シリア(読み)しりあ(英語表記)Syrian Arab Republic 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シリア」の意味・わかりやすい解説

シリア
しりあ
Syrian Arab Republic 英語
Al-Jumhurīya al-‘Arabīya as-Sūrīya アラビア語

西アジアの共和国。正称はシリア・アラブ共和国Al-Jumhurīya al-‘Arabīya as-Sūrīya。北はトルコ、東から南にかけてイラク、ヨルダンイスラエル、西は地中海レバノンに接する。面積は18万5180平方キロメートルで、日本の約半分の国土をもち、人口は1871万7000(2006推計)。首都はダマスカス。シリアという地名は古来、東部地中海沿岸の北部をさす名称で、その範囲は時代により異なるが、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルおよびトルコの一部にまたがっていた。これらの諸国は地理的にも歴史的にも密接に結び付いており、このためシリアにはこの地域における連邦国家創設を願う「大シリア構想」がある。

[原 隆一・吉田雄介]

自然

国土の大部分は、緩く東へ傾斜しながらアラビア半島に続く標高200~1000メートルの高原状の台地で占められる。東部地方のほとんどが砂漠とステップからなる乾燥高原である。北東部を、トルコに源を発する西アジア最大の河川ユーフラテス川が横断し、イラクのメソポタミア平原へ流れる。南部一帯は広大なシリア砂漠で占められている。ダマスカスからパルミラに向かって3本の低い山脈が走り、さらにユーフラテス川方面へ続いている。南端部のドルーズ山は標高1801メートルに達する。地中海に臨む西部およびレバノン国境の山岳地帯の南西部は、地形的にも気候的にも東部のシリア台地と著しい対比をみせている。標高1000メートル級のアンサリヤ山脈が地中海岸に平行して走り、沿岸部に細長い海岸平野を、内陸部には肥沃(ひよく)な渓谷地帯(オロンテス川によって灌漑(かんがい)されるシリア最大の穀倉地帯)を形成している。南西部にはレバノンとの国境をなす標高2000~2500メートル級のアンティ・レバノン山脈があり、その東麓(とうろく)のバラダー川沿いに位置する首都ダマスカスは典型的なオアシス都市である。アンティ・レバノン山脈南部に位置する独立峰ヘルモン山はシリアの最高峰(2814メートル)で、その南がイスラエル国境のゴラン高原である。

 気候は、西部の地中海性気候に対して、東部は内陸性砂漠気候である。海岸平野部と西部山地は夏暑く冬は温暖で湿潤な気候であり、年降水量も760~1270ミリメートルと豊富で、山脈には森林が繁茂する。内陸部に入ると乾燥した大陸性気候になり、夏は極度に暑く冬は寒い。11~3月が雨期で、雨が降り降雪をみるほか、1日の気温差も著しい。年降水量はアレッポからダマスカスに至る地帯で600ミリメートル、内陸部で300ミリメートル、南東部の砂漠地帯では150ミリメートル以下である。ダマスカスの年平均気温は16.4℃、年降水量は158.5ミリメートルとなっている。

[原 隆一・吉田雄介]

歴史

シリアは北のトルコ高原と南のアラビア半島の接触地帯であり、また地中海に面しているため東西交通の要衝という、文字どおり西アジアの十字路にあたる。このため諸民族がこの地に到来し多彩な歴史をつくってきた。

 シリアの歴史は、紀元前3000年ごろセム系のアモリ人、カナーン人(フェニキア人)がこの地に移住してきたころに始まる。彼らは世界最古の都市を築き、アルファベットを発明し、地中海を舞台に国際貿易に活躍するなどしたが、前16世紀にエジプトに、続いてヒッタイトに征服された。前11世紀から前10世紀にかけて東方からセム系のアラム人とヘブライ人が入り王国をつくったが、前8世紀中ごろアッシリアの侵略で滅亡し、その後、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア帝国、アレクサンドロス大王と支配者がめまぐるしく交代した。

 大王の死後、前300年に、部将セレウコスがシリア北部、オロンテス川下流域にアンティオキア市を建て、ここを都とする(セレウコス朝)シリア王国をつくった。全盛時はインド以西の西アジア全域に君臨し、アジアへのヘレニズム文化の普及に貢献したが、前63年からローマ帝国、紀元後4世紀ごろからビザンティン帝国の属領となった。

 7世紀ごろ、イスラム教を奉ずるアラブ人がたちまちのうちに西アジア一帯を制圧しイスラム帝国を樹立した。ダマスカスはウマイヤ朝時代に首都に選ばれ、後のアッバース朝時代に首都がバグダードに移っても商業文化都市として繁栄した。13世紀ごろより西から十字軍、東からモンゴル軍の侵略を受けた。16世紀からはオスマン帝国の属領になり、約400年にわたってその支配に服した。

 19世紀末アラブ独立運動の気運が高まり、第一次世界大戦では連合軍と協力してトルコ勢力を一掃したが、戦後フランス軍が進駐して委任統治領となった。激しい抵抗運動にもかかわらずフランスの統治は第二次世界大戦後まで続き、1946年4月に念願の独立を達成して共和国となった。

[原 隆一・吉田雄介]

政治

独立はしたものの政情は不安定で、要人の暗殺、クーデターが頻発した。1955年のバグダード条約による共産主義封じ込めや、1956年のスエズ戦争などの国際情勢が、シリアを親エジプト反西側路線へ向かわせる契機となった。このときアラブ復興社会党(バース党)が積極的な推進役となって、1958年にエジプトと合併、アラブ連合共和国をつくった。ところが合併後の運営は円滑に進まず、1961年のクーデターでアラブ連合から脱退、ふたたび単独の共和国となった。

 1963年バース党は政権につくが再「連合」は果たされず、その後もクーデター、バース党内の分裂抗争が相次ぎ、1967年の第三次中東戦争では南部ゴラン高原をイスラエルに奪われるなど大きな痛手を受けた。1970年のクーデターでハフェズ・アサド政権が誕生し(大統領就任は1971年)、長年の内紛に終止符を打った。さらに1973年には恒久憲法が制定され、ソ連(当時)の援助によるユーフラテス・ダムの第一期工事の完成などの経済政策も順調で、内政的に安定し、対外的にも地位を高めた。しかし、近隣諸国関係はきわめて流動的で、1973年にはイスラエルと第四次中東戦争に突入し、1975年にはレバノン内戦にも介入している。

 これらの戦争の和平交渉や収拾工作をめぐって諸国間に新たな対立や和合が生じた。1978年のイスラエルとエジプトのキャンプ・デービッド合意後は、エジプトのアラブ戦線からの離脱に対抗し、アラブ陣営の強硬派として反エジプトの陣頭にたち、対ソ傾斜を強めた。シリア現代史上最長を誇ったアサド政権(1971~2000)は、イスラム教の少数派アラウィー派で占められ、1979年からこれに対抗する多数派スンニー派の反抗がムスリム同胞団のテロ活動という形で激化した。政府はこれに対して徹底した弾圧、大掛りな壊滅作戦で臨んだ。以後も散発的に爆弾事件や暴動が起きているものの、国内はおおむね安定していたといえる。2000年6月のハフェズ・アサド死去後は次男のバッシャール・アル・アサドが国民投票により大統領に就任した。

 外交面においては、中東和平問題の当事国として、イスラエルとの和平交渉の行方が注目され、アメリカが仲介に入っていたが、和平交渉は中断、2003年以降はアメリカとの関係も悪化した。2005年にレバノンに駐留していたシリア軍が撤退。2008年にレバノンとの国交を正常化した。シリアの動向は、イスラエル・パレスチナ関係ならびにレバノン・イスラエル和平交渉を占ううえで重要である。

 政体は憲法で社会主義人民民主主義国家と規定、社会主義経済による国家建設を目ざしている。信教の自由を認めているが、憲法で大統領はイスラム教徒と規定している。なお、大統領は議会の推薦を受け、国民投票で信任を得て就任する。任期は7年。議会は一院制の人民議会(250議席)で、議員は直接選挙で選出される。任期は4年。政党は、1972年以来バース党を中心とした7党が結集した国民進歩戦線があるが、事実上はバース党の一党支配下にある。

 2007年の国防予算は14億6000万ドル。30か月の義務兵役があり、総兵力数推定29万2600の軍隊をもつ。そのうち陸軍が21万5000、海軍7600、空軍3万、防空軍推定4万で、ほかに予備役が31万4000である。装備の多くが旧ソ連またはロシア製である。

[原 隆一・吉田雄介]

経済・産業

1963年以来、社会主義体制を採用し、農地改革や企業国有化などの制度の改変が続いて経済成長は著しく鈍化した。しかし1970年のアサド政権成立後は穏健な現実路線に修正し、外国資本の流入、諸外国からの経済援助増大に努めている。近年石油を中心とする鉱工業に比重を移しているが、農業は依然としてこの国の基幹産業であり重要な位置を占めている。降水量も多く国土の75.6%の農地をもつが、実際の耕地・樹園地はその41%の574万ヘクタールにすぎず、灌漑(かんがい)地も少ない。したがってシリアの農業は天候、とくに降水量に大きく左右される弱点をもつ。ユーフラテス・ダムの完成(1975)によって得られる64万ヘクタールの灌漑地と80万キロワットの電力に大きな期待が寄せられたが、中東紛争や無計画な開発により十分な成果があがっていない。主要農産物は小麦、大麦、綿花、豆類、サトウダイコンなどである。また地中海沿岸地方を中心としてオリーブ、ブドウ、トマト、スイカ、メロンなどの果実、野菜類の栽培が盛んである。牧畜もヒツジ、ヤギを中心に内陸高原一帯で飼育され、羊毛、羊皮、チーズ、鶏肉などの畜産物が農業生産の35%を占めている。2007年の国内産業に占める農業の割合(GDP比)は約20%となっている。

 シリアの石油は1959年に北東端のティグリス川沿いで発見され、1968年から本格的に生産され始めた。以来産油量は年々増加し、1999年の原油生産量は日量56万5000バレル、2006年は46万9000バレルで、確認埋蔵量は30億バレルである。石油精製部門では、ホムス精油所とバニヤース精油所の2か所があるが、現在の石油製品の消費水準は国内の精製能力を上回っている。産油量は多くないものの、他の中東産油国がペルシア湾岸に集中しているなかで、地中海に面している唯一の国として重要性をもつ。石油輸出国機構(OPEC(オペック))には加盟していないが、1972年以来アラブ石油輸出国機構(OAPEC(オアペック))には加盟している。石油以外には燐(りん)鉱石が採掘され輸出されている。工業への投資も積極的で、食品、織物、セメントなどの工業生産が近年急増している。

 シリアの経済計画は1961年から始まった。しかしながら、各計画とも計画達成は果たせず、第七次五か年計画(1991~1995)も、世界情勢の変化から実行段階で単年度計画に切り替えられた。ただし、計画変更後も農業生産の拡大に重点が置かれた。計画経済を維持しつつも、外資の導入、国営企業の民営化を進め、市場経済への移行を図っている。

 貿易の基本構造は、石油、石油製品のほか、綿花、繊維製品、農産物などを輸出し、工業製品、消費財を輸入する形態となっている。2008年の輸出額は169億5600万ドル、輸入額は285億2800万ドルで貿易収支は赤字である。おもな輸出相手国はイタリア、フランス、サウジアラビア、イラク、トルコ、輸入相手国はロシア、中国、イタリア、ウクライナ、サウジアラビア、マルタである。2006年現在で原油の可採年数が17.5年であることが不安材料である。また外国からの経済援助の削減や過大な国防費も財政を圧迫している。

 鉄道はオスマン帝国領の時代に建設されたもので、ダマスカスを経由してヨルダンに至るものと、ホムス、アレッポを経由してトルコやイラクへ続く国際鉄道とがある。これらはホムス―アレッポ間を除いていずれも国境によって分断され、国内交通には不備であった。自動車交通は盛んで、ダマスカスには国際バスや国際乗合タクシーも発着している。海運は、地中海に臨むラタキア、バニヤース、タルトゥスの3港があるが、ラタキアが最大の貿易港であり、パイプラインの到達するバニヤース港は石油の積出し港である。ダマスカスには国際空港がある。

[原 隆一・吉田雄介]

社会・文化

住民の大部分はアラビア語を話すアラブ人であるが、このほかにも多くの少数民族が居住している。そのなかで大きな割合を占めるのはクルド人(トルコ国境地帯)とアルメニア人(ダマスカスやアレッポなど)で、ほかにユダヤ人、アッシリア人、トルコ人もいる。砂漠やステップで遊牧を営むアラブ人はベドウィンとよばれている。また外国人として、1948年、1967年の中東戦争で追い出されたパレスチナ難民が25万人、1975年に勃発(ぼっぱつ)したレバノン内戦で流入した難民も100万人近くいるといわれている。宗教は住民の85%がイスラム教徒であるが、諸宗派に分かれ、地域や部族に結び付いて分布しており、政治的にも複雑な問題をはらんでいる。スンニー派は都市に、アラウィー派はラタキア地方、イスマーイール派はハマー州、ドルーズ派はスワイダ地方に多い。少数派であるアラウィー派やドルーズ派が政治的に重要な位置を占め、とくにアラウィー派は政界・軍部内に大きな力をもっている。これらイスラム教徒を除く残り15%の大半はキリスト教徒であるが、多くの宗派に分かれている。このほか、わずかながらユダヤ教徒も住んでいる。

 教育制度は小学校6年、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、その上に大学(4年)、短期大学(2年)の高等教育機関がある。義務教育は小学校の6年間で無償である。約80%が高等学校へ進学しており、中東の国々のなかでは学校教育の普及が進んでいるほうである。公用語はアラビア語で、クルド語、アルメニア語も使われている、都市部では英語、フランス語も通用。識字率は男性89.7%、女性76.5%である(2007)。大学はダマスカス大学、アレッポ大学、ラタキアのティシュリーン大学、ホムスのアル・バース大学がある。新聞は、全国紙としてバース党機関紙『アル・バース』(アラビア語、発行部数2万5000部)、『ティシュリーン』(アラビア語、3万5000部)、『アッサウラ』(アラビア語、2万5000部)の3紙があり、ほかにアレッポ、ホムスなどで地方紙も発行されている。英文の新聞『シリア・タイムズ』(5000部)もある。放送は国営のラジオ・テレビ局の独占で、アラビア語のほか、フランス語、英語、トルコ語の放送がある。通信もシリア国営通信(SANA)が独占している。

 シリアは過去の歴史のなかでさまざまな民族、種々の文化が交錯してきたため、多くの遺跡や建造物が残されている。その代表ともいえるものが、ローマ帝国に滅ぼされた砂漠の商業中継都市パルミラで、見物にまる2日はかかる壮大な規模の遺跡である。内には神殿、凱旋(がいせん)門、大列柱、円形劇場など往時の栄華をしのばせる石造建築物が立ち並んでいる。パルミラと並んで観光客がよく訪れるのがダマスカスのウマイヤ・モスクで、イスラム建築最大の傑作といわれるが、19世紀末の大火で装飾のほとんどを失った。しかし8世紀前半に建てられたこのモスクは、イスラム世界で最初のオリジナル建築としての価値を失ってはいない。アレッポやラタキアをはじめとする地中海岸には、12世紀にビザンティン帝国や十字軍によって建てられた城砦(じょうさい)が多く残されている。地中海沿岸のタルトスの海岸は夏の保養地として名高い。

[原 隆一・吉田雄介]

日本との関係

日本は1953年(昭和28)6月シリアとの間に貿易協定を結び、同年12月公文書を交換、承認した。1954年公使館を、1962年大使館を設置、1973年末ハッダーム外相の訪日直後三木武夫(みきたけお)特使がシリアを訪問したのを皮切りに、人的交流も盛んになり、1981年には日本シリア友好協会も設立された。1991年の政府開発援助(ODA)では、商品借款133億円およびジャンダール火力発電所建設計画に対する円借款516億円を供与している。無償資金協力も1993年に118億1800万円供与。2007年度末までの累計で、有償資金協力1563億円、無償資金協力261億円、技術協力251億円に達している。2008年の対日貿易は輸出が綿花、せっけんなどを中心に15億4000万円、輸入は自動車や機械などで668億8000万円となっており、日本からの大幅輸入超過が続いている。1988年には日本で「古代シリア文明展」が開催され、またシリアの日本大使館により「日本週間」が定められるなど日本文化の紹介が広くなされており、文化交流にも力が入れられている。

[原 隆一・吉田雄介]

『外務省監修『世界各国便覧叢書7 シリア・アラブ共和国 クウェイト国』(1974・日本国際問題研究所)』『フィリップ・K・ヒッティ著、小玉新次郎訳『シリア 東西文明の十字路』(1991・中央公論社)』『『シリア(開発途上国国別経済協力シリーズ 中近東編no.8)』第4版(1995・国際協力推進協会)』『小山茂樹著『シリアとレバノン 中東を揺さぶる二つの国』(1996・東洋経済新報社)』『夏目高男著『シリア大統領アサドの中東外交』(2003・明石書店)』『末近浩太著『現代シリアの国家変容とイスラーム』(2005・ナカニシヤ出版)』『間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』(2006・アジア経済研究所)』


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百科事典マイペディア 「シリア」の意味・わかりやすい解説

シリア

◎正式名称−シリア・アラブ共和国al-Jumhuriya al-Arabiya al-Suriya/Syrian Arab Republic。◎面積−18万5180km2。◎人口−2138万人(2011)。◎首都−ダマスカスDamascus(141万人,2004)。◎住民−アラブ85%,クルド人10〜15%,アルメニア人1%,その他パレスチナ人44.7万人(2007)。◎宗教−イスラム85%(スンナ派70%,アラウィー派12%など),キリスト教13%。◎言語−アラビア語(公用語)が大部分,ほかにトルコ語,クルド語など。◎通貨−シリア・ポンドSyrian Pound。◎元首−大統領,バシャル・アサドBashar al-Assad(2000年6月ハフェズ・アサド前大統領の死去により,次男が7月就任,2014年6月3選,任期7年)。◎首相−ワーエル・アル・ハルキーWael AL-HALQI。◎憲法−1973年3月発効。◎国会−一院制(定員250,任期4年)。◎GDP−552億ドル(2008)。◎1人当りGDP−1570ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−26.6%(2003)。◎平均寿命−男71.8歳,女77.8歳(2013)。◎乳児死亡率−14‰(2010)。◎識字率−84.2%(2009)。    *    *西アジアの共和国。国土の大部分は標高200m前後のシリア砂漠で,北東部をユーフラテス川が流れる。南西部レバノンとの国境をアンチ・レバノン山脈が走る。北西部は地中海式気候で,地中海岸と並行して,狭い海岸平野,小山脈が走り,その東方のオロンテス川河谷は肥沃である。農業国で国内総生産の約25%を農業が占める。主要農産物は小麦,綿花,オリーブ。羊毛の産も大きい。工業はセメント,砂糖,綿織物,タバコなど。東部地方で石油を産出する。 古くから周辺の強国の影響を受け,前4世紀アレクサンドロス大王に征服された。セレウコス朝のとき独立王国を建設したが,その後もローマなどの支配を受け,16世紀にオスマン帝国の支配下に入った。1920年フランス委任統治領となったが,民族主義運動が盛んになり,1946年完全独立を達成した。1958年ナーセル大統領のエジプトと合邦し,アラブ連合を形成した。しかし,1961年エジプト主導に不満をもつ軍や政治家がクーデタを起こし,同連合を離脱した。1970年アサド国防相がクーデタで政権を掌握,翌年大統領に就任して以来,長期独裁政権が続いていたが,2000年6月死去。次男バシャルが7月正式に大統領に就任した。1960年代半ばからバース党が一党支配的地位を占めている。 1975年―1976年のレバノン内戦では正規軍を派遣した。また,1990年のレバノン内戦にも介入して,レバノンに強い影響力をもつにいたった。一方,対立の激しかったイラクと1978年に和解したがその後離反,イラン・イラク戦争ではイランを支持した。1991年の湾岸戦争でもイラクの拡張主義を批判した。1967年の第3次中東戦争以来,要衝のゴラン高原をイスラエルに占領されている。〔アラブの春〕 2011年2月,〈アラブの春〉で中東・マグレブ諸国の民主化要求の運動が拡大するなか,独裁政権が長期にわたって続くシリアでも民主化を求める市民デモが始まり,3月には首都ダマスカスなど5都市でデモが起きるなど,次第に拡がりを見せた。政府は治安部隊を投入,徹底弾圧の姿勢で対応し多数の死者が出,デモはさらに拡大・激化した。アサド大統領は,4月,約50年続いた非常戒厳令を撤廃する大統領令を出す一方,市民に対して無差別発砲や戦車の投入など武力で鎮圧する方針を続けた。市民の抗議運動はダルア,ラタキア,ホムス,バニヤースなど南西部から全土に拡がったが,アサド政権は治安部隊を投入し徹底弾圧,死傷者が続出する事態が続いた。国連は政権に対話を求める事務総長談話を発表,アサドは憲法改正を含む野党との対話の意向を表明したが弾圧の手をゆるめず,トルコなど近隣諸国への難民が相次いだ。9月,反体制グループはトルコのイスタンブールで国民評議会を結成,英仏独・ポルトガルが国連安保理にアサド政権への非難決議を提出したが,10月シリアに権益を持つロシアと中国が拒否権を行使し,否決。11月,アラブ連盟がシリアに対する制裁を決め,国連総会もシリアにおける人権侵害を非難する決議案を賛成多数で採択した。アラブ連盟は治安部隊の都市部からの撤退,暴力の停止,政治犯の釈放などを求め,監視団派遣でシリアと議定書を結び,監視団を派遣したが実効はあがらなかった。シリア全土で数十万人のデモが展開され,2012年1月,シリア非難の安保理決議案が再度提出されたが,再びロシア・中国が拒否権を発動して採択されなかった。2月国連総会は弾圧即時停止の決議を可決したが,政府軍は弾圧攻勢を強め,3月反体制派の拠点都市であるホムスを制圧。国民評議会はアラブ連盟をはじめ米英仏日の有志国との連携を強め,政府軍脱走兵を中心とする自由シリア軍を組織下において政権打倒を掲げ,シリアは完全な内戦状態となった。〔シリア内戦〕 しかし国民評議会は組織的統一がとれておらず政権担当能力が疑問視された。4月,国連は,アナン前事務総長を特使として派遣,アサド政権と停戦で合意,政権は国連監視団の受け入れを表明,国連安保理は平和維持活動(PKO)部隊派遣を採択した。ロシア,中国も停戦を歓迎した。しかし,政府軍の重装備部隊や戦車の配置は依然とかれておらず,5月,アサド政権は議会選挙を実施したが,国民評議会などはこれをボイコット。さらに首都バグダッドで大規模な爆弾テロが起こるなど,戦闘と抗議活動はその後も続き,7月安保理において国連監視団派遣延長とアサド政権への制裁の欧米提出の決議がまたも中国・ロシアの拒否権発動で否決された。8月にはヒジャーブ首相が政権からの離反を表明したが,激戦が続くアレッポ国際空港で,アサド軍は反政府軍の攻撃を撃退した。国連安保理は国連停戦監視団の解散・撤収を決定した。11月,国民評議会にかわる反政府統一組織シリア国民連合が創設され,フランス,アメリカは,シリアにおける唯一の正当な代表として承認したが,国民連合が国内反政府派を統合する勢力となるかはまったくの未知数とされた。2013年1月,反政府軍が北部の最大の空軍基地を制圧,アサド政権への圧力は一段と強まったが,これに対してアサドは3月,十数年続く非常事態宣言の撤廃を表明,国民との協調をはかる改革計画を打ち出し政権を持ちこたえた。4月イスラエル軍情報部門が,アサド政権がサリンなどの化学兵器を使用していると発表。アサド政権は反政府勢力が化学兵器を使用したと主張した。国連人権委員会の調査はシリア政府が化学兵器を用いた根拠は発見されず,反政府勢力が使用した可能性が高いと発表。イギリスは化学兵器の使用を根拠としたシリアへの武力行使を容認する決議案を国連安全保障理事会に提出。しかしこれも中国・ロシアの反対により合意に至らず,結局イギリス下院はイギリスによるシリアへの軍事介入容認の動議を否決した。9月ロシアの仲介でシリアが化学兵器禁止条約に加入する姿勢を明らかにし,加入書を寄託(10月に発効),シリアの化学兵器廃棄に向けて米ロが合意し,アメリカ,フランスなどによるシリア攻撃は回避された。国連安保理はシリアの化学兵器を国際管理下で廃棄させる安保理決議を全会一致で採択した。シリアではOPCM(化学兵器禁止機関)の決定及び国連安保理決議の下で化学兵器廃棄のプロセスが進行した。しかしその間もシリア内戦は続き,反政府側ではイスラム過激派組織ISが急速に力を持ち支配地域を拡大,他の反アサド組織との間で戦闘が激化,内戦内の内戦という事態が進行した。2014年6月,イラク・シリアに勢力を広げたISは〈カリフ制国家〉の建国を宣言,ISは中東のみならず国際社会全体の重大な脅威となった。9月アメリカをはじめとする有志連合はシリアのISの拠点にも空爆を開始した。アサドは対IS問題でこれまで敵対してきた諸国とも連携する動きを見せている。長期にわたる内戦でシリアの諸都市は破壊され,トルコなどを含め近隣諸国に逃れる難民はすでに200万を超えている。
→関連項目カナン

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知恵蔵 「シリア」の解説

シリア

正式名称はシリア・アラブ共和国。西アジアのアラブ共和国で、北はトルコ、南はイスラエルとヨルダン、東はイラク、西はレバノンと国境を接する。首都はダマスカス(アラビア語ではディマシュク)。面積は約18万5千平方キロメートルで、日本の半分ほど。人口は約2000万人で、9割を占めるシリア系アラブ人を始め、イラン語系のクルド人や印欧語系のアルメニア人他から成る多民族国家である。公用語はアラビア語。アラブ系国民の9割近くをイスラム教スンニ派が占めるが、現アサド大統領はアラウィー派(シーア派の一派)である。また、アルメニア教会やコプト教など東方系のキリスト教徒も1割を占めている。国の歳入は、東部で産出する石油が1位だが、産出量・埋蔵量ともに少なく、近い将来の枯渇が心配されている。ただし、綿花、小麦、オリーブ栽培といった農業の他、繊維、食品加工、セメントなどの工業も見られ、中東諸国に顕著な石油依存のモノカルチャー経済ではない。
東西交通の十字路に当たり、古代からヒッタイト、アケメネス朝ペルシャ、マケドニアなどの支配を受けた。7世紀に興ったウマイヤ朝がダマスカスに都を置くと(661~750年)、イスラム文化の中心地として栄えるが、続くアッバース朝が都をバクダッド(イラク)に移すと、その役割は薄れていった。16世紀以降は、オスマン・トルコ帝国の版図に入れられる。その後、20世紀初頭のイギリス、フランスの植民地支配を経て、1946年に独立を果たした。58年、アラブ民族主義の高揚を受け、ナセル政権下のエジプトとアラブ連合共和国を結成したが、わずか3年で崩壊。63年に社会主義路線のバース党が政権を奪い、70年には同党の軍部クーデターによってハフェズ・アサドが首相に就任した。翌年、アサドは大統領になり、軍と秘密警察を後ろ盾にバース党の独裁体制を築いた。2000年の死去後も、その強権的な支配体制は息子のバッシャール・アサドに引き継がれ、現在に至っている。
外交では、反イスラエルを鮮明に打ち出し、レバノンで活動するシーア派原理組織「ヒズボラ」やパレスチナのスンニ派原理組織「ハマス」への支援も惜しまない。40年以上に及ぶ独裁体制を堅持できているのは、こうした汎イスラム主義と他信仰に寛容な世俗主義という相反するイズムの使い分けによるもので、実際、宗教的な懐柔が多数派スンニ派や少数派キリスト教徒たちの不満を抑えてきた。ただし、政権批判や反政府活動に対しては、「テロ防止による秩序の維持」を理由に徹底的な弾圧を加えている。1980年代初頭、西部の都市ハマでムスリム同胞団による大規模な反政府デモが起こったが、空爆や砲撃で封じ込めた。2010年末から11年初頭にかけて、マグレブ諸国で起こった民主化の動き(アラブの春)も直接波及することはなかった。ところが、11年の後半から、反体制派勢力の結集組織「シリア国民評議会」を中心に、民主化を求める大規模な反政府運動が広がっている。欧米諸国はこれを弾圧するアサド政権を厳しく批判。周辺アラブ諸国の中にも、反体制派を支援する動きが加速している。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2012年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シリア」の意味・わかりやすい解説

シリア
Syria

正式名称 シリア=アラブ共和国 Al-Jumhūriyyah al-`Arabiyyah al-Sūriyyah。
面積 18万5180km2ゴラン高原 1176km2を含む)。
人口 2690万8000(2021推計)。
首都 ダマスカス

西アジア地中海東岸に面する国。北はトルコ,東と南東はイラク,南はヨルダン,南西はイスラエルレバノンと国境を接する。海岸に山脈が迫り,内陸へゆるやかに傾斜する。北部,西部は山地が多く,レバノンとの国境に沿ってアンティレバノン山脈が走り,イスラエルとの国境にはゴラン高原が位置する。南部,東部は高原状の台地。西部をオロンテス川,北東部をユーフラテス川が流れ,溶岩や岩石に覆われたシリア砂漠がその間に広がる。地中海沿岸地方と西部山地は温帯冬雨気候(地中海式気候)で,5~10月は乾季となる。内陸部は乾燥しており,夏は暑く,冬は寒い。砂漠地帯では,夏の気温が 50℃近くに達することもある。古代文明が栄えた地であるが,西アジアに勃興した諸帝国に次々と支配,征服され,1517年からオスマン帝国領。1920年からフランスの委任統治領。1946年完全に独立した。住民の大部分はシリア系アラビア人で,スンニー派のイスラム教徒が多い。公用語はアラビア語。半数以上が農牧業に従事し,ヒツジ,ヤギ,ウシ,ラクダを飼う。海岸平野,オロンテス川,ユーフラテス川沿岸などの灌漑地域,オアシスでは綿花,穀類,イチジク,オリーブなどを産する。1956年に油田が発見され,国営石油会社が 1968年から生産を開始した。製油所をはじめ,綿織物,食品加工,たばこ,ガラス,セメントなどの軽工業もある。イスラエルとは数度にわたる戦争を行ない(→中東戦争),1967年の六日戦争後,南西国境地帯のゴラン高原を占領されている。2011年には民主化を求める反政府運動が勃発,武力闘争に発展し,内戦状態となった。(→シリア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「シリア」の解説

シリア
Syria

東地中海沿岸の北部地方の名称
その範囲は時代により異なる。古来いくつかの王国による支配を受け,前333年アレクサンドロス大王の征服をへてセレウコス朝の中心となった。アンティオキアは絹の道にあたり,東西交通の要地となった。前64年から古代ローマ領,636年以後イスラーム諸王朝に属し,十字軍時代をへて,1516年オスマン帝国領となり,第一次世界大戦に至った。1920年フランスの委任統治を受け,46年シリア−アラブ共和国として独立した。

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精選版 日本国語大辞典 「シリア」の意味・読み・例文・類語

シリア

(Syria)⸨シリヤ⸩
[一] 西アジアの地中海に面する一帯の地域。聖書にあるアラムの地で、シリア・レバノン・イスラエル・ヨルダンおよびトルコの一部にあたる。
※頭書大全世界国尽(1869)〈福沢諭吉〉一「海々のひがしは小亜細亜、尻屋(シリヤ)、雨仁屋(アメニア)、羽礼須多院(ハレスタイン)

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世界大百科事典 第2版 「シリア」の意味・わかりやすい解説

シリア【Syria】

地中海とアラビア半島の砂漠との間の,南北に細長い地域に対する歴史的呼称ギリシア語(古典的発音ではシュリア)に由来し,アラビア語ではシャームal‐Shāmという。その正確な範囲は時代によって異なり,現在のシリア・アラブ共和国は古代以来の〈シリア〉という語の用法では最も狭い地域をカバーしているにすぎない。古代地理では,北はイスケンデルン(アレクサンドレッタ)湾周辺ないしトロス山脈以南から,南はシナイ半島までを含み,現在のトルコ共和国南東端からレバノン共和国,シリア・アラブ共和国,イスラエル,ヨルダン・ハーシム王国にまたがる地域にほぼ相当した。

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