一六八八―一七〇四)以前の古記録類はほとんどみられない。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]近江八幡市円山町まるやまちよう

北庄きたのしよう村の北にある。琵琶湖に半島状に突き出たおく(古くは葭沼などにより隔てられ陸続きではなかった)の付け根にあたる。西は鶴翼かくよく山の北部山稜で、北は奥島の白部しらべ村・奥島おくのしま村・北津田きたつだ村など。朝鮮人街道が分岐し、長命ちようめい寺へ通じる道(長命寺道)が通る。円山とも記した。天正五年(一五七七)売渡状(西川文書)によると円山の幸善五郎が「東堀江」を直米七石で売渡している。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]小松市丸山町

手取川支流の大日だいにち川流域にあり、白山山系の北西麓に位置する。下流に小原おはら村がある。白山麓十八ヶ村の一つ。中世は山内やまのうち庄のうち。文亀元年(一五〇一)五月二日本願寺実如が下付した阿弥陀如来絵像(久保家蔵)の裏書に、「円満寺村本光寺門徒 加州能美郡山内庄丸山 願主釈了承」とみえ、軽海かるみ郷内円満寺えんまんじ村の本光ほんこう寺の教線が伸びていた。「天文日記」天文六年(一五三七)九月二二日条によれば、本光寺が享禄の錯乱で、「山内軽海郷衆」を率いて超勝ちようしよう寺方として働いたとある。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]伊奈町小室こむろ 丸山・大山おおやま

別所べつしよ村の西に位置し、南は原市沼はらいちぬま川を隔てて原市村(現上尾市)など。江戸時代の領主の変遷は小貝戸こがいと村に同じ。当村には伊奈忠次の陣屋が置かれ、江戸初期には軍事・経済上の要地であった。田園簿では田四四石余・畑三六石余。検地は明暦二年(一六五六)に実施されたと伝える(風土記稿)。中山道上尾宿の助郷村で、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)では勤高八一石余・役家数六。原市沼川は桶川宿東方から低地を縫って流れ、丸山に至り急に広がって貯水場を呈し、原市沼(卯の木沼・小室沼)と称する沼を形成する。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]木造町丸山

屏風山びようぶさん砂丘の東部末端に位置する。北は嘉福かふく村、南は南広森みなみひろもり村、西は丸山池に続き、さらに西方の屏風山砂丘の中へ行くと右に大堤おおづつみがみえ、やがて出来島できしま村に達する。東は田圃を隔てて嘉納かのう村。

元文元年(一七三六)の工藤家由緒書(津軽新田開発者の系譜)によれば、二代目の弥三兵衛が寛文二年(一六六二)竹鼻たけはな村を開村し家数は一七軒とある。享保一一年(一七二六)藩が領内へ一万両の御用金を課した時、「竹花村」の郷士乗田安兵衛が二〇〇両を出している。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]宮川村丸山

宮川右岸にあり、西は牧戸まきど村、東は巣之内すのうち村。急峻な断層崖の迫る狭い断層谷に位置する。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳の小島こじま郷に十二歩じゆうにぶ村・高八八石余があり、丸山村からたに(現神岡町)までの宮川右岸一二村をさすと思われる。元禄検地帳(宮川村文書)では高二三石余、田九反余・畑三町七反余、漆八畝歩。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]高梁町宇治町穴田うじちようあなだ

宇治村の西に位置し、宇治盆地の南部を占める。寛永備中国絵図に村名がみえ、高一九六石余、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)。同絵図にみえる北方村(高六八石、松山藩領)ものち丸山村に含まれる。正保郷帳には丸山村一村で高付され、高二一四石余、宮林少・芝草山大とあり、枝村に北方きたかた村・北方ノ内火打ひうち村・杉寄村をあげる。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)では古高四六七石余・新高五四四石余。「備中村鑑」に庄屋荻原徳五郎とある。明治一四年(一八八一)塩田しおた村と合併して穴田村となる。

当地南部、島木しまき川の西岸に丸山城跡がある。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]谷和原村西丸山にしまるやま

西楢戸にしならど村の西、中通なかどおり川西岸に位置。箕輪みのわ村より豊躰ぶたい(現伊奈村)に通じる道筋にあたる。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩大給松平氏領であったが、正徳二年(一七一二)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」には西丸山村とあり、明治元年(一八六八)の村高一五〇・一九二石。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]黒瀬町丸山

乃美尾のみのお村の西に位置し、北は大多田おおただ村に接する。北部は大多田村から続く山地で丘陵が多いが、南部は川角かわすみ村から続く黒瀬川北岸の平地。大多田村から南流した神洗かれい川が村の東を流れる。中央部の竜王りゆうおう(二四〇・三メートル)は小富士山ともよばれ、山形が円いので、村名はそこに由来すると伝える。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に高二九七石三斗三升七合とあり、「芸藩通志」は田畝三五町三段六畝余で同高を記す。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]千種区丸山町・南明なんめい町・日進につしん通・御棚おたな

末森すえもり村の南西にある。天保村絵図によれば、集落は村の西部に集まり、ほかは村内に末森村の飛地や名古屋新田が混在する平坦な水田地帯である。水利はねこほら池の用水によった。寛文一一年(一六七一)の家数三二、人数二二五(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は一八町六反八畝余、畑は九町八反四畝余で、概高三四四石余はすべて藩士八名の給知。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]御坊市湯川ゆかわ町丸山

標高一二一メートルの丸山西麓にあり、南はいつき川を境に小松原こまつばら村に接する。丸山は小松原富安とみやすではかめ山と称し、中世の豪族湯河氏の亀山かめやま城があった。近世の組編成で、他村が天田組に属したのに対し当村のみ入山組となったが、これは当村が御坊村北方の日高上郷に属していたからと思われる。慶長検地高目録による村高五三九石余、小物成二石一升。延宝六年(一六七八)「日高鑑」に村高五四四石余(うち三〇二石余は給知)、町数四六町六反余、家数一〇〇で内訳は本役六一・無役三五・庄屋一・ありき一・年寄二、人数四三九、牛四〇、馬一七、池二、狼煙場一、二夫米一〇石余とある。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]福井市丸山町

福井城下北東の志比口しひぐち外の勝山街道南側にあり、北は開発かいほつ村・新保しんぼ村に接する。村の北に小円丘の丸山があり、村名はこれにより、もとは丸岡山まるおかやま村と称した。暦応三年(一三四〇)九月日付得江頼員軍忠状(得江文書)の同年八月一七日条に「構向城於藤島内丸岡之処、自黒丸城凶徒打出」とある「藤島内丸岡」は当村のことで、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図や正保郷帳でも丸岡山村とみえる。貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」以降丸山村となる。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]神岡町丸山

河岸段丘上の東西を結ぶ山嶺の麓に位置し、傾斜地に段状に北に向かって開け、東と北は野首のくび村、西は小萱こかや村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では麻生屋あそや郷の内に「朝浦 丸山 鎌崎村 のくひ村四村分」として、田方一三〇石余・畑方六二石余、物成合九一石余とある。同一八年の郷帳では高原たかはら郷に属し、高五七石余。元禄検地反歩帳では高九三石余、田五町余・畑五町一反余。「飛騨国中案内」では免三割四厘余、家数一五(うち百姓九・門屋三・地借三)、家作は萱葺。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]日向市美々津町みみつちよう

田原たのはる村の南西、石並いしなみ川の南岸丘陵地に立地する。児湯こゆ郡に属し、江戸時代は高鍋藩領。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえる。同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高七石余。野別府代官川北庄屋の支配であったが、天明二年(一七八二)川北庄屋河辺久兵衛の願出により支配地が三分され、当村は高松名主の支配地になった(続本藩実録)

丸山村
まるやまむら

[現在地名]久美浜町字丸山

佐濃さの谷の西側山麓、女布によう村の南、野中のなか村の北に位置する。もと女布から移り住んだと伝えている。低地のため、昔から佐濃谷川の水害に苦しんだ。

慶長検地郷村帳に高八八・九八石「丸山村」とみえるが、延宝九年(一六八一)には八三石余に減少している(天和元年宮津領村高帳)

丸山村
まるやまむら

[現在地名]紀和町丸山

矢野川やのかわ村の北、入鹿いるか(板屋川)の上流にあり、村中を本宮街道(現国道三一一号)と北山街道が通る。中世は入鹿氏領であったと考えられる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「入賀之内丸山村」と記される。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]八尾町丸山

深谷ふかたに村の西方、井田いだ川右岸の山腹にある。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一八石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では新田高八九石余・平均免一ツ一歩八厘余、銀納畠七〇〇歩(一〇〇歩につき一匁)。井田村の枝村で、幕末の高一一八石余・免二ツ四歩、銀納高二石余・免一ツ二歩(古高免小物成銀等書上)

丸山村
まるやまむら

[現在地名]可児市久々利くくり

西流する久々利川上流部、比高二五メートルほどの独立丘丸山の東方の小村。東は久々利枝郷大萱おおがや。久々利七郷の一。慶長郷帳などには久々利村として他郷とともに一括して記載され、尾張藩領。寛永年間(一六二四―四四)の御両家并九人衆高概免覚書(西山文書)に丸山村とみえ高一一四石、三尾左京の給地。「濃州徇行記」には田六町九反余・畑一町七反余、家数三一・人数九六、馬六。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]篠山市丸山

奥畑おくはた村の西にあり、西部を黒岡くろおか川が流れる。「丹波志」では宗部そがべ郷のうちとして丸山とみえ、奥畑の支郷とあり、高四六石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では畑組のうち丸山村とみえ、家数一二・人数五六。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]谷田部町東丸山ひがしまるやま

境田さかいだ村の東、東谷田ひがしやた川西岸に位置。古くは丸山新田村と称する。「各村旧高簿」には東丸山村とみえ、谷田部藩細川氏領で、明治元年(一八六八)の村高三七・一三三石。

丸山村
まるやまむら

[現在地名]大野町藤北ふじきた

藤北村の西にある。正保・元禄・天保の各郷帳、「豊後国志」に村名は記載されない。旧高旧領取調帳に村名がみえ、高一〇九石余。安永七年(一七七八)には藤北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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