越後国(読み)エチゴノクニ

デジタル大辞泉 「越後国」の意味・読み・例文・類語

えちご‐の‐くに〔ヱチゴ‐〕【越後国】

越後

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日本歴史地名大系 「越後国」の解説

越後国
えちごのくに

北西は日本海に面し、北は出羽国、東は陸奥国・上野国・信濃国、南西は越中国に接する。

古代

〔国の成立〕

当国は大和政権からは「越」「越度嶋」とよばれ、蝦夷地と接する地域と認識されていた。越国成立以前、崇神朝には「道君同祖、素都乃奈美留命」が「高志深江国造」に、「大和直同祖御戈命」が「久比岐国造」になったことが「国造本紀」にみえる。大化改新後越国こしのくにが成立するとその北部を占めた。また大和政権の北上の前進基地となり、大化三年(六四七)渟足柵ぬたりのきが造られ、柵戸が置かれた。翌四年には磐舟柵いわふねのきを治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選び柵戸が置かれた。磐舟柵は文武天皇二年(六九八)には越後国、同四年には越後・佐渡両国により修営されている。斉明天皇四年(六五八)四月には阿倍臣が船師一八〇艘を率いて蝦夷を討ち、渟代のしろ・津軽の郡領を定め、七月には渟足柵造大伴君稲積に小乙下の位が授けられた。また同年「越国守阿倍引田臣比羅夫」が粛慎を討って熊皮などを朝廷に献上している。同五年三月、同六年三月にも阿倍臣は船団を率い、蝦夷と戦った。越国の北端はこのような阿倍比羅夫の遠征により漸次北上した。天武天皇一一年(六八二)四月二二日、越の蝦夷伊高岐那らは俘人七〇戸をもって一郡とすることを請い、許された(以上「日本書紀」)。この一郡は評をさすもので、正確な評名は不明である。

越後国の成立は、越前・越中・越後三国の分立が同時とすると持統天皇三年(六八九)七月から同六年九月の間と推定される。この時の国の南限は信濃川・阿賀野川の河口付近であろう。国名の初見は「続日本紀」文武天皇元年一二月一八日条で、「賜越後蝦夷狄物、各有差」とみえる。大宝二年(七〇二)三月一七日越中国の四郡を分ち越後国に属することとした(同書)。この時当国に入ったのは頸城くびき古志こし魚沼いおぬ蒲原かむはらの四郡で、越後国の南端は信濃国、南西端は越中国新川にいかわ郡に接することとなった。同書同年四月一五日には筑紫七国と越後国から采女・兵衛を選び差出させたとある。和銅元年(七〇八)九月二八日新たに出羽郡が建てられ、同五年九月二三日出羽郡は越後国から独立し出羽国となった(同書)。これにより北限は磐船郡となり、国の南北限が確定した。以後弘仁一一年(八二〇)の「弘仁式」と貞観一三年(八七一)の「貞観式」の施行の間に古志郡より三島みしま郡が分立し、磐船・沼垂ぬたり・蒲原・古志・三島・魚沼・頸城の七郡となった。天平一五年(七四三)二月一一日佐渡国を合併、天平勝宝四年(七五二)一一月三日再び佐渡国を分立。

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改訂新版 世界大百科事典 「越後国」の意味・わかりやすい解説

越後国 (えちごのくに)

旧国名。北陸道に位置する上国(《延喜式》)。現在の佐渡を除く新潟県に当たる。

大化改新以後つくられた越(こし)国の蝦夷に接触している地域で,7世紀の半ば阿倍比羅夫が蝦夷経営に活躍し,渟足(ぬたり)柵磐舟(いわふね)柵がつくられた。7世紀末には越前,越中,越後の3国に分かれた。このころの北限は不明であるが,沼垂(ぬたり),石船2郡がある。南限は信濃川河口と考えられるが,702年(大宝2)越中国より頸城(くびき),魚沼,古志,蒲原(かんばら)4郡が越後国に編入された。708年(和銅1)出羽郡が設置され,征越後国蝦夷軍がおこされ,712年出羽郡は分割されて出羽国となり,当国の北限が決定された。以後出羽,陸奥両国の征夷軍の支援地域となった。743年(天平15)佐渡国を併合したが,752年(天平勝宝4)に再び分離した。のちには古志郡から分立した三島(みしま)郡が加わっている。《和名抄》では7郡,33郷,水田は1万4997町5段207歩と見える。古代の国府,国分寺は頸城郡にあり,直江津説や妙高市の旧新井市,上越市の旧板倉町説など多くの説があるが,その所在は確認されていない。駅路は越中国より通じ,駅は滄海(あおうみ),鶉石(うずらいし),名立,水門,佐味,三島,多太,大家,伊神,渡戸とつづき,港として蒲原津があった。正税,公廨稲(くがいとう)は《弘仁式》では各31万束,《延喜式》では各33万束,《和名抄》では各33万0045束である。《延喜式》によると,調は白絹10疋・絹・布・鮭,庸は白木韓櫃10合・狭布・鮭,中男作物は黄蘖(きはだ)・布・紙・漆・鮭内子・氷頭(ひず)・背腸(みなわた)である。式内社は頸城郡13社,古志郡6社,三島郡6社,魚沼郡5社,蒲原郡13社,沼垂郡5社,磐船郡8社,このうち伊夜比古神社のみが名神大社でそれ以外は小社である。封戸は東大寺200戸,法花寺50戸があり,荘園は西大寺領,東大寺領があり,12世紀には院領,八条院領,六条院領,鳥羽十一面堂領,高松院領,前斎院領,上西門院領,穀倉院領,新釈迦堂領,殿下渡領,二位大納言領,賀茂社領などがあった。
執筆者:

阿賀北(下越地方)を中心に越後一国に勢力をはっていた城氏が,源平の争乱のなかで没落し,越後が源頼朝の手に移ったことは,その後の越後史を決定づけた。頼朝の得た越後での権益は知行国主の地位と,平氏方=城氏の没落した領地を処分する権利とであった。頼朝は安田義賢を国司に,守護には佐々木盛綱など有力御家人を任じて越後の国政をにぎった。頼朝の没後,幕府内で北条氏が有力化するにつれて守護職は北条義時を経て一門の名越氏に伝えられ,国司も名越氏の併任を経て,北条一門に伝えられた。国内の各所領でも関東御家人が,没落した城氏の旧領で地頭に任命されたことによって続々移住してきた。移住してきた関東御家人は,岩船郡小泉荘に平姓秩父氏,北蒲原郡奥山荘に三浦和田氏,同郡加地荘に佐々木盛綱の子孫,白河荘には大見氏というように,いずれも頼朝の幕府創業を助けた御家人たちであった。彼らの一族が越後の地に移り,惣領を中心に領内の在所に家や屋敷をかまえ,みずからも開墾につとめながら,所領の維持と拡大をはかった。惣領は幕府から地頭職に任ぜられ,幕府への奉公には一族を指揮してこれにつとめた。惣領は子孫に所領を譲るとき,次代の惣領に譲る分のほか,庶子たちにも所領を分与したから所領の零細化が生じた。こうしたことから,隣接諸氏との抗争のほか,一族内でも領地をめぐる相論が頻発した。こうした傾向の増大が幕府の処理能力を超えたとき,北条氏の鎌倉幕府は終末を迎える。

 北条氏没落後の越後は,倒幕の中心の一人新田義貞の手に移ったが,建武政府が短期間で滅んでからは,足利尊氏の側に移った。尊氏は関東を重視して,鎌倉府を置き基氏を鎌倉公方に,上杉憲顕,高師冬を関東管領に任じた。憲顕はまた,越後守護職にも任じられ,その子孫が越後守護を継いだので,室町期を通じて越後は関東と深い関係をもち続けた。上杉氏の越後支配は,まず越後支配の中心である国府の掌握,国衙支配機構の掌握をてことして,鎌倉以来の守護領に加えて,南北朝内乱にさいして南朝方に立った武士の所領を没収したほか,国中に拡散していた国衙領を守護領にし,これをよりどころに,一国支配にのりだした。千屋(魚沼)郡国衙職,西古志三島之国衙,国衙内蒲原津および五十嵐保など,守護領のおおかたは国衙領であった。また,国内の有力寺社に寄進された守護領も多かったが,被官(家臣)にあてがった所も少なくない。守護勢力の中核を構成したのは長尾,飯沼,石川,千坂,市川などの被官である。越後の国務は彼ら守護直臣にゆだねられたし,国内各地の守護領も代官として彼らにあてられた。なかでも長尾氏は守護代の職と,古志・蒲原両郡をはじめとする越後七郡の代官(郡司)として大きな勢力を形づくり,国内の実務をとりしきったといってもよかった。室町期には長尾氏は3~4家に分家してその拠っていた郡衙支配を中核にして自身の在地領主化を進めつつあった。古志長尾氏の場合,同郡高波保がその基盤となっていたし,蒲原(三条)長尾氏の場合,大崎保や大槻荘などが基盤となった。そこでは,領内の武士たちが長尾氏の被官とされ,被官給与分があてがわれていた。こうして在地武士の被官化が進むことで,守護-守護代-郡代-被官-在地というような支配が実現していく。

 これに対し,豪族が根強く勢力をはったのは,守護のいた府内から遠く離れた阿賀北地方である。鎌倉末~南北朝期の争乱で,下越きっての雄族佐々木加地氏は宗家の没落をまねいていたが,一族のうちから新発田(しばた)氏のように内乱期に成長をとげた者も出ていたし,秩父一族,三浦和田一族はすでに鎌倉期に独立した諸家,前者の本庄,色部,後者の中条,黒川などの諸氏,白河荘でも水原,安田氏など,あげて勢力を増大させていた。国人領主と呼ばれる彼らは所領の分割相続制をやめて,単独相続制に移行し,一族・庶子は所領給分を与えられて被官化=家臣化が強められていた。こうして,守護の分身長尾氏の在地掌握と,独立性の強い国人領主との平衡関係が室町期の越後であった。

 この平衡を破ったのは,応仁の乱後,京から越後にひきあげた守護上杉氏である。上杉房能は,それまであった守護不入についてきびしい詮議を加えて,不入権を否定・制限する方針をうちだして,直接在地を掌握しようと試みた。それは,すでに領主化をとげてみずからが越後支配者の地位を望みはじめていた守護代とするどく対立することとなり,ついに1507年(永正4)守護房能は守護代長尾為景によって滅ぼされ,守護国主化の道はとざされてしまった。といっても守護代がただちに越後国主の地位,すなわち大名化を実現できたのではない。為景は房能の兄関東管領顕定,次いで守護方の諸家を滅ぼしたものの,まだ国内豪族層を家臣団に編みこむことはおろか,彼らを軍役動員にひきだすことさえ困難であった。豪族層も,ひとり守護代家が強大化するのをおそれ,為景の晩年には上条定憲ら守護方勢と結んで,反守護代勢力の結集をはかった。為景は晩年守護代の職を嫡子晴景に譲って二頭制をしいたが,国政の手づまりを打開するため,巨費を投じて朝廷からは逆徒平定の綸旨を,幕府からは大名の資格を得ることにつとめた。豪族層も,それぞれが家中の造反や,隣接どうしの反目・抗争などがあって,守護代家支配にかわる新たな政治勢力を生みだせないでいた。こうしたなかで,守護代家では為景の没後,晴景と弟景虎(上杉謙信)との間で勢力交替が起こり,48年(天文17)から謙信政権が誕生する。謙信は一族で最大の勢力をもっていた長尾政景を屈服させていちおう国内をかため,圧迫されて援を求めてきた北信濃諸氏をたすけて武田信玄と戦い,小田原の後北条氏に追われた関東管領上杉憲政を助けて関東に出兵した。この武田氏,後北条氏との抗争は,長期間におよぶ政治的・軍事的膠着状態となって謙信を翻弄した。この間に上洛すること2度,父兄と同じように巨費を費やして綸旨を得たり,憲政から上杉氏の名跡と関東管領職を譲与されたりした。名声や権威を高めることに成功したが,内政でも外交でも,それにみあった内実をともなっていたとはいいがたかった。国内で北越後豪族の本庄繁長が謙信に弓を引いたり,北条氏康や織田信長との同盟関係も得るところのないまま破綻したことなどはそうしたあらわれとみられる。晩年,北陸地方に転じてから新しい領地に番将を配置するなど統治政策を転換して,分国の掌握を強化した。75年(天正3)に家中の軍役帳を作成するなど,内政でも充実がみられるようになったやさきに78年3月謙信は急死した。

 謙信の死はただちに政権の分裂という結果となった。養子景勝と同景虎の跡目争いという形ではあったが,景勝にはその出身地上田の諸士,景虎には謙信政権では主流であった古志・蒲原勢力が中心となって景勝方と抗争した。御館(おたて)の乱とよばれる両勢力の抗争は2年後には景勝側の勝利となって終わり,景勝は,執政に直江兼続を起用してしだいに権勢を強化したが,景勝政権もまた試練を強いられた。まず,北陸の一向一揆を追って北上した信長軍は,越中の越後境にまで軍を進め,信濃からとあいまって越後に圧迫を加えていた。景勝にとっては生命線ともいえる越中の魚津城が陥落して,織田軍の越後侵入目前というときに,本能寺の変が起こって,景勝は救われた。景勝はただちに信濃などの領国化を進めたが,国内ではこの間に下越後の豪族新発田重家が離反した。重家は,信長,ついで豊臣秀吉と通じていたから,景勝はいやおうなく中央政権と関係をもつにいたった。秀吉政権が固まると,86年,景勝は上洛して秀吉に膝を屈し,戦国時代を通じて保ってきた独立大名の地位から,秀吉政権下の一地方大名となった。新発田問題の解決も秀吉の命によったし,隣国佐渡の統合も秀吉の指示であった。90年の小田原参陣をはじめ,高麗陣や伏見城の修理造営など普請に秀吉政権下での奉公が越佐の将兵に重くのしかかった。この間,景勝は本領確定,新領地の給与と軍役の定量化を通じて家臣団の統制掌握を強め,要衝の直轄化,在番制の展開によって国内統治をすすめた。こうして,かの阿賀北の豪族層さえもが家臣化の度を強め,同時に各豪族内における下剋上の動きも秀吉の命による相次ぐ軍事動員のなかで霧散してしまった。97年(慶長2)1月秀吉は景勝とその家中を陸奥会津に転封を命じ,国主景勝をはじめ,鎌倉御家人の系譜をひく豪族層もこぞって越後の地を去って,越後の中世は終りを迎えた。
執筆者:

1598年上杉景勝のあとに北ノ庄(現,福井市)から堀秀治が春日山に入城して越後の近世史が始まる。越後国知行高45万石。秀治は与力大名として村上頼勝(村上藩),溝口秀勝(新発田藩)を従えたが,いずれも豊臣取立て大名であった。秀治は同年1反360歩の中世的田制ながら太閤方式で領内総検地を行い,1600年には会津から侵入した上杉軍およびこれに呼応した越後一揆上杉遺民一揆ともいう)を平定して,関ヶ原戦の前哨戦に徳川氏に忠勤を尽くした。一揆平定はまた残存する地侍層を掃討したことで兵農分離の完成を意味する。ついで新たに福島(上越市)に巨大な平城を構築し城下町を建設した。以上のようにして越後の近世史が開幕した。10年,堀氏のあと家康の第10子松平忠輝が入封,ここに徳川氏の支配が始まる。幕府は14年東北13大名に高田城を築かせ,北国の固めとして忠輝をここに入れたが,16年(元和2)忠輝の行状に不遜なものがあるとして改易,その遺領を幕領および高田,長嶺,藤井,長岡,三条の5藩に分かち,ここに小藩分立時代が到来した。その後,廃藩と削封と新藩設置の中で幕領が拡大し,幕末には1奉行所(新潟),3代官所(水原,出雲崎,川浦),5大名(桑名,会津,米沢,新発田,高田藩)預地の幕領と7旗本領,11藩および国外大名(一橋家と桑名,会津,高崎,出羽上之山,沼津の5藩)飛地領に分かれた。このうち新発田,長岡等は維新まで領主が安定していたが,高田,村上両藩は譜代大名の交代入封が激しく,その他もふくめ越後一国として領主の定着期は18世紀前半になった。

 近世大名は城郭を平地に築き,家臣を城下に集め,城下町を建設して藩領支配を行った。その典型は高田城で,石垣,天守閣こそないが,その巨大さは類をみない変型輪郭式近世大城郭である。町割りは京都にならい整然とした碁盤状をなすが要所には字型,字型,型の道路を取り入れて防衛上の欠陥を補った。町人は府内,福島,春日山等から移し,町単位に特権を与え(町座制),また外来商人が高田で小売することや,村方の商業を禁じ,城下付近を通る商人は必ず城下を通過させ,外来商品は必ず問屋におろさせたので,高田町は繁栄を極めた。長岡城も新たに築かれた連郭式城郭で,町人は旧城地の蔵王から移したので特権を与え,城下町商業を保護して村方商業を禁じた。しかし村上,新発田では中世城郭と城下町を取り込んだので城も不整形をまぬかれず,とくに村上は町まで土居と堀で囲んだ戦国的構造をとった。また町人の特権も高田ほど強いものではなかった。しかし城や城下町の規模は中世に比べると何倍も大きいもので,そこにも中世と近世の差を見いだすことができる。城下町の建設と並行して港町の建設も進められた。1616年領主堀直寄(なおより)は新潟港に課されていた関税および商人税,物品税等9種の諸税を廃し,翌年新町,洲崎町,材木町の建設を命じ,18年牧野忠成は他国商人の保護を令したので,城下町長岡の外港として西廻海運の成立とともに発展する礎石が築かれた。

 近世前期は潟沼や荒地が多かった。諸藩は財政基盤強化のため新田開発を推進,1598年越後国高45万石は1645年(正保2)には61万1960石,3170村,元禄年間(1688-1704)には81万6775石,3964村,天保年間(1830-44)には112万2555石,4051村,1868年(明治1)には114万9017石,4409町村と多大な成果を挙げた。前期新田開発として著名なものは頸城郡の大瀁(おおぶけ)新田・大潟新田,中江用水開削であるが,新潟平野も土豪・村請・給人・代官見立方式で開発が進んだ。農村の生産力の発展をうけてとくに新発田,村上領に六斎市が開かれ,在郷町が成立した。新発田藩では在方の流通統制のため在郷町に特権を与えて保護した。現在までその伝統をひいて六斎市が亀田,白根,小須戸その他各地で繁盛している。

 貨幣経済の発達とともに幕府,諸藩は財政の窮乏に苦しみ改革を繰り返し,家禄の借上げ,豪農豪商からの調達金,京・大坂の蔵元からの借入れ,倹約の実施等によって財政再建をはかった。法典を整備して政治を正し(新発田藩の安永令,安永律),武芸を振興して士気をひきしめ,藩校を開いて教育を行った。新発田藩の道学堂,長岡藩の崇徳館が著名である。財政基盤の充実策として新田開発も促進された。1730年(享保15)将軍吉宗の享保改革の一環として阿賀野川河口の松ヶ崎掘割工事が行われ,紫雲寺潟新田が開発された。これは信州米子の竹前権兵衛が出願し,これに江戸の会津屋,柏崎の宮川その他の資本を投下して行ったもので,1736年(元文1)検地の結果では1647町歩の田畑を得た。また松ヶ崎を掘り割ったため同水系流域の排水が進み,福島潟縁新田が鉢崎の山本丈右衛門の手で開発され,つづいて水原町人や近辺村請で進められた。

 この時代は現代新潟県の特産物や地場産業が成立し,あるいは大きく成長した時期である。大郷,割野,亀田,新飯田にナシ産地が成立した。また村上,村松等の茶産地が発展した。麻織物は元禄年間幕府の御用縮として指定を受けたため魚沼地方で縮生産が振るい,十日町では文政年間(1818-30)宮本茂十郎が西陣の技法を伝えて絹麻交織が始まった。栃尾,五泉,山辺里(さべり)等にも絹織物産地が成立した。綿織物産地も亀田,吉田,一ノ木戸,白根等に成立し,東北方面に広く販売された。三条の金物や燕の釘の生産も発展し,関東・会津・信州方面に販売された。

 貨幣経済の進展の一方では水害の頻発,貢租の過重等が地主・小作制度を発達させた。市島,白勢等の巨大地主は数百町歩の田畑を集積し,多くの小作米を売買し,多額の御用金を領主に提供して武士の待遇を受け,新田開発に資金を投じた。多くの貧農たちは凶作や重税のたびに百姓一揆を起こし,その発生件数は全国第5位と称される。そのうちでも1722年頸城郡質地騒動,1814年(文化11)中・下越地方一帯に起きた打毀は有名である。貧農の生活は1789年(寛政1)三島(さんとう)郡来迎寺地方百姓一揆檄文に,〈髪はわらで結い,帯は縄を用い,食物はヒエであるので子供は弱々しい,灯火は油がないので夜は暗く,住居はむしろもない,冬はこたつも足袋もない〉と述べている。都市でも細民の増加から1768年(明和5)新潟湊騒動が発生し,1837年(天保8)生田万(よろず)は天保飢饉の窮民を救おうと柏崎陣屋を襲撃し,敗れて自刃した。

 豪農豪商の成長にささえられて,地方の文化が発達した。鈴木牧之は塩沢の縮商で家業のかたわら文雅を好み,江戸の山東京伝らと交わり,雪国の風土を《北越雪譜》にまとめ,小千谷の商人広川晴軒は自然科学を学んで《三元素略説》(1865)を著し,新津の大庄屋桂誉重(かつらたかしげ)は国学に親しみ鈴木重胤の門人となり《済生要略》を著した。私塾,寺子屋が発達し,百姓の子弟で学ぶ者も多くなった。

 18世紀ロシア船が北辺に出没するようになって海防論がやかましくなった。村上の人本多利明は1798年(寛政10)《西域物語》を著して西洋の事情を紹介,日本のとるべき立場を述べた。松田伝十郎間宮林蔵とともに樺太に渡り,1808年(文化5)間宮海峡を発見した。43年幕府は北海防御の台場を築くため新潟町を幕領とし,奉行所を設置した。天保改革の失敗と相まって物価は高騰し,世相は混乱し一揆がつづくなかで諸藩は海防の備えを強化した。1854年(安政1)日米和親条約が結ばれて鎖国体制は終わり,58年の日米修好通商条約で新潟は五港の一つとして開港された。60年(万延1)幕府は新発田藩の知行高5万石を10万石に直して新潟海岸警備を強化した。67年(慶応3)大政奉還,68年(明治1)戊辰戦争に長岡,村上藩は奥羽越列藩同盟に参加して敗れ(北越戦争),越後は新政府の支配下に入る。71年新潟県と柏崎県を設置。73年柏崎県を,76年相川県を,86年福島県東蒲原郡を新潟県に合併して現在に至る。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「越後国」の意味・わかりやすい解説

越後国
えちごのくに

現在の新潟県の旧国名。北陸道に属する。上国。佐渡は743年(天平15)越後国に併合されたが、752年(天平勝宝4)ふたたび一国に復した。北陸から出羽(でわ)地方以南は古くは越国(こしのくに)とよばれていた。これが越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、越後と3地区に分かれたのは7世紀末ころであった。このころの越後は阿賀野(あがの)川、信濃(しなの)川合流河口以北で、その北東部は蝦夷(えみし)の勢力に接し、境は不明確であった。大化改新後の大和(やまと)朝廷は、この国に647年(大化3)渟足柵(ぬたりのき)、648年に磐舟柵(いわふねのき)を設置し、蝦夷征圧の前進基地とした。702年(大宝2)には親不知(おやしらず)から阿賀野川までの越中4郡(頸城(くびき)、魚沼(いおぬ)、古志(こし)、蒲原(かんばら))を越後国に入れ、712年(和銅5)出羽国として成立した北部を除いて、越後の領域が形成された。

 706年(慶雲3)に威奈大村(いなのおおむら)が初代の越後国守に任ぜられ、ついで安部真君(あべのまきみ)が国守に任ぜられ、辺境越後の経営にあたった。越後での統治の中心、国府は、当初今府(いまぶ)(現妙高(みょうこう)市)に置かれ、その後国賀(こくが)の地に移り、さらに府中(ふちゅう)(現上越市)へと、関川を下って移動してきたと考えられている。

 東北地方から南下してきた武士の城(じょう)氏は、平安末期には越後一国を支配する棟梁(とうりょう)として成長した。源平争乱期には平氏一族の城氏は信濃の木曽義仲(きそよしなか)と対立、敗れて義仲が越後守(えちごのかみ)となった。その後源頼朝(よりとも)は越後を知行(ちぎょう)国として治め、佐々木盛綱(もりつな)が越後守護に任ぜられた。建武(けんむ)新政後は新田義貞(にったよしさだ)が越後守護として国内を領したが、南北朝争乱期、足利(あしかが)氏の任命した上杉憲顕(のりあき)は、越後新田氏などの南朝軍を破り北朝支配を強めた。

 奈良時代から越後の特産物であった越後布も室町時代には公式礼服に用いられた。原料の青苧(あおそ)も越後が特産地で、その売買を独占する青苧座の手により、柏崎(かしわざき)や府中から遠く京坂に運ばれた。1207年(承元1)親鸞(しんらん)が専修念仏(せんじゅねんぶつ)禁制によって越後国府に流罪になった。初期真宗教団は親鸞の越後での布教活動により成立した。1343年(興国4・康永2)上杉憲顕が越後守護になってから、越後国内は上杉氏の勢力が強まった。しかし、やがて家臣の長尾氏にとってかわられた。長尾為景(ためかげ)の二男、上杉謙信(けんしん)は、越後国内の抗争を押さえ、全盛時には佐渡、越中、能登(のと)の3か国や、加賀、越前、信濃、奥羽など12か国の一部にまで支配を広めた。謙信の殖産興業策・文化奨励策により産業、交通が発展し、京文化が流入した。

 1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉の命により、上杉景勝(かげかつ)が会津に移封され、そのあとに堀氏とその与力(よりき)大名が越後に入封した。江戸時代に入ると、大名の交代が激しく、幕末期には11の小藩に分立し、統一ある発展が阻害された。越後平野に残っていた多くの潟湖(せきこ)を含む低湿地は、近世期以降に各藩の干拓事業が地主、町人などの出資で行われ、急速に開発が進んだ。それに伴い村数も増加し、天保(てんぽう)期(1830~44)までに881村が成立、越後全体で4051村になった。こうした越後には、所有地1000町歩を超える巨大地主市島家、斎藤家、白勢(しろせ)家、田巻家などが輩出した。多くの耕地が藩領域を越えて地主経営下に置かれ、経済、社会、文化の各方面に地主の影響が強く及んだ。

 1672年(寛文12)以降、西廻(にしまわり)航路の発展とともに、新潟港(当時長岡藩領)は越後米の集散地として発展した。幕府は天保の改革(1841)の一環として新潟港を上知(あげち)し財政補強を図った。出雲崎(いずもざき)町出身の良寛(りょうかん)、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を著した塩沢(しおざわ)(南魚沼(みなみうおぬま)市)の鈴木牧之(ぼくし)などの文人や、尊王論を公家(くげ)に説いた竹内式部(たけのうちしきぶ)、重商主義的な経済政策を説いた本多利明(としあき)などが輩出した。

 1868年(慶応4)の北越戊辰(ぼしん)戦争は越後諸藩をも渦中に巻き込んだ。河井継之助(つぎのすけ)の率いる長岡藩は官軍に強く抵抗したが、ついに敗れ、旧藩府勢力は排除された。明治政府確立後、廃藩置県によって、新潟、柏崎などの県が設置された。現在の新潟県は、1871年(明治4)に新潟、柏崎両県および相川県が合併、さらに86年に福島県の一部、東蒲原(ひがしかんばら)郡との合併によって今日に及んでいる。

[中村義隆]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「越後国」の意味・わかりやすい解説

越後国
えちごのくに

今日の佐渡島を除く新潟県北陸道の一国。上国。もと越国の東北部にあたり,久比岐,深江,高志の国造が支配した。天武天皇のときに越国が三分されてその一つが越後国となったといい,大宝2(702)年,越中国から 2郡を編入。和銅1(708)年には出羽郡を分離。当国は蝦夷政策の前線として大化3(647)年には渟足柵が,翌年には磐舟柵が設けられた。国府は上越市塩屋,国分寺は同市春日。『延喜式』は石船(いはふね),三島(みしま),古志(こし),蒲原(かんはら),沼垂(ぬたり),魚沼(いをぬ),頸城(くひき)の 7郡を記載,『和名抄』には郷 34,田 1万4997町余とあるが,『色葉字類抄』『拾芥抄』では 2万3738町余に増加。また『延喜式』には越後布がみえ,越後縮(→小千谷縮)の先駆をなすものとされる。中世には荘園の貢納品として多量の縮布が生産されていた。鎌倉時代には比企氏佐々木氏に次いで北条氏の一族名越氏が,室町時代は上杉氏が守護。戦国時代には上杉謙信の活躍があり,越後国統一ののち信濃にも出兵し武田信玄と戦い,関東に入り後北条氏を攻め,越中を攻略し,能登,加賀に進んで織田信長と戦った。豊臣秀吉は謙信の養子上杉景勝を越後に封じ,慶長3(1598)年会津に移るまで支配。関ヶ原の戦い後は堀氏,溝口氏,近藤氏,村上氏が分割して統治した。江戸時代には初め松平忠輝 45万石の高田藩があったが,榊原氏 15万石に代わり,溝口氏の新発田藩,内藤氏の村上藩,堀氏の長岡藩など小藩に分割された。明治4(1871)年の廃藩置県では 7月に各藩が 10県となり,同年 11月に柏崎県と新潟県とに併合され,1873年,新潟県に統一された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「越後国」の解説

えちごのくに【越後国】

佐渡(さど)島を除く現在の新潟県の旧国名。古くは越(こし)国とよばれていたが、7世紀末に、越後国、越中(えっちゅう)国(富山県)、越前(えちぜん)国(福井県)に分かれた。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の上越市におかれていた。鎌倉時代の1207年(承元1)に親鸞(しんらん)が越後に流罪(るざい)となり、初期真宗(浄土真宗)教団がこの地で成立した。南北朝時代の1343年(康永(こうえい)2/興国(こうこく)4)に上杉氏守護となって以来同氏の領国支配が確立した。戦国時代にはその家臣長尾氏が勢力を伸ばし、長尾景虎(かげとら)(のち上杉謙信)が戦国大名として勢力を振るった。1598年(慶長(けいちょう)3)に上杉氏は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となり、以後、大名の交代が激しく幕末には11の小藩が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県により新潟県、柏崎(かしわざき)県の2県となったが、1873年(明治6)に合併して現在の新潟県となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「越後国」の解説

越後国
えちごのくに

北陸道の国。現在の新潟県(佐渡島を除く)。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では頸城(くびき)・古志(こし)・三島(みしま)・魚沼(いおの)・蒲原(かんばら)・沼垂(ぬたり)・石船(岩船)(いわふね)の7郡からなる。古くは越(こし)(高志・古志)国の一部をなし,7世紀後半に越後国として分立。当初の国域はのちの岩船・沼垂郡域のみであったが,702年(大宝2)越中国の頸城・古志・魚沼・蒲原4郡を編入。708年(和銅元)出羽郡を新設,712年これを割いて出羽国とした。743年(天平15)佐渡国を併合,752年(天平勝宝4)再び分離。9世紀に古志郡から三島郡が分立。国府・国分寺は頸城郡におかれたが,越後国成立当初の国府とともに所在地は未詳。伊夜比古(いやひこ)神社(現,弥彦村)・居多(こた)神社(現,上越市)が一宮とされる。「和名抄」所載田数は,1万4997町余。「延喜式」では調庸として絹・布などのほかに鮭を貢進する。平安後期から城氏が勢力をもち,守護は鎌倉時代には佐々木・名越(なごえ)氏ら,室町時代は上杉氏。戦国期には上杉謙信が越中・能登とあわせ領有したが,1598年(慶長3)上杉景勝が会津に転封され,以後小藩が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県の後,新潟県・柏崎県が設置され,73年柏崎県は新潟県に合併。

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百科事典マイペディア 「越後国」の意味・わかりやすい解説

越後国【えちごのくに】

旧国名。北陸道の一国。今の佐渡島を除く新潟県。もと越(こし)の国に含まれ,7世紀末に分立。《延喜式》に上国,7郡。中世末期に上杉氏が守護。1598年の上杉景勝転封後,堀氏,徳川忠輝の支配を経て幕府領と小藩の分立状態となる。→新発田藩
→関連項目奥山荘質地騒動中部地方新潟[県]

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