頓別村(読み)とんべつむら

日本歴史地名大系 「頓別村」の解説

頓別村
とんべつむら

[現在地名]枝幸えさし浜頓別町字浜頓別・字頓別・字豊寒別とよかんべつ・字斜内しやない・字日の出ひので・字戸出といで・字安別やすべつ・字共和きようわ・字山軽やまがる・字下頓別・字高砂たかさご・字宇曾丹うそたん・字大金おおがね・字宇津内うつない・字茂宇津内もうつない・字金ヶ丘かねがおか・字常盤ときわ・字かえで・字仁建内にたちない・字上茂宇津内かみもうつない・字ポン仁達内にたちない中頓別なかとんべつ町字中頓別など

明治一一年(一八七八)一〇月に成立し、同四二年まで存続した枝幸郡の村。現在の浜頓別町・中頓別町にあたる。一七九八年(寛政一〇年)の谷口青山沿岸図(市立函館図書館蔵)に「トンヘツ」とあり、「西蝦夷地日記」に「トンベツ」として蝦夷家一二軒・男女六七人などと記される。

頓別村
とんべつむら

大正五年(一九一六)枝幸えさし村から分村して成立した枝幸郡の村。現在の浜頓別町・中頓別町にあたる。成立と同時に二級町村制を施行した(北海道道庁告示第二一四号)。明治四五年(一九一二)二月、宗谷線が頓別原野を通過することが決まると同原野への移住者が急増した。大正四年末の頓別原野への移住民は農業一一一戸・五〇三人、商業二五戸・一〇五人、鍛冶業一戸・四人、土工一一戸・四〇人、木材業一戸・四人、その他四戸・一六人であった(宗谷支庁管内要覧)開拓が進むなか、大正二年九月に頓別地区選出の枝幸村村会議員、村民有志によって「北見国枝幸郡枝幸村ヲ分村シ二級町村制役場ヲ設置セラレンコトヲ謹而請願仕候」という頓別村の分離独立を求める請願書が枝幸村村長に提出された。

頓別村
とんべつむら

大正一〇年(一九二一)から昭和二六年(一九五一)までの村。枝幸郡に属する。大正一〇年四月に中頓別村を分村。分村当時の戸口は一千二〇八戸・六千八二六人(浜頓別町史)。頓別村と中頓別村との境界は、頓別川とシュブンナイ川との落合基点とし、東はシュブンナイ川をさかのぼり水源山脈の分水嶺から枝幸村界までの線、西は頓別川を下り、頓別原野二五線・二六線間にある無名川をさかのぼり水源の分水嶺から天塩郡界に至る線とされた(道庁告示)。役場庁舎は字頓別原野一五四―一五五番の地となり、大正一〇年一月に落成した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報