高家郷(読み)たけいごう

日本歴史地名大系 「高家郷」の解説

高家郷
たけいごう

古代宇佐郡高家郷(和名抄)の系譜を引く中世郷で、宇佐宮領。郷域は明治二二年(一八八九)に成立した高家村・糸口いとぐち村・長峰ながみね村・横山よこやま村・八幡やはた村の範囲であったと推定される。鎌倉初期に編纂された「宇佐大鏡」によると、当郷宇佐宮比売神に給与された封戸が庄園化したもので、当郷を含む宇佐郡内の四郷(高家・辛島・向野・封戸)は宇佐境内郷(内封四郷)と称され、神居境内であり、「他に異なる神事重役一円不輸の御封」であった。田数は一六〇町、佃三町五反・用作九丁七反。仁治二年(一二四一)の散田帳(「宇佐宮神領次第案」到津文書)によると、当郷には七四名があり、宇佐宮は雑仕・雑仕女・加用といった人身課役を割当てていた。承安二年(一一七二)一二月三〇日の中津尾寺座主別当神智紛失状案(到津文書)に「高家郷司貫主漆嶋宿禰」とみえ、貞応元年(一二二二)四月三〇日の関白家御教書(金光文書)によれば当時、漆島(金光)清保が高家郷司であった。

元徳元年(一三二九)高家安芸房清円は鎮西探題北条英時に「高家郷犬太郎・犬丸両名」の地頭職安堵を求めている(同年一二月三日「鎮西御教書写」金光清明系図)鎌倉幕府は神領内の犯過人に対する守護使の検断を禁止し、宇佐宮の検断としていたが(承元三年一二月六日「関東御教書案」到津文書)、元徳二年安芸法橋清円は赤尾孫五郎入道道種などとともに豊前守護使飯塚太郎兵衛尉を当郷内に引入れ、五郎三郎男三郎冠者を搦取るなど、さまざまな狼藉を行っていた(同年一二月日「宇佐宮神官等連署申状案」益永文書)

高家郷
たきべごう

和名抄」高山寺本に「高家」と記し「多支へ」と訓じ流布本では「太木倍」と訓じている。「日本地理志料」は「按支原木、今従高山寺本」とあり、「たきべ」が正しい読みであろうとする。諸書ともこの読みについて異論がない。

その範囲については、「日本地理志料」は「今郡東南飯田・真々部・鳥羽・七日市・二木・及木・吉野・住吉・長尾・楡・野沢諸邑、近者并高家村、呼曰太岐倍、蓋復旧名也」と記しており、「大日本地名辞書」は、「今、詳らかならずと雖も、近年成相なりあいの南に高家村というを建置す。

高家郷
たけいごう

「和名抄」宇佐郡一〇郷の一。諸本とも訓を欠くが、現在の宇佐市東高家・西高家・上高家・下高家(近世の高家村)が遺称地であろう。「太宰管内志」は「多加倍、又多加也とも訓ムべし」とし、森氏の言を引いて「今四箇村と成て、タキイと唱ふるなり(中略)四日市、猿渡辺より海辺に至り」云々とあり、伊呂波いろは川東岸一帯に郷域を比定する。当郷を継承する中世高家郷にかかわる史料にみえる地名からみると、現宇佐市上高家・東高家・西高家・下高家・下高しもたか・上高・上時枝かみときえだ・下時枝・猿渡さるわたり大根川おおねがわ佐野さの上元重かみもとしげ・下元重・山下やましたすえ今成いまなり木内きうちなかくろ山袋やまぶくろが郷域であろう。

高家郷
たかやごう

「和名抄」所載の郷。東急本に「多加也」と訓ずる。郷域については、現羽咋郡南部の子浦しお川流域とみる説(日本地理志料)相見あいみ川流域の現押水おしみず竹生野たこの付近とする説(能登志徴)があったが、確証を欠いていた。近年の研究によれば、郡内の位置比定可能な「和名抄」所載の郷の分布と、古墳群や集落跡の分布を重ね合せることにより、子浦川流域の現志雄しお町、気多神社や寺家じけ祭祀遺跡を含む現在の滝崎たきざき周辺地区、すなわち現羽咋市いちみや甘田あまだ地区、志賀しか町甘田地区、於古おこ川流域の現志賀町高浜たかはま堀松ほりまつ地区の三地区が郷名未詳の遺跡集中地区として残ることがわかり、これらの三地区が郷域不明の高家郷・岡本おかもと郷・神戸かんべ郷のいずれかに相当すると考えられている(志賀町史)

高家郷
たきえごう

「和名抄」所載の郷。同書には多くの同名郷があるが、その訓は一定しない。「家」の字をヤとよむのは後世の習わしなので、信濃国安曇郡高家郷の訓「多支へ」(高山寺本)・「太木倍」(東急本)によりタキエと訓ずる。ほかにタカエもありうるが、そのほかはのちの誤りであろう。比定地は諸説あり一定していない。「濃飛両国通史」「岐阜県史」は近江国との国境で、伊吹山の南山麓にある現関ヶ原町たま、「大日本地名辞書」は現垂井たるい府中ふちゆうとするが、ともにその論拠は示されていない。

高家郷
たいえごう

多武峯寺領。護国院御神殿造営銭日記(談山神社文書)の永正一六年(一五一九)の「諸郷反銭納分四郷ハ五十文配、寄郷ハ百文配」に「十七貫二百八十二文 高家郷分納之、預申作分百文免、所残皆納」とある。高家郷は四郷のうちであり(「四郷人夫差次第」談山神社文書)、神殿造営段銭は五〇文であるから、当郷田畠の面積は上納金との関係からみると、三四町余と推測される。

高家郷
たかやごう

「和名抄」東急本は「多加也」と訓を付す。「大日本史国郡志」は「今刈羽郡有滝谷村、即高家之転」とする。「日本地理志料」も同様に滝谷たきや(現刈羽郡刈羽村)を中心に黒部くろべ和田わだ二田ふただ(現同郡西山町)寺尾てらお・刈羽・赤田あかだ(現刈羽村)一帯にあてる。

高家郷
たかべごう

「和名抄」刊本・東急本の訓は多加倍とし、高山寺本は多岐へとする。「日本地理志料」は滝平たきだいらを中心として千手せんじゆ大崎おおさき(以上現羽茂町)静平しずだいら下黒山しもくろやま(現真野町)上川茂かみかわも下川茂しもかわも(現赤泊村)をその郷域とする。

高家郷
たけべごう

「和名抄」刊本・東急本に訓を多介倍とするが、高山寺本には訓はない。「大日本史国郡志」は訓が相近いことから武井たけい保の遺称地武井(現新穂村)にあてる。「日本地理志料」も武井にあてるが、「大日本地名辞書」は武井は賀茂郡大野おおの郷内とし、高家は古の郡家の説をとって本屋敷ほんやしき(現金井町)辺りとする。

高家郷
たけべごう

「和名抄」に「高家」と記され、訓を欠く。正倉院宝物の人参袋に天平勝宝四年(七五二)として「常陸国鹿嶋郡高家郷戸主占部手志古占部鳥麿調曝布壱端」とみえる。また弘安大田文の白鳥しろとり郷のうちに「二十七丁五段 志崎・武家村以下在之」とある。

高家郷
たいえごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本の訓に「多以恵」。「播磨国風土記」に高家里がみえる。天日槍命が「此の村は、高きこと、他村に勝れり」といったことに由来するという。里内に都太つだ川・しお村がある。保延四年(一一三八)正月二三日の大般若経奥書(守屋孝家蔵)に「宍粟郡高家郷光明寺住僧永順」とみえる。

高家郷
たかえごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「多加也と訓むべし」とするが、「たかえ」であろう。「大日本地名辞書」は八女やめ郡の項にこの高家郷を置き、「今八女郡二川ふたかは村に大字高江たかえあり、此地三より転属したる如し」と記す。

高家郷
たかやごう

「和名抄」高山寺本は「豪高」につくるが、おそらく誤りであろう。東急本にも訓を欠く。高家は「高屋」と相通じ、「和名抄」中全国に二〇余ヵ所を数え、古く屯倉・国府などの所在地であった地に多くみられる。民家に比べ高台に建築された家の意、あるいは高い家のある郷の意であろうとされる。

高家郷
たかべごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の佐渡国羽茂郡高家郷には「多加倍」、同国雑太郡高家郷には「多介倍」の訓が付されているので、「たかべ」「たけべ」両様に訓ぜられよう。

高家郷
たかべごう

「和名抄」に「高家」と記され、訓を欠く。正倉院宝物の布に「常陸国行方郡高家郷戸主大伴□荒嶋白曝調布壱端」とみえる。「新編常陸国誌」には「按ズルニ今ノ内宿、両宿等ノ村里、其地ナリ、コノ地旧名ハ、武家又武井ニ作ル、武家ハ即高家ナリ」とあり、現行方郡北浦村内宿うちじゆく両宿りようしゆく一帯に比定する。

高家郷
たきえごう

「和名抄」所載の郷。訓注は高山寺本に「加岐へ」、東急本に「加木倍」とあるが、いずれも不審。美濃国不破郡の同名郷と同じくタキエとよむ。

高家郷
たかやごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は同じ仲津郡内の高屋たかや郷との重複の可能性を示唆する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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