三谷村(読み)みたにむら

日本歴史地名大系 「三谷村」の解説

三谷村
みたにむら

[現在地名]徳地町大字三谷

佐波川の支流、三谷川流域にある山間村。北は柚木ゆのき、東は大潮おおしお(現都濃郡鹿野町)、南は深谷ふかだに鯖河内さばごうち、西は八坂やさか船路ふなじの各村と接する。集落は村内のほぼ中央を西流する三谷川の川岸に点在する。萩藩領で徳地宰判に属した。

永正七年(一五一〇)一一月一二日付の防州佐波郡山行事職補任状(「寺社証文」所収周防阿弥陀寺文書)に「周防州佐波郡三谷引谷之」とあり、また伊勢神宮の御師が守札を配布した際の手控である中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分に「下とくち三谷 いゑもと四郎衛門殿」とみえる。

三谷村
みたにむら

[現在地名]庄川町三谷、砺波となみ市三谷

庄金剛寺しようこんごうじ村の北、庄川右岸段丘上にあり、北は安川やすかわ(現砺波市)。南東から北西へ谷内やち川が流下し庄川へ注ぐ。村名は領内に一ノ谷・二ノ谷・三ノ谷という山の名があることから唱えたという(元禄一四年「村名由来書」川合家文書)井波いなみ道が安川村から庄金剛寺村へと通り、安川村からの距離は九町(越中道記)。康永元年(一三四二)八月三日の沙門思淳渡状(覚園寺文書)に「般若野庄内三谷寺寄進状二通」とみえ、般若野はんにやの庄のうちの「三谷寺」が鎌倉覚園かくおん寺領となっていたことがわかる。元和五年(一六一九)の家高新帳では開発組に属し、役家数二二。正保郷帳の高一千二六二石余、田方七五町一反余・畑方九町余、水損所と注記される。

三谷村
みたにむら

[現在地名]養父町三谷

船谷ふねだに村の南、建屋たきのや川の流域に位置し、三谷・池山いけやままつはら添谷そえだに熊野ゆうやの五集落からなる。うち熊野集落は村の北西部、上山うやま(現大屋町)境の山中にあり、当村枝郷として熊野村と称される場合もあった。池山から熊野・上山村を経て樽見たるみ(現大屋町)に至る山道が通じていた。なお熊野は平家の落人伝説を伝え、永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(三方文書)のなかに、「一、上山村・熊野村堺 但シ坂之峯」と記される。熊野村と上山村との境界は坂之峯と解される。

三谷村
みつやむら

[現在地名]上磯郡上磯町谷好たによし一―四丁目・字三好みよし・字水無みずなし・字桜岱さくらたい・字添山そえやま

近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。三屋村・三家村・三ッ谷村などとも記した。流渓りゆうけい川下流域、南は函館湾に面する平坦地にある。近世は東在箱館付村々のうち。元禄郷帳に「三屋村」、天保郷帳には「従松前東在」として「三家村」とある。天明元年(一八七一)の松前広長「松前志」に三谷村として「昔は三屋の字をかけり」とあり、近世後期からはおもに三谷村・三ッ谷村と表記される。宝暦元年(一七五一)には現谷好稲荷神社が宗山そうやま村から移転したという(谷好稲荷神社碑文)

宝暦八年成立の「松前蝦夷聞書」では家数二七、八。天明年間の家数五〇弱・人数二三〇余(蝦夷拾遺)

三谷村
みたにむら

[現在地名]神辺町三谷

東中条ひがしちゆうじよう村の北に位置し、東は備中国後月しつき高屋たかや(現岡山県井原市)。「和名抄」所載の安那やすな三谿みたに郷の遺称地とされる。上三谷かみみたにの標高約三二〇メートルの山頂に平安時代の寺院跡と推定される木之上きのえ遺跡がある。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば高二五七石余。元禄一三年(一七〇〇)の三谷村御検地水帳(広島大学蔵)によれば反別三八町余・高三三九石余。福山藩水野家断絶後幕府領、嘉永六年(一八五三)阿部正弘の加増地として福山藩領に復帰。

三谷村
みたにむら

[現在地名]高松市三谷町

高松平野の南部、高野たかの村の西に位置し、南部に上佐うわさ山・日妻ひつま山・実相寺じつそうじ山が連なり、西には小日こひ山・山・あめ山が並ぶ山並との間に広がる盆地状の平地に集落が形成された。平地の東部に三郎さぶろう池、西部に住連寺じゆうれんじ(重蓮寺池)がある。三郎池周辺には縄文晩期から弥生前期・中期の遺跡が数多く分布し、南方の上佐山裾野の通谷遺跡からは弥生時代の土壙墓・甕棺が出土している。多数の古墳も散在する。古代の山田郡三谷郷(和名抄)の遺称地。

三谷村
みたにむら

[現在地名]久美浜町字三谷

久美谷くみだに川の上流部に位置する。口三谷・奥三谷の二集落に分れ、奥三谷から東の栃谷とちだに村の甲坂こうさかに接し、口三谷から西の奥馬地おくまじに通じる。

奥三谷小字白川しらかわの山麓または山腹に数個の横穴式古墳がある。また小字新道しんみちの丘陵上に径四間の円墳がある。口三谷小字アガリにも小型の円墳数個があり、この谷が早くから開けていたことがわかる。奥三谷小字新側の山頂に経塚があり、封土の中央に扁平な石材で作った箱形の小石室があり、蓋は三尺四方の一枚石で、その中に土製の経筒があり、その中にさらに八本の銅筒と鏡が納められていた。

三谷村
みやむら

[現在地名]二宮町三谷

阿部岡あべおか村の南、小貝こかい川左岸にあり、集落は八溝やみぞ山地南東端西麓の山間に発達。慶安郷帳によれば田高二九六石余・畑高二〇三石余、常陸笠間藩領。元禄郷帳では旗本稲生・松平領の二給。改革組合村では幕府領・旗本松平領の二給、家数三五。享和二年(一八〇二)越後頸城くびき郡浄土真宗養性ようしよう(現真宗大谷派、新潟県上越市)の旦那七軒(人数四一、馬六)が当地へ移住・入植している(「越後引越宗門人別帳」養性寺文書)。慶応四年(一八六八)戊辰戦争の際には東山道新政府軍の都賀つが壬生みぶ・下総結城城滞在に伴い、日光街道雀宮すずめのみや宿(現宇都宮市)への代助郷を命ぜられている(「当分助郷達」大久保和文書)

三谷村
みたにむら

[現在地名]穴吹町三島みしま

吉野川の分流である小俣こまた(現明連川)を挟んで舞中島まいなかしま村の南にあり、南は口山くちやま村、西は小島おしま村。ただし明連みようれん川は昭和五二年(一九七七)に竣工した堤防によって閉切られ、現在は堀となっている。慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)知行分のうちに三谷高一七二石余がみえる。正保国絵図では三谷村とあり、高一七三石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では旱損、芝山の注記があり、田高五七石余・畠高一一六石余。

三谷村
みたにむら

[現在地名]桜井市大字三谷

小夫おうぶ村東方の渓谷村落。「磯城郡誌」には「三つの谷に跨かれるを以て地勢に依りて名けたりと云ふ、俗言に近きが如し」とある。中世、三谷市太郎の拠塁跡がある(国民郷士記)

文禄四年(一五九五)の大和国城上郡三谷村御検地帳写では一五八・五五石(荒高三・三一石)、反別一一町九反三畝二〇歩。慶長五年(一六〇〇)織田有楽(長益)領となり、元和七年(一六二一)幕府領(代官中坊時祐)に編入され、その間村高は増高の実施で二〇九・四八八石となる。

三谷村
みたにむら

[現在地名]浜坂町三谷

浜坂村の南東にある。集落は味原あじわら川支流三谷川の流域、三方を山に囲まれた谷間に形成されるが、耕地は北東の大庭おおば平野に広がっている。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「ミたに」とみえ、当地には「はしわかさ殿」・小谷けん兵衛殿・ミたに殿・谷村殿などが住んでいた。清富相応峰きよどめそうおうみね寺の過去帳の永禄三年(一五六〇)分には「三谷ノ谷田五郎衛門 道全」の名が載る。

三谷村
みたにむら

[現在地名]山崎町三谷

揖保いぼ川の支流三谷川の上流域に位置し、西は神谷こうだに村・なか村。中世は石作いしつくり庄のうちにあった。年月日未詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久我家文書)に「三谷」の名主の名がみえる。文明一一年(一四七九)一二月二〇日、当地居住とみられる三谷荒鞍左衛門は石造いしつくり久利ひさとし名内の好田一段と橘下の深田一段の計二段を購入している(「某売券案」同文書)。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、慶長一八年(一六一三)備前岡山藩領(「寛政重修諸家譜」など)、元和元年(一六一五)山崎藩領(「寛文朱印留」など)、延宝七年(一六七九)幕府領となり幕末に至る(「本多家譜」東京大学史料編纂所蔵、旧高旧領取調帳など)

三谷村
みたにむら

[現在地名]日野町三谷

北東流する日野川右岸、宝仏ほうぶつ(一〇〇二メートル)北西の急斜面に位置し、北は貝原かいはら村。日野川沿いを日野往来が通り、同川から山側に入る村の入口左側に三谷権太夫の墓と伝える高さ二メートルの自然石と九基の五輪塔・宝篋印塔がある。三谷権太夫については参勤交代の途中に当地で没した出雲松江藩士、あるいは当地の砦の主などの伝承があり、村名の由来とされる。

三谷村
みだにむら

[現在地名]加美町三谷

かど村の北、杉原すぎはら川中流域東岸で、せんヶ峰の東方山麓に位置する。三谷川が東流する。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方一四九石余・畑方三九石余、幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(三谷区有文書)によれば高一九九石余・反別一九町一反余、小物成は山手銀一五匁余・藪年貢銀四匁・炭竈役銀三二匁・鉄砲役銀九匁、大歳おおとし大明神(現大年神社)・八幡宮・稲荷宮、阿弥陀堂があった。貢租は天保元年(一八三〇)には一〇八石余であったが、凶作が続き同九年には七六石余に減じている(「年貢免定」脇坂家文書)。嘉永三年(一八五〇)三谷・清水きよみずとどろき多棚釜たたなかま四ヵ村は定免であったが、凶作のため検見を願出ている(「願書」同文書)

三谷村
みたにむら

[現在地名]鳥取市桂見かつらみ

倉見くらみ村の南東にあり、集落は東三谷・中三谷・西三谷に分れる(因幡志)。拝領高は二三五石余。東三谷村は正保(一六四四―四八)以前からの内村であるが、正保国絵図作成の際に書落され、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際に改めて記載されたという(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。ただし元禄国絵図・元禄郷帳とも同村の記載はない。

三谷村
みたにむら

[現在地名]かつらぎ町三谷

兄井あにい村の東にあり、寛治三年(一〇八九)五月六日の散位坂上経澄解案(国立史料館蔵伊都郡古文書)に三谷の名がみえる。「御室御所高野山御参籠日記」の久安四年(一一四八)四月六日条には、粉河こかわ(現那賀郡粉河町)を立ち「到三谷之前下船、経三谷坂到天野」とあり、三谷坂は天野あまのへの登り道であった。高野山領六箇七ろつかしち郷内三谷郷の主邑で、天正一九年(一五九一)一〇月日付の高野山寺領注文(勧学院文書)には、高野山領として当村など五ヵ村の高六八六石余が記される。

江戸時代は高野山行人領に属し、「続風土記」は村高二〇二石余、家数一四一、人数四九八、社寺として、丹生酒殿にうさかどの明神社、その別当寺福林ふくりん寺、竈門かまど明神社、小祠二社、龍谷りゆうこく(高野山真言宗)梅林ばいりん院、西明さいみよう寺跡、観音堂を記す。

三谷村
みたにむら

[現在地名]高知市三谷・七ッ淵ななつぶち重倉しげくら

秦泉寺じんぜんじ村の北方山間部に広がる大村。土佐郡もり(現土佐郡土佐町)と高知城下を結ぶ高知・森街道が通る。土佐山とさやま(大部分は現土佐郡土佐山村)に含まれ、地名は東・中・西の三つの谷があることにちなむという。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「東西一里強南北十五町」「其土赤」と記す。天正一七年(一五八九)の土左山九名地検帳に「三谷村分」とみえ、検地面積一八町五反余、うち本田分一〇町四反余・出田七町九反余。

三谷村
みやむら

[現在地名]岩舟町三谷

下岡しもおか村の東、岩舟山の北西に位置し、東は馬不入うまいらず山を境に立花たちばな村・白岩しらいわ(現大平町)。山麓には沢水を集めて水田に利用する溜池が点在する。宝徳二年(一四五〇)五月三日の小野寺朝通言上状(小野寺文書)に佐野庄内の郷として三谷郷がみえる。慶安郷帳では田三七二石余・畑二一七石余・山六石。元和三年(一六一七)の門屋百姓一二(「日光御用割付」野城勝文書)。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば高八四八石余、うち新田二二九石余、反別田四一町一反余・畑五八町五反余、取米一八〇石余・永四九貫余、小物成一〇貫余、夫永四貫余、大豆三石余、家数一三七、男一八七・女二四九、馬二六。

三谷村
さんだにむら

[現在地名]小松市三谷町

西は木場きば潟に臨み、南北は山地となる。北は蓮代寺れんだいじ村、南は木場村。「さんだん」ともよぶ。天正三年(一五七五)八月織田信長勢が加賀へ侵入し、能美・江沼えぬま両郡一揆の諸城を陥落させているが、そのなかに「三谷ノ城」がみえる(菅家見聞集)。前田利常が小松城に在城の頃は、有力家臣の小幡下野(七千石)・小幡右京(三千石)・堀三郎兵衛(五〇〇石)が居を構えていた(小松市史)。正保郷帳では高五六七石余、田方一九町八反余・畑方一三町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六九〇石、免五ツ八分、小物成は山役二九七匁、板船櫂役二〇匁(出来)、鳥役一五五匁(出来)、畳表役三分(出来)であった(三箇国高物成帳)

三谷村
みやむら

[現在地名]蒲郡市三谷町

不相小江ふそうこえ村の東。牧山まきやま村の南。東は星越ほしごえ峠を限り大塚おおつか村。南部は海岸に面する湊町で、江戸や瀬戸内海方面への航路が開けていた。「和名抄」所載宝飯ほい美養みや郷の故地かとされる。宗牧の「東国紀行」天文一三年(一五四四)の条に「十二月十日西郡を立侍るに、百人計うち送り、みや・こし越といふ面白き海づらより別れたり さする人なくて別れし旅寝にも名残はさぞなおいのこし越 ほしごえをこしごえと聞違へて、若衆たちへのざれ事なり」とあり、「みや」の地名がみえる。また「こし越」とは、大塚村西部の星越のことである。

三谷村
みたにむら

[現在地名]美都町三谷

益田川支流の三谷川中流に位置し、集落中央で八坂やさか川、西方で久木ひさぎ川が合流する。三谷川に沿って東西に往還道が通り、東上流は久原くばら村。稲作を主体とし良米の産地とされ、益田川と三谷川に挟まれた丘陵地の中倉なかぐら集落は畑作地帯。近世の領主の変遷は都茂つも村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高三七九石余、年貢高は田方二二八石余・畑方五八石余。

三谷村
みたにむら

[現在地名]八鹿町三谷

宿南しゆくなみ村の南、円山まるやま川支流三谷川の最上流域山間にある。集落は口三谷くちみたにとその上流の奥三谷おくみたにの二つに分れている。古くは宿南村のうちであったが、正保四年(一六四七)の検地までに村切され、一村になったという。近世の領主の変遷は上網場かみなんば村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では宿南村高一千一八石余に含まれて高付されていたと思われる。

三谷村
みたにむら

[現在地名]今津町日置前ひおきまえ

うめはら村・岸脇きしわき村の北にあり、東はさき村。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に三谷とあり、高五六九石。寛永石高帳に高六九三石余とあり、若狭小浜藩領。慶安高辻帳では高六九〇石余、うち田方五一一石余・畑方一七八石余。

三谷村
みたにむら

[現在地名]矢掛町内田うちだ

内田村の北にあり、北は下高末しもこうずえ村。江戸時代に大高檀紙を製造した松山まつやま(現高梁市)の旧家柳井家の由緒書(柳井文書)によれば、江戸初期には旗本粕谷領、その後幕府領となり、寛永三年(一六二六)から同一一年までは柳井家領。寛永備中国絵図では幕府領で高一〇〇石。正保郷帳では枝村に西三谷にしみたに村・多加谷たがや村が載る。

三谷村
みたにむら

[現在地名]河原町三谷

郷原ごうばら村南東の谷奥に位置する。山越えによって北は破岩われいわ(現船岡町)、南は釜口かまのくち村へ通じる。慶長九年(一六〇四)六月一四日の池田長政領知目録写(岡山大学付属図書館蔵)によれば、鳥取城主池田長吉は三男の長政に「三谷村」三三三石余などを与えている。拝領高二〇九石余、本免五ツ四分。和田氏の給地であった(給人所付帳)。家数は宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内懐中鑑(西郷小学校蔵)で二八軒、「因幡志」では三三軒。

三谷村
みたにむら

[現在地名]加茂川町三谷

大木おおき村の東方、小森こもり村から南西の谷筋にある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高四〇三石余。寛永七年(一六三〇)の検地高一七九石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によれば田畠二一町六反余、家数五〇・人数二四〇。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高三六二石余、家臣四名の給地。高四〇三石余、残高二一五石余、田方一一町六反余・一五四石余、畑方一〇町一反余・六〇石余、家数五一、うち社方一、人数一六九、うち社方一、牛一三、池一五、堰二、百姓自林一〇町八反、育麦蔵一、猟師鉄砲七。

三谷村
みたにむら

[現在地名]香住町三谷

加鹿野かしかの村の南、蛇行する矢田やだ川の左岸に位置する。同川の対岸南東は大谷おおだに村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」では「ミたに村」とみえ、当地には三郎兵衛殿などが住していた。近世の領主の変遷は間室まむろ村に同じ。

三谷村
みたにむら

[現在地名]勝山市昭和しようわ町二丁目

大師だいし山の西麓の谷地に位置し、西は勝山城下。村名は正保郷帳にみえ、田方一四九石余・畠方八石余。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報