日本大百科全書(ニッポニカ) 「シリア」の意味・わかりやすい解説
シリア
しりあ
Syrian Arab Republic 英語
Al-Jumhurīya al-‘Arabīya as-Sūrīya アラビア語
西アジアの共和国。正称はシリア・アラブ共和国Al-Jumhurīya al-‘Arabīya as-Sūrīya。北はトルコ、東から南にかけてイラク、ヨルダン、イスラエル、西は地中海とレバノンに接する。面積は18万5180平方キロメートルで、日本の約半分の国土をもち、人口は1871万7000(2006推計)。首都はダマスカス。シリアという地名は古来、東部地中海沿岸の北部をさす名称で、その範囲は時代により異なるが、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルおよびトルコの一部にまたがっていた。これらの諸国は地理的にも歴史的にも密接に結び付いており、このためシリアにはこの地域における連邦国家創設を願う「大シリア構想」がある。
[原 隆一・吉田雄介]
自然
国土の大部分は、緩く東へ傾斜しながらアラビア半島に続く標高200~1000メートルの高原状の台地で占められる。東部地方のほとんどが砂漠とステップからなる乾燥高原である。北東部を、トルコに源を発する西アジア最大の河川ユーフラテス川が横断し、イラクのメソポタミア平原へ流れる。南部一帯は広大なシリア砂漠で占められている。ダマスカスからパルミラに向かって3本の低い山脈が走り、さらにユーフラテス川方面へ続いている。南端部のドルーズ山は標高1801メートルに達する。地中海に臨む西部およびレバノン国境の山岳地帯の南西部は、地形的にも気候的にも東部のシリア台地と著しい対比をみせている。標高1000メートル級のアンサリヤ山脈が地中海岸に平行して走り、沿岸部に細長い海岸平野を、内陸部には肥沃(ひよく)な渓谷地帯(オロンテス川によって灌漑(かんがい)されるシリア最大の穀倉地帯)を形成している。南西部にはレバノンとの国境をなす標高2000~2500メートル級のアンティ・レバノン山脈があり、その東麓(とうろく)のバラダー川沿いに位置する首都ダマスカスは典型的なオアシス都市である。アンティ・レバノン山脈南部に位置する独立峰ヘルモン山はシリアの最高峰(2814メートル)で、その南がイスラエル国境のゴラン高原である。
気候は、西部の地中海性気候に対して、東部は内陸性砂漠気候である。海岸平野部と西部山地は夏暑く冬は温暖で湿潤な気候であり、年降水量も760~1270ミリメートルと豊富で、山脈には森林が繁茂する。内陸部に入ると乾燥した大陸性気候になり、夏は極度に暑く冬は寒い。11~3月が雨期で、雨が降り降雪をみるほか、1日の気温差も著しい。年降水量はアレッポからダマスカスに至る地帯で600ミリメートル、内陸部で300ミリメートル、南東部の砂漠地帯では150ミリメートル以下である。ダマスカスの年平均気温は16.4℃、年降水量は158.5ミリメートルとなっている。
[原 隆一・吉田雄介]
歴史
シリアは北のトルコ高原と南のアラビア半島の接触地帯であり、また地中海に面しているため東西交通の要衝という、文字どおり西アジアの十字路にあたる。このため諸民族がこの地に到来し多彩な歴史をつくってきた。
シリアの歴史は、紀元前3000年ごろセム系のアモリ人、カナーン人(フェニキア人)がこの地に移住してきたころに始まる。彼らは世界最古の都市を築き、アルファベットを発明し、地中海を舞台に国際貿易に活躍するなどしたが、前16世紀にエジプトに、続いてヒッタイトに征服された。前11世紀から前10世紀にかけて東方からセム系のアラム人とヘブライ人が入り王国をつくったが、前8世紀中ごろアッシリアの侵略で滅亡し、その後、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア帝国、アレクサンドロス大王と支配者がめまぐるしく交代した。
大王の死後、前300年に、部将セレウコスがシリア北部、オロンテス川下流域にアンティオキア市を建て、ここを都とする(セレウコス朝)シリア王国をつくった。全盛時はインド以西の西アジア全域に君臨し、アジアへのヘレニズム文化の普及に貢献したが、前63年からローマ帝国、紀元後4世紀ごろからビザンティン帝国の属領となった。
7世紀ごろ、イスラム教を奉ずるアラブ人がたちまちのうちに西アジア一帯を制圧しイスラム帝国を樹立した。ダマスカスはウマイヤ朝時代に首都に選ばれ、後のアッバース朝時代に首都がバグダードに移っても商業文化都市として繁栄した。13世紀ごろより西から十字軍、東からモンゴル軍の侵略を受けた。16世紀からはオスマン帝国の属領になり、約400年にわたってその支配に服した。
19世紀末アラブ独立運動の気運が高まり、第一次世界大戦では連合軍と協力してトルコ勢力を一掃したが、戦後フランス軍が進駐して委任統治領となった。激しい抵抗運動にもかかわらずフランスの統治は第二次世界大戦後まで続き、1946年4月に念願の独立を達成して共和国となった。
[原 隆一・吉田雄介]
政治
独立はしたものの政情は不安定で、要人の暗殺、クーデターが頻発した。1955年のバグダード条約による共産主義封じ込めや、1956年のスエズ戦争などの国際情勢が、シリアを親エジプト反西側路線へ向かわせる契機となった。このときアラブ復興社会党(バース党)が積極的な推進役となって、1958年にエジプトと合併、アラブ連合共和国をつくった。ところが合併後の運営は円滑に進まず、1961年のクーデターでアラブ連合から脱退、ふたたび単独の共和国となった。
1963年バース党は政権につくが再「連合」は果たされず、その後もクーデター、バース党内の分裂抗争が相次ぎ、1967年の第三次中東戦争では南部ゴラン高原をイスラエルに奪われるなど大きな痛手を受けた。1970年のクーデターでハフェズ・アサド政権が誕生し(大統領就任は1971年)、長年の内紛に終止符を打った。さらに1973年には恒久憲法が制定され、ソ連(当時)の援助によるユーフラテス・ダムの第一期工事の完成などの経済政策も順調で、内政的に安定し、対外的にも地位を高めた。しかし、近隣諸国関係はきわめて流動的で、1973年にはイスラエルと第四次中東戦争に突入し、1975年にはレバノン内戦にも介入している。
これらの戦争の和平交渉や収拾工作をめぐって諸国間に新たな対立や和合が生じた。1978年のイスラエルとエジプトのキャンプ・デービッド合意後は、エジプトのアラブ戦線からの離脱に対抗し、アラブ陣営の強硬派として反エジプトの陣頭にたち、対ソ傾斜を強めた。シリア現代史上最長を誇ったアサド政権(1971~2000)は、イスラム教の少数派アラウィー派で占められ、1979年からこれに対抗する多数派スンニー派の反抗がムスリム同胞団のテロ活動という形で激化した。政府はこれに対して徹底した弾圧、大掛りな壊滅作戦で臨んだ。以後も散発的に爆弾事件や暴動が起きているものの、国内はおおむね安定していたといえる。2000年6月のハフェズ・アサド死去後は次男のバッシャール・アル・アサドが国民投票により大統領に就任した。
外交面においては、中東和平問題の当事国として、イスラエルとの和平交渉の行方が注目され、アメリカが仲介に入っていたが、和平交渉は中断、2003年以降はアメリカとの関係も悪化した。2005年にレバノンに駐留していたシリア軍が撤退。2008年にレバノンとの国交を正常化した。シリアの動向は、イスラエル・パレスチナ関係ならびにレバノン・イスラエル和平交渉を占ううえで重要である。
政体は憲法で社会主義人民民主主義国家と規定、社会主義経済による国家建設を目ざしている。信教の自由を認めているが、憲法で大統領はイスラム教徒と規定している。なお、大統領は議会の推薦を受け、国民投票で信任を得て就任する。任期は7年。議会は一院制の人民議会(250議席)で、議員は直接選挙で選出される。任期は4年。政党は、1972年以来バース党を中心とした7党が結集した国民進歩戦線があるが、事実上はバース党の一党支配下にある。
2007年の国防予算は14億6000万ドル。30か月の義務兵役があり、総兵力数推定29万2600の軍隊をもつ。そのうち陸軍が21万5000、海軍7600、空軍3万、防空軍推定4万で、ほかに予備役が31万4000である。装備の多くが旧ソ連またはロシア製である。
[原 隆一・吉田雄介]
経済・産業
1963年以来、社会主義体制を採用し、農地改革や企業国有化などの制度の改変が続いて経済成長は著しく鈍化した。しかし1970年のアサド政権成立後は穏健な現実路線に修正し、外国資本の流入、諸外国からの経済援助増大に努めている。近年石油を中心とする鉱工業に比重を移しているが、農業は依然としてこの国の基幹産業であり重要な位置を占めている。降水量も多く国土の75.6%の農地をもつが、実際の耕地・樹園地はその41%の574万ヘクタールにすぎず、灌漑(かんがい)地も少ない。したがってシリアの農業は天候、とくに降水量に大きく左右される弱点をもつ。ユーフラテス・ダムの完成(1975)によって得られる64万ヘクタールの灌漑地と80万キロワットの電力に大きな期待が寄せられたが、中東紛争や無計画な開発により十分な成果があがっていない。主要農産物は小麦、大麦、綿花、豆類、サトウダイコンなどである。また地中海沿岸地方を中心としてオリーブ、ブドウ、トマト、スイカ、メロンなどの果実、野菜類の栽培が盛んである。牧畜もヒツジ、ヤギを中心に内陸高原一帯で飼育され、羊毛、羊皮、チーズ、鶏肉などの畜産物が農業生産の35%を占めている。2007年の国内産業に占める農業の割合(GDP比)は約20%となっている。
シリアの石油は1959年に北東端のティグリス川沿いで発見され、1968年から本格的に生産され始めた。以来産油量は年々増加し、1999年の原油生産量は日量56万5000バレル、2006年は46万9000バレルで、確認埋蔵量は30億バレルである。石油精製部門では、ホムス精油所とバニヤース精油所の2か所があるが、現在の石油製品の消費水準は国内の精製能力を上回っている。産油量は多くないものの、他の中東産油国がペルシア湾岸に集中しているなかで、地中海に面している唯一の国として重要性をもつ。石油輸出国機構(OPEC(オペック))には加盟していないが、1972年以来アラブ石油輸出国機構(OAPEC(オアペック))には加盟している。石油以外には燐(りん)鉱石が採掘され輸出されている。工業への投資も積極的で、食品、織物、セメントなどの工業生産が近年急増している。
シリアの経済計画は1961年から始まった。しかしながら、各計画とも計画達成は果たせず、第七次五か年計画(1991~1995)も、世界情勢の変化から実行段階で単年度計画に切り替えられた。ただし、計画変更後も農業生産の拡大に重点が置かれた。計画経済を維持しつつも、外資の導入、国営企業の民営化を進め、市場経済への移行を図っている。
貿易の基本構造は、石油、石油製品のほか、綿花、繊維製品、農産物などを輸出し、工業製品、消費財を輸入する形態となっている。2008年の輸出額は169億5600万ドル、輸入額は285億2800万ドルで貿易収支は赤字である。おもな輸出相手国はイタリア、フランス、サウジアラビア、イラク、トルコ、輸入相手国はロシア、中国、イタリア、ウクライナ、サウジアラビア、マルタである。2006年現在で原油の可採年数が17.5年であることが不安材料である。また外国からの経済援助の削減や過大な国防費も財政を圧迫している。
鉄道はオスマン帝国領の時代に建設されたもので、ダマスカスを経由してヨルダンに至るものと、ホムス、アレッポを経由してトルコやイラクへ続く国際鉄道とがある。これらはホムス―アレッポ間を除いていずれも国境によって分断され、国内交通には不備であった。自動車交通は盛んで、ダマスカスには国際バスや国際乗合タクシーも発着している。海運は、地中海に臨むラタキア、バニヤース、タルトゥスの3港があるが、ラタキアが最大の貿易港であり、パイプラインの到達するバニヤース港は石油の積出し港である。ダマスカスには国際空港がある。
[原 隆一・吉田雄介]
社会・文化
住民の大部分はアラビア語を話すアラブ人であるが、このほかにも多くの少数民族が居住している。そのなかで大きな割合を占めるのはクルド人(トルコ国境地帯)とアルメニア人(ダマスカスやアレッポなど)で、ほかにユダヤ人、アッシリア人、トルコ人もいる。砂漠やステップで遊牧を営むアラブ人はベドウィンとよばれている。また外国人として、1948年、1967年の中東戦争で追い出されたパレスチナ難民が25万人、1975年に勃発(ぼっぱつ)したレバノン内戦で流入した難民も100万人近くいるといわれている。宗教は住民の85%がイスラム教徒であるが、諸宗派に分かれ、地域や部族に結び付いて分布しており、政治的にも複雑な問題をはらんでいる。スンニー派は都市に、アラウィー派はラタキア地方、イスマーイール派はハマー州、ドルーズ派はスワイダ地方に多い。少数派であるアラウィー派やドルーズ派が政治的に重要な位置を占め、とくにアラウィー派は政界・軍部内に大きな力をもっている。これらイスラム教徒を除く残り15%の大半はキリスト教徒であるが、多くの宗派に分かれている。このほか、わずかながらユダヤ教徒も住んでいる。
教育制度は小学校6年、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、その上に大学(4年)、短期大学(2年)の高等教育機関がある。義務教育は小学校の6年間で無償である。約80%が高等学校へ進学しており、中東の国々のなかでは学校教育の普及が進んでいるほうである。公用語はアラビア語で、クルド語、アルメニア語も使われている、都市部では英語、フランス語も通用。識字率は男性89.7%、女性76.5%である(2007)。大学はダマスカス大学、アレッポ大学、ラタキアのティシュリーン大学、ホムスのアル・バース大学がある。新聞は、全国紙としてバース党機関紙『アル・バース』(アラビア語、発行部数2万5000部)、『ティシュリーン』(アラビア語、3万5000部)、『アッサウラ』(アラビア語、2万5000部)の3紙があり、ほかにアレッポ、ホムスなどで地方紙も発行されている。英文の新聞『シリア・タイムズ』(5000部)もある。放送は国営のラジオ・テレビ局の独占で、アラビア語のほか、フランス語、英語、トルコ語の放送がある。通信もシリア国営通信(SANA)が独占している。
シリアは過去の歴史のなかでさまざまな民族、種々の文化が交錯してきたため、多くの遺跡や建造物が残されている。その代表ともいえるものが、ローマ帝国に滅ぼされた砂漠の商業中継都市パルミラで、見物にまる2日はかかる壮大な規模の遺跡である。内には神殿、凱旋(がいせん)門、大列柱、円形劇場など往時の栄華をしのばせる石造建築物が立ち並んでいる。パルミラと並んで観光客がよく訪れるのがダマスカスのウマイヤ・モスクで、イスラム建築最大の傑作といわれるが、19世紀末の大火で装飾のほとんどを失った。しかし8世紀前半に建てられたこのモスクは、イスラム世界で最初のオリジナル建築としての価値を失ってはいない。アレッポやラタキアをはじめとする地中海岸には、12世紀にビザンティン帝国や十字軍によって建てられた城砦(じょうさい)が多く残されている。地中海沿岸のタルトスの海岸は夏の保養地として名高い。
[原 隆一・吉田雄介]
日本との関係
日本は1953年(昭和28)6月シリアとの間に貿易協定を結び、同年12月公文書を交換、承認した。1954年公使館を、1962年大使館を設置、1973年末ハッダーム外相の訪日直後三木武夫(みきたけお)特使がシリアを訪問したのを皮切りに、人的交流も盛んになり、1981年には日本シリア友好協会も設立された。1991年の政府開発援助(ODA)では、商品借款133億円およびジャンダール火力発電所建設計画に対する円借款516億円を供与している。無償資金協力も1993年に118億1800万円供与。2007年度末までの累計で、有償資金協力1563億円、無償資金協力261億円、技術協力251億円に達している。2008年の対日貿易は輸出が綿花、せっけんなどを中心に15億4000万円、輸入は自動車や機械などで668億8000万円となっており、日本からの大幅輸入超過が続いている。1988年には日本で「古代シリア文明展」が開催され、またシリアの日本大使館により「日本週間」が定められるなど日本文化の紹介が広くなされており、文化交流にも力が入れられている。
[原 隆一・吉田雄介]
『外務省監修『世界各国便覧叢書7 シリア・アラブ共和国 クウェイト国』(1974・日本国際問題研究所)』▽『フィリップ・K・ヒッティ著、小玉新次郎訳『シリア 東西文明の十字路』(1991・中央公論社)』▽『『シリア(開発途上国国別経済協力シリーズ 中近東編no.8)』第4版(1995・国際協力推進協会)』▽『小山茂樹著『シリアとレバノン 中東を揺さぶる二つの国』(1996・東洋経済新報社)』▽『夏目高男著『シリア大統領アサドの中東外交』(2003・明石書店)』▽『末近浩太著『現代シリアの国家変容とイスラーム』(2005・ナカニシヤ出版)』▽『間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』(2006・アジア経済研究所)』