日本大百科全書(ニッポニカ) 「肖像」の意味・わかりやすい解説
肖像
しょうぞう
portrait 英語
portrait フランス語
Bildnis ドイツ語
肖像画、肖像彫刻、肖像写真など、ある特定の個人をモデルとする作品。全身像から頭部像まで、各種の表現法がある。また17世紀のオランダにおける「組合せ肖像画」のように集団で描かれたもの、あるいは姉妹や夫妻など2、3名で描かれる場合もある。
[中山公男]
西洋
歴史的には、シュメールの「グデア」の彫像群や、エジプト古王国時代の王や首長たちの像から、すでに特定の個人の表現は始まっている。しかし、この場合、王や首長たちの備える神格なり権威の表現と「個」の表現とがともに制作者や注文主の関心事であり、また同時に宗教的な意味をもつ像であるため、近代の肖像とかなり異なるといわなければならない。ギリシア彫刻においても、少なくとも古典前期までは、オリンピックの勝利者の像においてすら、おそらく「個」より「普遍性」が重視されたと考えられる。しかし古典後期からヘレニスティック期には、しだいに個人崇拝が一般化し、たとえば醜い顔のソクラテスなどの彫像も多く制作される。ローマ時代になると、こうした世俗的な個人への関心は、皇帝崇拝の一般化とともに高まり、数多くの肖像彫刻がほとんど頭部だけの胸像や、あるいは皇帝の場合にはしばしば全身像で制作され、ローマ彫刻における重要な部分を占めるようになる。壁画にも、詩人やあるいはパン屋の夫妻などの肖像画が登場する。またやはりローマ時代のエジプトでは、ギリシア・ローマ風の技法とエジプトの埋葬の儀礼との混合から、いわゆるミイラ肖像画が生まれた。
中世もギリシア時代と同様、神の前で「個」がきわめて小さく、しかも写実的技法を放棄したが、後期における市民社会の発達による「個」の自覚の再生、さらに写実的な点の発達に伴って、肖像が再生する。それらは、教会を奉献した寄進者の像を壁画の一部に描き加えることから始まった。最古の遺例の一つに、パドバのスクロベーニ礼拝堂のジョットの壁画(1305ころ)があり、ここでは寄進者エンリコ・スクロベーニが教会を捧(ささ)げている。ついで寄進者像を守護聖者などとともに祭壇画の一部分に描き加えることがなされる。独立した肖像画への発展の可能性がこうしてできあがる一方、やはり14世紀初めころから、世俗的な支配者を画中にすることも行われた。シエナのパラッツォ・プブリコの壁画中のシモーネ・マルティーニの筆になるグイドリッチョ・ダ・フォリアーノの全身騎馬像がそれであり、ルネサンス期に多くの名作を生んだ彫刻による武人たちの騎馬像への道がここに開かれている。こうして、14世紀後半から15世紀にかけて、独立した肖像画、肖像彫刻が各地で数多く制作された。ルーブル美術館の「ジャン善良王」(1360ころ)の横顔肖像などが、独立した肖像の最初の例の一つである。そしてまた、墓碑彫刻に肖像彫刻が付加することがなされる。ベリー公やオルレアン公が所蔵していたと伝えられる肖像画の収集は、ゴシック後期に「個」がすでにきわめて大きな比重をもち始めたことを示している。
15世紀、1420~60年ころ、フランドルにおいてもイタリアにおいても、肖像は全盛期に入る。イタリアでは主としてプロフィールが鋭い輪郭線で描かれ、ルネサンス期における個人の自覚、「個」の確立を端的に示している。フランドルでは、四分三斜め向きの肖像が描かれ、より写実的に世俗人の風貌(ふうぼう)を、その心理性をも含めて描く努力がなされた。このタイプはやがてイタリアにも導入された。世俗性を描くという観点では、フランドルにおいて、ヤン・ファン・アイクの『アルノルフィニ夫妻』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、マサイスの『両替商の妻』(ルーブル美術館)のような室内での肖像も描かれている。
15世紀における肖像画の発達は、宮廷的、英雄的、世俗的、あるいは美的な、さまざまな観点でみられ、レオナルド・ダ・ビンチの『モナ・リザ』やラファエッロの『バルタザール・カスティリオーネ』(ともにルーブル美術館)など、古典的な肖像の完成へと至っている。
その後、肖像画は、神話画、聖書画と並んで絵画、彫刻のもっとも主要なジャンルとして今日に至っている。したがって、肖像は、その時代、社会における人間の在り方、人間観の歴史を構成する。たとえば、17世紀フランスにおける王や枢機卿(すうききょう)たちの威厳に満ちた肖像画と、18世紀のコワズボクスによる晩年の『ボルテール』像とを比較したとき、二つの時代における人間観の差、あるいは美学の差をはっきりとみいだすことができる。
[中山公男]
東洋
東洋では西アジア、インドにおいて彫刻の遺品が比較的多くみられる。ペルセポリスのダリウス大王をはじめとするアケメネス朝の王の浮彫り像、また中央アジアではクシャン王朝のカニシカ王像と称する等身大の石像がアフガニスタンのカブール国立博物館およびインドのマトゥラ博物館に伝存する。いずれも惜しいことに頭部を欠失しているが、特定の人物、しかも帝王像の遺品として注目される。これは古代ペルシアにおける帝王像の表現の影響によるものと思われる。なお、カブール国立博物館のカニシカ王像は、2001年タリバン政権により破壊され原形をとどめていない。
これに反し、中国を中心にする東アジアでは、肖像は絵画の作品が主流を占める。中国の画史によると、かなり古いころから賢聖を図示し身辺に掲げることが為政者によって行われた。その肖像の伝統が唐代に入り、人間主義、写実主義の傾向が盛んになると、肖像画の名手が現れ、後世その範とされるようになった。現在アメリカ、ボストン美術館に所蔵される閻立本(えんりっぽん)筆と伝える『帝王図巻』はその代表的な遺品である。
[永井信一]
日本
日本では、古代における肖像の制作は、この唐の風潮を受けて行われた。もと法隆寺に伝来、のちに御物(ぎょぶつ)となった『聖徳太子画像』は古来「唐本御影」といわれるように、唐代肖像画の伝統を引き継ぐ優品である。ついで、仏教の隆盛、唐文化の積極的移入は高僧画像を多くわが国にもたらした。京都・東寺の『真言五祖像』は空海が彼の地で李真(りしん)ら10余人の名手に描かせ請来したものといわれる。彫像にも優れた作があり、奈良・唐招提寺(とうしょうだいじ)の鑑真(がんじん)像、法隆寺の行信像はいずれも唐代肖像の新技法をもってつくられた名品といえる。
平安時代の肖像は仏教の高僧像が主流をなしたが、大和絵(やまとえ)がおこると、この分野に似絵(にせえ)という顔貌(がんぼう)をとくに写実的に描く画様が現れ、鎌倉時代の『源頼朝(よりとも)像』をはじめ、天皇、貴紳、武家など個性的な描出が行われるようになった。さらに、禅宗の渡来とともに、頂相(ちんぞう)と称する禅林高僧を図示した特定の形式の肖像画が盛行し、彫像にも祖師として礼拝の対象にするものが制作された。
こうした日本の肖像の伝統を踏まえ、近代的な肖像への橋渡しとして大きな役割を果たしたのが江戸時代の渡辺崋山(かざん)の筆になる『鷹見泉石(たかみせんせき)像』『市河米庵(べいあん)像』をはじめとする一連の画像である。
[永井信一]
『宮次男著『日本の美術33 肖像画』(1975・小学館)』