能登国(読み)ノトノクニ

デジタル大辞泉 「能登国」の意味・読み・例文・類語

のと‐の‐くに【能登国】

能登

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日本歴史地名大系 「能登国」の解説

能登国
のとのくに

養老二年(七一八)五月二日、越前国羽咋はくい・能登・鳳至ふげし珠洲すず四郡を割いて設置された国(続日本紀)。日本海に突出する能登半島全域を占め、南西は越前国、南東は越中国に接する。中世能登郡は鹿島かしま郡と称されるようになる。

古代

〔能登臣と羽咋公〕

五世紀になると地域ごとに重層的な古墳群造営が盛んになり、能登では七尾市の高木森たかぎもり古墳を盟主墳とする矢田やた古墳群と、羽咋市の山伏山やまぶしやま古墳を盟主墳とする柳田やないだ古墳群とに大別される。この分布は「国造本紀」にみえる「能等国造」と羽咋国造の勢力圏に対応すると考えられる。六世紀以降、能登国造に能登臣、羽咋国造に羽咋公がそれぞれ任命され、能登臣が古墳の規模などからみて羽咋公よりも優位に立っていた。「日本書紀」斉明天皇六年(六六〇)三月条によれば、能登臣馬身竜が阿倍臣の率いる東北征討軍に参加し戦死している。馬身竜は能登国造に任命された能登臣の一族と考えられ、能登国造をはじめとする越の国造たちが、東北地方を制圧するため中央政府の命により出兵していたなかでの出来事である。こののちその重要な基地として政府の支配をますます強く受けるようになる。持統天皇六年(六九二)までに越前国が設置され、能登は同国に含まれていた。和銅六年(七一三)の平城宮跡出土木簡に「越前国登能郡翼倚」、霊亀元年(七一五)以前と推定される同木簡に「越前国珠珠郡月次里」とみえることから確認できる。

〔第一次立国〕

養老二年五月二日に羽咋・能登・鳳至・珠洲四郡を越前国から割き能登国が立てられた。この立国は律令体制草創期の制度の整備、版図の拡大という藤原不比等政権の方針によるものである。能登国守が任命された形跡はなく、越前守多治比広成が按察使(養老三年設置)として国務を管轄したものとみられる。天平五年(七三三)には新任の史生大市国勝が赴任し、太政官符が逓送されている(同年閏三月六日「越前国郡稲帳」正倉院文書)。能登国からは同八年四月一〇日に能登郡鹿島郷望理里より調代として熬海鼠六斤を貢進しており(平城宮跡出土木簡)、わずかであるが当時の状況がうかがえる。国守の任命がないまま同一三年一二月一〇日能登国は廃され、四郡は越中国に併合された(続日本紀)。天平期における行政機構の縮小の一環とみるべきであろう。そのうえで能登四郡が越前国に復することなく越中国に併合された理由を考えると、海路で富山湾岸と伝統的に結ばれていた地域圏にあったというだけではなく、政権を担当する橘諸兄が藤原氏の勢力の強い越前に復することを忌避したためと推測される(七尾市史)

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改訂新版 世界大百科事典 「能登国」の意味・わかりやすい解説

能登国 (のとのくに)

旧国名。能州。現在の石川県羽咋(はくい)郡以北,能登半島の大部分を占める。

北陸道に属する中国(《延喜式》)。国郡制が施行された当初は越前国に属したが,718年(養老2)越前国の羽咋,能登,鳳至(ふげし),珠洲(すず)4郡を割いて,能登国が設置された。国名の由来は,立国の際,能登郡(現,七尾市)に国府が置かれたことによる。しかし741年(天平13)に至り,能登国は越中国に併合され廃国となった。748年(天平20)春,越中守大伴家持が出挙(すいこ)のために能登半島を巡行したときの和歌が,《万葉集》に載せられている。757年(天平宝字1)能登国は越中国から分立して復活した。日本海に突出して位置したため,古代には日渤交渉の拠点となり,渤海(ぼつかい)国使帰国のときの造船・出航基地であった。《延喜式》によれば,名神大社に羽咋郡の気多(けた)神社が見え,ほかに小社42座が官社として登載されている。貢納物では,熬海鼠(いりこ),海鼠腸(このわた),鯖(さば)などの京送が規定されているのが注目される。《拾芥抄(しゆうがいしよう)》に見える平安末期ごろの総田数は8479町である。

平安末期の能登国は平氏一門の知行国(ちぎようこく)であったが,1181年(養和1)には国守の派遣した目代(もくだい)が在地武士によって追放されるなど,平氏の支配に対し反乱的状況が生まれていた。83年(寿永2)木曾の源義仲が平氏軍を撃破して北陸道を西上してくると,土田,日置,武部らの能登武士は,その陣営に加わった。翌年,義仲が没落すると,北陸道諸国は鎌倉幕府の支配下となり,鎌倉勧農使比企朝宗(ひきともむね)の管掌下に置かれた。鎌倉期の守護は北条一門の名越氏が補任されたが,その間,鳳至郡大屋荘地頭となった長谷部信連(はせべのぶつら)など,外来地頭の来住もあった。1221年(承久3)能登の国衙在庁(こくがざいちよう)が作成した〈能登国大田文〉は,国衙が一国平均役(いつこくへいきんやく)を賦課する場合の基礎台帳で,それによれば4郡で80ヵ所の荘園,国衙領の分布が知られ,国内の総公田数は2046町余となっている。能登における荘園の成立は12世紀中葉の鳥羽院政期に多く知られ,奥能登や口能登南部で若山荘(公田数500町),町野荘(公田数200町),大屋荘(公田数197町余),大泉荘(公田数200町)の大規模な荘園が確認できる一方で,国衙周辺の鹿島郡(古代の能登郡が改称)付近では,小規模な国衙領が集中しているのがわかる。また珠洲郡の若山荘周辺では12世紀後葉以降,須恵(すえ)質の中世陶器(珠洲焼)の生産がはかられており,日本海海運によって北東日本海沿岸の各地へ流通していた。

鎌倉後期の能登国では,石動(いするぎ)山の修験道信仰などが主潮をなしていたが,やがて鎌倉新仏教の伝播もはかられた。1294年(永仁2)日蓮の高弟日朗門下の肥後房日像が能登に巡錫(じゆんしやく)し,日像に帰依した羽咋郡甘田保柴垣の領主柴原氏一族が滝谷法華堂を建立したと伝えられ,これが後に妙成(みようじよう)寺に発展し,能登における日蓮宗弘通の拠点となった。禅では,1313年(正和2)瑩山紹瑾(けいざんじようきん)が羽咋郡中河の地頭酒匂(さかわ)氏一族の外護を得て,鹿島郡酒井保の山中に草庵を結び,この草庵は永光(ようこう)寺となった。さらに紹瑾は21年(元亨1)定賢(じようけん)権律師から鳳至郡櫛比(くしひ)荘の諸岡観音堂を寄進され,総持寺と改めた。永光・総持両寺は以後南北朝・室町期に,瑩山の法嗣峨山韶碩(がさんじようせき),明峰素哲(めいほうそてつ)の門流の人々によって,曹洞宗教団の全国的発展の中心的寺院となった。念仏の教えも同じころ,一遍の高弟他阿真教の遊行(ゆぎよう)により踊念仏の時宗の信仰がもたらされたが,室町期に至って宗勢は衰えた。かわって1471年(文明3)本願寺蓮如の北陸布教以後,真宗本願寺派の教線が急速に浸透し,戦国後期には坊主組織の整備もはかられ,鳳至郡阿岸(あぎし)本誓寺,羽咋郡羽咋本念寺などの大坊主がその中核となっていた。

南北朝期の守護には地元羽咋郡出身の吉見氏が登用され,守護支配の進展に努めたが,羽咋郡富来院の富来俊行(とぎとしゆき)や鹿島郡能登島の長胤連(ちようたねつら)など,南朝方と結ぶ勢力も存在し,それに抵抗する動きもあった。南北朝末期,室町幕府内部の争いに連座して吉見氏が失脚すると,足利一門の有力者畠山基国が能登守護に就任した。1408年(応永15)に至り,基国の次男満慶(みつよし)が兄の満家から能登守護職を分譲され,管領畠山氏庶流の〈畠山匠作(しようさく)家〉(能登畠山氏)を創立した。したがって室町期の能登畠山氏の領国経営は,在京する守護満慶,義忠,義統(よしむね)に代わって,守護代遊佐(ゆさ)氏が鹿島郡八田(やた)郷府中の守護所にあって実務にあたった。応仁・文明の乱(1467-77)後,守護畠山義統は能登に下国し,動揺する領国の再建に腐心して,戦国大名化への基礎を固めた。戦国前期の北陸地域の内乱的状況のなかで,能登畠山氏は一族間の内訌や一向一揆の反乱などを克服し,やがて戦国中期の畠山義総(よしふさ)の時代に,領国の繁栄を招来するが,その間,守護所(府中)に近接する七尾山に堅固な山岳城(七尾城)を構築し,山下に戦国城下町七尾の形成もはかられた。義総の勢威を頼って,京から多く公卿,禅僧の流寓(りゆうぐう)や歌人,連歌師の回遊も見られた。しかし義総の死後,能登畠山氏の支配に動揺が生じ,やがて重臣遊佐続光(つぐみつ),温井紹春(ぬくいじようしゆん),長続連(つぐつら)らの畠山七人衆が領国の主導権を掌握する。以後,戦国後期に重臣間の確執が展開され,一時期には大名畠山義綱の領国再建策も企てられたが失敗に帰し,義綱は能登から追放された。そうしたなかで1576年(天正4)越後上杉謙信の能登進攻がはかられ,翌年9月,七尾城は陥落して能登畠山氏は滅亡した。こののち越後上杉氏の占領支配がはかられたが,織田信長と結んで能登奪回に執念を燃やす畠山旧臣の長連竜(つらたつ)の攻略と上杉方に帰服していた温井景隆(かげたか),三宅長盛らの離反にあい,80年ごろに至り挫折した。
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1581年能登国は織田信長の勢力下に入り,鹿島郡の半分が長連竜に給され,残りは信長の部将菅屋長頼,福冨行清,前田利家が支配した。同年8月,信長は前田利家に能登一国を知行させ,長氏はその与力となった。93年(文禄2)利家は次男利政に能登国を分与したが,98年(慶長3)隠居したとき,養老領の内に口郡の1万5000石を含めた。翌年利家が死去して再び利政に戻ったが,利政は1600年関ヶ原の戦で東軍に加わらなかったため封を奪われ,能登一国は兄の加賀藩(金沢藩)2代前田利長に加増された。06年,替地によって土方雄久(ひじかたかつひさ)領1万石が能登に散在して置かれた。この土方氏領は850石だけを残して1681年(天和1),84年(貞享1),1703年(元禄16)に順次幕府領になり,鳥居忠英領(1689-95),水野勝長領(1698-1700)の時期を経て1722年(享保7)に加賀藩へ預地になり,1810年(文化7)以後は加賀藩の法制がしかれた。この間,その領域は時期により少し変更されたが,1867年(慶応3)預地を加賀藩領とし,代りに毎年1万5000両を幕府へ上納することになり,翌年には改めて幕府領,土方領ともに加賀藩領とした。72年7月金沢県となる。なお旧幕府領は71年高山県に分かれたが,72年11月七尾県として併合され,73年9月石川県に編入された。

 能登国の総石高(内高)は1646年(正保3)約22万5000石,1872年約30万5000石であった。加賀藩の行政は,奥郡(珠洲郡,鳳至郡)と口郡(鹿島郡,羽咋郡)にそれぞれ郡奉行が置かれ,所口(ところぐち)(七尾)は町奉行が支配した。ただし能登全体の宗門改め,他国出の船切手,奥郡の盗賊改めなどの治安行政は所口町奉行が管轄した。特産物としては,揚浜式製塩が1627年(寛永4)以来藩の塩専売制度の下にあり,17世紀後期は年々約22万俵(5斗入り),明治初年は約50万俵を生産した。海産物が豊富でサバ,ブリ,タラ,イカ,アワビ,ナマコなどが捕れた。ほかに輪島のそうめん,漆器(輪島塗),剣地(つるぎじ)の針金,中居の鉄釜,福野のかんぴょう,能登部の苧絈(おがせ)(カラムシの糸を輪にしたもの),縮布,宝達(ほうだつ)山の金山(初期),薬草などが挙げられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「能登国」の意味・わかりやすい解説

能登国
のとのくに

石川県北部、能登半島の大部分を占める旧国名。略称能州(のうしゅう)。北陸道に属し、南は加賀、越中(えっちゅう)両国に接する。国郡制施行の際越前(えちぜん)国に属し、718年(養老2)越前国の羽咋(はくい)、能登、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)の四郡を割いて能登国が置かれた。前二者を口郡(くちごおり)、後二者を奥郡(おくごおり)という。以後この四郡構成に変化はない〔能登郡は中世に鹿島(かしま)郡と改称〕。

 741年(天平13)越中国に合併されたが、757年(天平宝字1)旧に復し能登国が分置された。国府は七尾(ななお)市古府(ふるこ)町に置かれ、国分寺には定額(じょうがく)寺の大興(たいこう)寺が転用された。

 古代において、能登は東北地方の蝦夷(えぞ)経営の前進基地ともなり、また渤海(ぼっかい)、高句麗(こうくり)の使節の往来に伴い、対外交渉の要地でもあった。『延喜式(えんぎしき)』(927)には、名神(みょうじん)大社の気多(けた)神社および小社42座がみえる。貢納物には調(ちょう)として綾(あや)・絹・熬海鼠(いりこ)・海鼠腸(このわた)、庸(よう)として白木韓櫃(しらきのからびつ)・綿、中男(ちゅうなん)作物として席(むしろ)・薦(こも)・漆(うるし)・胡麻油(ごまあぶら)・雑魚腊(きたい)・鯖(さば)などがあった。なお、748年越中守大伴家持(かみおおとものやかもち)が出挙(すいこ)督励のため能登四郡を巡回したことは有名。

 平安末期、能登は平氏一門の知行(ちぎょう)国となったが、1183年(寿永2)源義仲(よしなか)の挙兵に応じて土田、得田(とくだ)、武部(たけべ)らの在地武士がこれに加わった。鎌倉・南北朝時代には、名越(なごえ)、吉見、桃井(もものい)、畠山(はたけやま)氏らが守護となり、畠山氏は室町時代にも守護職(しき)を世襲した。畠山氏は、やがて七尾城を築いて戦国大名へと発展したが、1577年(天正5)上杉謙信(けんしん)に滅ぼされた。

 1581年能登は織田信長の制するところとなり、前田利家(としいえ)が1国を知行した。次男利政(としまさ)が能登1国21万石を継承したが、関ヶ原の戦いで西軍にくみしたため改易され所領は兄の加賀藩主利長に与えられた。その後、国内の領地の一部は土方雄久(ひじかたかつひさ)領を経て幕府領となったが、1722年(享保7)には加賀藩への預地となった。能登の惣高(そうだか)は、1634年(寛永11)約21万7000石、1711年(正徳1)約27万2000石。1871年(明治4)には石高(こくだか)は変わらず、戸数4万8465、人口24万1426であった。

 日本海に突き出た地形の能登は、古来海産物に恵まれ、鯖、烏賊(いか)、鮑(あわび)、海鼠(なまこ)などが特産となっている。また、塩の生産も多く、藩政時代には専売品に指定された。このほか輪島塗(わじまぬり)、輪島そうめん、中居(なかい)の鋳物〔穴水(あなみず)町〕なども有名である。

 1871年廃藩置県により七尾県となり、翌年には石川県に編入された。

[東四柳史明]

『下出積与著『石川県の歴史』(1970・山川出版社)』『若林喜三郎監修『石川県の歴史』(1970・北国出版社)』『若林喜三郎編著『加賀・能登の歴史』(1978・講談社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「能登国」の解説

のとのくに【能登国】

現在の石川県能登半島のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の七尾(ななお)市におかれていた。平安時代末に平氏知行国(ちぎょうこく)となるが、室町時代には畠山(はたけやま)氏守護職を世襲、やがて七尾城を中心に戦国大名となった。戦国時代末期には前田氏の領有となり、金沢藩支配のもと幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により金沢県と高山県に分かれ、翌年に七尾県として併合。1872年(明治6)に石川県に編入された。◇能州(のうしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「能登国」の意味・わかりやすい解説

能登国
のとのくに

現在の石川県北部。北陸道の一国。中国。『旧事本紀』には能登国造,羽咋 (はくひ) 国造が記されている。初め越前国に属したが,養老2 (718) 年4郡をさいて能登国をおいた。天平 13 (741) 年には越中国に併合されたが,天平宝字1 (757) 年再び一国となった。国府,国分寺ともに七尾市国分町。『延喜式』には羽咋,能登,鳳至 (ふけし) ,珠洲 (すす) の4郡があり,『和名抄』には郷 27,田 8205町が記されている。鎌倉時代には北条氏,南北朝時代には吉見,桃井氏が守護となったが,同時代末期以降室町時代を通じて畠山氏が守護として支配。戦国時代には上杉氏,次いで織田信長が支配し,のち前田利家が封じられ,江戸時代を通じて前田氏が支配した。明治4 (1871) 年金沢県となり,同5年石川県に編入。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「能登国」の解説

能登国
のとのくに

北陸道の国。現在の石川県北部。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では羽咋(はくい)・能登・鳳至(ふけし)・珠洲(すず)の4郡からなる。718年(養老2)越前国から分置。741年(天平13)越中国に併合,757年(天平宝字元)再び能登国として立国。国府・国分寺は能登郡(現,七尾市)におかれた。一宮は気多神社(現,羽咋市)。「和名抄」所載田数は8205町余。「延喜式」では調庸として海鼠(なまこ)・絹・白木韓櫃(からびつ)・綿などを定める。平安末期に平氏の知行国となり,鎌倉時代には守護として名越氏が知られる。室町時代には能登畠山氏が守護をつとめ戦国大名に成長した。江戸時代はほぼ金沢藩領,一部幕領。1871年(明治4)の廃藩置県により金沢藩領は金沢県,幕領は高山県となり,まもなく七尾県となったが,72年すべて石川県に編入。

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百科事典マイペディア 「能登国」の意味・わかりやすい解説

能登国【のとのくに】

旧国名。能州とも。北陸道の一国。現在の石川県北部。718年越前(えちぜん)国から分置,741年越中(えっちゅう)国に併合,757年再置。《延喜式》に中国,4郡。中世後期畠山氏,次いで上杉氏の勢力下にあり,近世初期前田氏(金沢藩)の所領となる。→能登半島
→関連項目石川[県]中部地方

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世界大百科事典(旧版)内の能登国の言及

【越中国】より

…越中の国名の初見は《続日本紀》大宝2年(702)3月甲申条で,〈越中国四郡を分け,越後国に属す〉と見え,このとき頸城郡以北の4郡が越後国につけられて両国の国境が定まった。741年(天平13)12月能登国が当国に合併されたが,757年(天平宝字1)5月に再び分置され,射水(いみず),礪(砺)波(となみ),婦負(ねい),新川(にいかわ)の4郡を管する越中国の領域が確定した。《延喜式》に上国とあるが,上国と定められたのは804年(延暦23)で,それ以前はすでに上国なみの官制を適用されてはいたが,等級としては中国であったらしい。…

※「能登国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」