飯倉村(読み)いいぐらむら

日本歴史地名大系 「飯倉村」の解説

飯倉村
いいぐらむら

[現在地名]児玉町飯倉

塩谷しおや村の西に位置し、北から西は宮内みやうち村。当地は中世の伊勢神宮領飯倉御厨跡として県指定旧跡になっている。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)五月三日条によれば、源頼朝が朝家安穏・私願成就のために伊勢皇大神宮内宮に「武蔵国飯倉御厨」を寄進し、給主は内宮一禰宜の荒木田成長であった。建久三年(一一九二)八月に作成された伊勢大神宮神領注文写(神宮雑書)では「鎌倉御厨」と誤記されているが、内宮に長日御幣を勤仕する御厨であった。「神鳳鈔」には内宮の長日御幣を負担する御厨として五〇町の田数と、「当時四貫文」という記載がある。「内宮引付」文明元年(一四六九)条に収められている正月二六日の荒木田氏経書状写によれば、氏経は「飯倉上分」の徴納などを太田資清・資長父子に要請している。

飯倉村
いいぐらむら

現港区の北東部辺りから北方にかけての地域にあった村。中世の飯倉御厨・飯倉郷の遺称地。近世には芝増上寺を東辺にして西は麻布六本木あざぶろつぽんぎ辺りから永坂ながさか辺りまで、南はふる川岸、北は西久保にしくぼ辺りまでの地域であったと思われる。徳川家康入国後漸次武家地・寺社地になり(「風土記稿」・文政町方書上)、田園簿では飯倉村高一四九石余、うち田方六三石余・畑方八五石余、幕府領。元禄一〇年(一六九七)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では飯倉町として高九四石余。

飯倉村
いいぐらむら

[現在地名]八日市場市飯倉・飯倉台いいぐらだい

富岡とみおか村の南に位置する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属し、飯倉郷とよばれた。在地領主として千葉氏族の椎名氏が知られる。神代本千葉系図は椎名胤高の子息に飯倉太郎胤秀を載せ、同十郎胤春へと継いでいる。台谷だいさくには飯倉城跡がある。土塁に囲まれた多郭の遺構が残り、飯倉椎名氏の居城と伝える(「椎名氏歴代譜」椎名家文書)

飯倉村
いいぐらむら

[現在地名]阿見町飯倉

西は上条じようじよう吉原よしわら両村、北は清明せいめい川を隔ててはなわ村。天正一八年(一五九〇)蘆名氏領、慶長一一年(一六〇六)仙台藩領となり、同年三月三日の常州伊達氏領地知行目録(伊達家文書)に「弐百参拾壱石七升 飯倉」とある。元禄一六年(一七〇三)の村鑑明細帳(石引家文書)によると惣高は二六一石五斗余で、うち田方は二一八石九斗余、面積一九町三反余、畑方は四二石六斗、面積七町一反余。本百姓二八軒・水呑四軒、人数一八一(男一〇七・女七四)、馬一八。

飯倉村
いいぐらむら

[現在地名]玉村町飯倉

からす川左岸で、西は川を隔てて川井かわい村、北は日光例幣使街道の北側で箱石はこいし村・小泉こいずみ村と接する。東は須賀すが沢を境に沼之上ぬまのうえ村。佐渡奉行街道が通る。斉藤家、船問屋を経営した清水家を軸に、川井村より分村したと思われる。元禄郷帳では高一九七石余、前橋藩領。元禄二年(一六八九)検地帳(斉藤文書)では反別田六町九反余・畑一一町七反余、戸数四四。近世末も同藩領(旧高旧領取調帳)。天明六年(一七八六)の大洪水では流失二〇軒・水入一八軒の被害を受けた(松平藩日記)。斉藤家一族の墓地入口の墓地移転由来碑には、宝暦一三年(一七六三)現在地に移転したとある。建碑者は五名の斉藤氏で、この五軒は現在でも五軒組と称する。

飯倉村
いぐらむら

[現在地名]北勢町飯倉

阿下喜あげき村の北、員弁川支流の貝野かいの川の北、同支流の田切たぎり川の東に位置する。江戸時代は桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)では「上木(阿下喜)内」、元禄郷帳・天保郷帳では「阿下喜村枝郷」と注があり、阿下喜村から分離・独立した村である。文政七年(一八二四)の村明細帳(徳川林政史蔵)によると、戸数二一、人数九〇(男四五・女四五)、牛一三、馬一。神祠氏神・山神とある。同一〇年の桑名領郷村案内帳では鎮守は八幡宮寺院地高じこう寺とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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