パルティア(読み)ぱるてぃあ(英語表記)Parthia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パルティア」の意味・わかりやすい解説

パルティア
ぱるてぃあ
Parthia

イラン北東部に紀元前3世紀ごろイラン系遊牧民が建てた王国。建国アルサケスの名からアルサケス朝ともよばれ、中国史料では「安息(あんそく)」と記されている。前247年、パルニ人の長アルサケスはセレウコス朝の支配から脱し、独立政権を建てた。その後を継いだ弟のティリダテスはシリアのセレウコス2世に敗北したが、その後ふたたび勢力を回復し、前171年ごろ即位したミトリダテス1世の治下において、王国は広大な版図を獲得した。王はバクトリア王国やセレウコス朝の領土を征服し、さらにメディア、バビロニアに侵入した。都は初めニサであったが、その後ヘカトンピロスに移され、前129年には新しい首都としてクテシフォンが建設された。王国はこの新都を中心に繁栄した。しかしその子フラーテス2世や、次王アルタバヌス2世は、南下してきた遊牧民サカ人やトハラ人との戦いに敗れたため、国内の統一は崩れて混乱した。前123年ごろ即位したミトリダテス2世の時代に帝国は復興したが、アルメニアの領有をめぐり膨張してきたローマ帝国と衝突した。王はローマと友好条約を結んだが、その後も両国間の戦いは続いた。パルティアの組織化された軽装騎兵は、ローマの重装歩兵に対して、その機動力を十分に生かした戦術で健闘した。しかしパルティアも王家の王位継承の争いや北方民族の脅威などの諸問題を抱えていたので、戦いの勝敗がつかず長期化した。パルティアは長年にわたるローマとの戦闘で国力が衰え、226年ファールス地方に興った新勢力ササン朝ペルシアのアルダシール1世によって滅ぼされた。パルティアは遊牧民の国家であったが、しだいに定住していた農民に同化し、封建社会を形成した。帝国の支配機構はセレウコス朝の体制を継承し、ギリシアとペルシアの影響を受けた文化が栄えた。また東西を結ぶ要地だったので絹貿易の利益が大きく、そのような交易を通じての文化交流の発展を促進させた。

[吉村作治]

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旺文社世界史事典 三訂版 「パルティア」の解説

パルティア
Parthia

前248ごろ〜後226
西アジア,イラン高原を中心に支配した古代王国
セレウコス朝(シリア)の衰退に乗じ,イラン系遊牧民の族長アルサケスがカスピ海南東地方に建てた国で,その王朝をアルサケス朝と呼ぶ。中国ではこれを国名と考え安息 (あんそく) と呼んだ。ミトリダテス1世(在位前171 (ごろ) 〜前138 (ごろ) )のとき,シリアとバクトリアの衰退に乗じて領土を東西に大きく拡張し,中継貿易で栄えた。その後内乱によって衰え,西方の領土はローマ帝国に奪われ,ササン朝によって滅ぼされた。ヘレニズムの影響を受けたが,末期にイラン文化もおこった。首都は初めヘカトンピロス,のちクテシフォン。国内ではギリシア語が公用語とされ,ゾロアスター教が保護された。のちにはミトラ教が流行し,国外にも波及ポンペイウスの東征以後はローマにおいても大流行した。

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百科事典マイペディア 「パルティア」の意味・わかりやすい解説

パルティア

前247年―後226年,西アジアを支配した王国。始祖アルサケス1世Arsaces Iの名にちなみアルサケス朝パルティアとも。セレウコス朝から独立し,前2世紀中葉が最盛期。以後ローマと抗争を続け,224年,最後の王アルタバヌス4世Artabanus IVがササン朝ペルシアのアルダシール1世と戦って敗死,滅亡に至る。東西交渉の要衝にあり,中国には安息として知られた。なお,紀元前後に西北インド,アフガニスタン,東イランを支配した一派をインド・パルティア族と称する。
→関連項目甘英クテシフォンタブリーズドゥラ・ユーロポスハトラ

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精選版 日本国語大辞典 「パルティア」の意味・読み・例文・類語

パルティア

(Parthia)
[一] カスピ海の南東、イラン高原北東部地方の古称。
[二] 西アジアにイラン系遊牧民の建てた国。前三世紀なかばに、セレウコス朝シリアの衰退に乗じ、カスピ海南東地方にアルサケスが建国。前二世紀なかばにはユーフラテス川からインダス川にいたる広大な領域を支配したが、二二六年ササン朝ペルシアに滅ぼされた。中国名は安息。

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デジタル大辞泉 「パルティア」の意味・読み・例文・類語

パルティア(Parthia)

古代イランの王国。前247年ごろ、シリアのセレウコス朝の衰退に乗じ、イラン系遊牧民パルニ族のアルサケスが、イラン高原北東部(古称パルティア)にって独立して建国。226年、ササン朝ペルシアによって滅ぼされた。パルチア。中国名は安息。

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世界大百科事典 第2版 「パルティア」の意味・わかりやすい解説

パルティア【Parthia】

西アジアの王国。アルサケス朝パルティアともいう(図)。中国ではアルシャクArshak(アルサケスArsaces)を音訳した〈安息〉の名で知られる。パルティアはイラン北東部の地方名で,アケメネス朝時代にはパルサワParthavaと呼ばれていた。
[歴史]
パルティアの建国は,前3世紀中ごろ,セレウコス朝シリア(シリア王国)の東半部に生じた政治的変動に乗じて行われた。アルサケス1世Arsaces I(在位,前247‐前217か214)はスキタイ系遊牧民ダアアイの一部族パルノイを率いてアスタウエネを占領し,前247年アサアクにおいて即位した。

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世界大百科事典内のパルティアの言及

【アルサケス朝】より

…パルティアの王朝。スキタイ系遊牧民パルノイの族長アルシャクArshakを祖とする。…

【安息】より

…パルティア王国に対する古代中国人の呼称で,この王朝が始祖アルサクArsakにちなんでアルサケス朝と呼ばれていたことに由来する。前2世紀末の張騫(ちようけん)によって中国に紹介されて以来,南北朝期までの漢籍にみられる。…

【イラク】より


【歴史】
 イラク地方はかつて〈二つの河の間の土地〉,すなわちメソポタミアと呼ばれ,シュメール,アッカド,バビロニア,アッシリア,新バビロニアなどのメソポタミア古代文明国家が栄えたことは,周知のとおりである。新バビロニアはアケメネス朝ペルシアに滅ぼされたが,その後アレクサンドロス大王の西アジア征服を経てパルティア王国,ササン朝とペルシア系王朝支配が続き,後者はバグダード南方のクテシフォンを首都にした。 イラク地方は637年,第2代正統カリフのウマルの治下にイスラム世界に組み込まれた。…

【シリア】より

…このころまでに東方進出政策を推進していたローマ人は,これに介入して将軍ポンペイウスを派遣し,シリアをローマの属州とし(前64),小王国や都市には自治を許した。 ローマ帝国にとって,シリアはパルティアに対する軍事作戦基地や防衛拠点としてきわめて重要な意味をもっていたので,1世紀中葉までにここに4軍団を配備し,治安の確保に努め,寝返りの恐れのある小王国は次々に併合した。また現在も一部が残る軍用路が建設された。…

【メソポタミア】より

…バビロンのエギビ一族,ニップールのムラシュ一族の文書は,商取引によって富を蓄えた階層の実態をよく示している。ペルシア帝国
[セレウコス朝時代,パルティア,ササン朝ペルシア時代]
 前331年ダレイオス3世がアレクサンドロス大王に敗北するに及び,ペルシア帝国は崩壊した。アレクサンドロスの死後,部下セレウコスがシリア,メソポタミアを支配した(セレウコス朝シリア)。…

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