枝幸村(読み)えさしむら

日本歴史地名大系 「枝幸村」の解説

枝幸村
えさしむら

[現在地名]枝幸郡枝幸町目梨泊めなしどまり問牧といまき幸町さいわいちよう梅ヶ枝町うめがえちよう本町ほんちよう下幌別しもほろべつ栄町さかえちよう岬町みさきちよう北浜町きたはまちよう三笠町みかさちよう北幸町ほつこうちよう新港町しんこうちよう宇遠内うえんない南浜町みなみはまちよう北栄町ほくえいちよう新栄町しんさかえちよう

明治一一年(一八七八)一〇月に成立し(大小区画沿革表)、同四二年まで存続した枝幸郡の村。近世ソウヤ場所のうちで「ヱサシ領」などとみえる。「状況報文」などによると南西歌登うたのぼり(現歌登町)北西頓別とんべつ村、東は海に面する。枝幸港は小汽船二、三艘が停泊できる規模で、大船は入港できなかった。明治五年九月、開拓使宗谷支庁が設置されると、当地に枝幸出張所が置かれた(明治八年廃止)。明治五年の戸口は三六戸・一五三人(枝幸町史)。同一八、九年頃より移住者が増え、同二四年九月宗谷枝幸両郡戸長役場から分離し、枝幸外三ヶ村戸長役場が設置された。

枝幸村
えさしむら

明治四二年(一九〇九)から昭和二二年(一九四七)まで存続した枝幸郡の村。明治四二年四月、枝幸郡に属する枝幸・礼文れぶん歌登うたのぼり頓別とんべつの四村が合併して成立し、同時に二級町村制を施行した。成立時の戸口は二千二八五戸・六千二〇九人(枝幸町史)。大正五年(一九一六)四月に頓別村、昭和一四年九月に歌登村が分村。大正一二年四月、一級町村制を施行。同年の戸口は一千七〇二戸・九千一一五人(同書)。産業の中核である漁業は大正時代に鰊漁の好不漁を繰返しながら衰退し、カニ缶詰工場の水産加工業が定着するようになった。枝幸砂金と称される賑いをみせた砂金採取は大正初期にわずかに行われたにすぎなかったが、昭和五年パンケナイ三角点で発見された金鉱採掘に着手。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報