パルティア美術(読み)パルティアびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「パルティア美術」の意味・わかりやすい解説

パルティア美術 (パルティアびじゅつ)

パルティア美術とは,アルサケス朝(前247-後226ころ)下の西アジアに栄えた美術をいうが,必ずしもパルティア人の手になるものではない。前期と後期に大別される。前者(前3世紀~前1世紀)はギリシア美術からの影響がきわめて強い。後者(1世紀~3世紀)ではギリシア特色が後退し,それに代わってアケメネス朝,パルティアなどのイラン系民族や土着民族(例,エリュマイスElymais王国,隊商都市ハトラ)の趣向ないし美意識が顕著となっている。狭義のパルティア美術はこの後期のものを指すが,その本質は〈グレコ・イラン的〉,〈グレコ・オリエンタル〉などと規定されている。パルティア美術は従来,ギリシア美術の堕落した形式とみなされていたが,シリアドゥラ・ユーロポスパルミュラの発掘研究が進展した1930年以降は,別の価値観,イデオロギーに基づく独自の意義を持った美術として再評価されるに至った。

 イラン系(後期)の美術は,ほぼ次のような特色を有する。(1)厳格な正面観描写,(2)線の美しさを強調した線条主義,(3)事物の真実の姿を再現する〈真実主義〉,(4)人体を聖像(イコン)のように表現する硬直性。正面観描写は単独像はもちろん,浮彫においても顕著であるが,例外を許さぬほど強い規範となった。浮彫や壁画には単独であれ,複数であれ,神や王侯が表現される場合,登場人物は全身,あるいは少なくとも頭部は必ず正面を向いている。このような正面観描写が流行した理由については,ギリシア彫刻・絵画の部分的正面観の影響,古代オリエントの神像の正面観,死者の英雄・神格化の意図的表現など諸説あり,解明されていない。線条主義は,ギリシア,ローマイリュージョニズムを排し,輪郭線を主体に対象を明快に再現することであるが,とくに衣襞などを紐のように表現する点に典型的に認められる。〈真実主義〉は人物や神の像の細部を克明微細に再現することをいい,目にみえた状態ではなく,かくあるべき姿が観念的に再現されている。それは眼球頭髪ひげ衣服の装飾文などが詳細かつ執拗に描写されている点によく表れている。硬直的な人体表現は,ビザンティン美術先駆とも考えられており,聖人像のように,威厳にみちた不動の姿を好んで用いる点にみられる。

 以上の四つの特色を備えた彫刻・絵画がメソポタミアからアフガニスタン(仏教美術)に至る広大な範囲に認められるが,その中心的テーマは死者の肖像であった(パルティア貨幣の裏のアルサケス王の肖像)。しかし,パルミュラでは画一的な肖像,ハトラでは個性豊かな肖像と差異があり,パルティア美術の地域差,多様性を示している。このほか,金,銀の工芸品では,スキタイ系の動物意匠が愛好され,また,ローマの緑釉にならった厚手の緑釉陶器がメソポタミアを中心に制作された。また建築では,イーワーン形式が起こるなど,イラン美術史上多くの貢献をなしている。
イラン美術
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世界大百科事典(旧版)内のパルティア美術の言及

【アルサケス朝】より

…パルティアの王朝。スキタイ系遊牧民パルノイの族長アルシャクArshakを祖とする。…

【安息】より

…パルティア王国に対する古代中国人の呼称で,この王朝が始祖アルサクArsakにちなんでアルサケス朝と呼ばれていたことに由来する。前2世紀末の張騫(ちようけん)によって中国に紹介されて以来,南北朝期までの漢籍にみられる。…

【イラク】より


【歴史】
 イラク地方はかつて〈二つの河の間の土地〉,すなわちメソポタミアと呼ばれ,シュメール,アッカド,バビロニア,アッシリア,新バビロニアなどのメソポタミア古代文明国家が栄えたことは,周知のとおりである。新バビロニアはアケメネス朝ペルシアに滅ぼされたが,その後アレクサンドロス大王の西アジア征服を経てパルティア王国,ササン朝とペルシア系王朝支配が続き,後者はバグダード南方のクテシフォンを首都にした。 イラク地方は637年,第2代正統カリフのウマルの治下にイスラム世界に組み込まれた。…

【シリア】より

…このころまでに東方進出政策を推進していたローマ人は,これに介入して将軍ポンペイウスを派遣し,シリアをローマの属州とし(前64),小王国や都市には自治を許した。 ローマ帝国にとって,シリアはパルティアに対する軍事作戦基地や防衛拠点としてきわめて重要な意味をもっていたので,1世紀中葉までにここに4軍団を配備し,治安の確保に努め,寝返りの恐れのある小王国は次々に併合した。また現在も一部が残る軍用路が建設された。…

【メソポタミア】より

…バビロンのエギビ一族,ニップールのムラシュ一族の文書は,商取引によって富を蓄えた階層の実態をよく示している。ペルシア帝国
[セレウコス朝時代,パルティア,ササン朝ペルシア時代]
 前331年ダレイオス3世がアレクサンドロス大王に敗北するに及び,ペルシア帝国は崩壊した。アレクサンドロスの死後,部下セレウコスがシリア,メソポタミアを支配した(セレウコス朝シリア)。…

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