日本大百科全書(ニッポニカ) 「隋」の意味・わかりやすい解説
隋
ずい
中国の王朝(581~618)。南朝の陳を征服して、4世紀以来の南北の政治的対立に終止符を打ち、中国周辺にも勢力拡大に努めたが、短命に終わった。隋の国名は、創建者楊堅(ようけん)(後の文帝)が隨(ずい)国公であったことに由来する。通説では、辶は走るに通ずるところから、政権の安定を願って、隨字から辶を取り去ったのだというが、当時の碑文などには隨字も使われている。
[谷川道雄]
隋朝の興起
隋の帝室楊氏は、漢代以来の名族として名高い弘農郡(河南省霊宝県)の楊氏の出身と称するが、真偽のほどはさだかでない。確実な記録では、祖先は北魏(ほくぎ)時代、長城北辺の武川鎮(現、内モンゴル自治区フフホト市北方)で国境防衛にあたっていた軍人の家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい。楊堅の父、忠は、宇文泰らとともに西魏政権を創建、府兵制の起源をなす二四軍の大将軍を務めた。堅は541年に生まれ、武人貴族の子弟にふさわしい北周の官界コースを進み、近衛(このえ)軍の司令官となった。その長女が北周宣帝(宇文贇(うぶんいん))の皇后となったことから、宣帝時代には外戚(がいせき)として枢要の地位にあった。暴君宣帝が崩ずると、側近官僚グループが遺詔を偽作して、堅に幼帝を後見させたので、堅は丞相(じょうしょう)となり、反対者の挙兵を鎮圧して、隋朝を創建した。
[谷川道雄]
開皇の政治
文帝の治世は、開皇(581~600)と仁寿(601~604)の二つの年号からなる。開皇時代は、高熲(こうけい)、蘇威(そい)らの名相を重用し、文帝自身も政治に精励したのでよく治まり、開皇の治と称される。この時期には、行政・軍事の両面で、中央集権を強化する多くの画期的政策を実行した。なかでも最大の事業は、南朝陳の征服である。南朝ではすでに梁(りょう)末に揚子江(ようすこう)中・上流域を北周に奪われ、隋がこれを継承したので、陳は揚子江下流域一帯を根拠とするにとどまっていた。隋がこれを併呑(へいどん)して全国を統一するのは、いまや時の必然であった。隋は晋王(しんおう)広(後の煬帝(ようだい))を行軍元帥(派遣軍総司令官)とし、高熲の作戦指導の下に、588年陳領に侵入し、翌589年その首都建康(現、南京(ナンキン))を占領して陳を滅ぼした。ここに中国は3世紀ぶりに統一された。しかし隋の統一政策は単に政治上の統一支配にとどまるものではなかった。門閥勢力が伝統的に保有してきた社会的・政治的自力性を弱め、中央政府の一元的な統治組織を整備することに力が注がれた。すでに583年、州・郡・県の三級制であった地方行政制度を州・県の二級制に整理して、中央政治の貫徹を図った。時を同じくして、地方名望家(門閥)がその本籍地で地方官に任ぜられる慣行であったのを改め、地方の幹部官僚には中央から派遣することにした(郷官廃止)。この施策は門閥貴族と地域社会の結合を断ち切る意図も含んでいた。さらに文帝は、これまで門閥本位に陥っていた九品(きゅうひん)官人(中正)法を廃止して、画期的な科挙制を創設した。また、陳平定直後、従来兵籍に入れて一般の州県民と区別していた府兵を一般民籍に編入し、兵民一致の方式に改めたのも、中央集権政策の一環であった。そのほか、地方名望家の社会事業にゆだねられがちであった凶年対策に手をつけ、義倉の制度を創設した。均田制や租庸調(そようちょう)の制度も整備されて、唐代に完成される律令(りつれい)体制の基礎が固められた。文帝は倹約に努め国力の充実を図ったので、その治世二十数年の間に国家は富強となった。陳平定当時400万余にすぎなかった民戸は急速に増加して、煬帝朝の609年には890万余戸に至った。
[谷川道雄]
煬帝時代
しかし、このような堅実な政治の方向も、開皇の終わりころから動揺し始める。長年文帝を支えてきた高熲らのグループに対して、中傷非難する声が高くなり、彼らは次々に失脚した。一方では、晋王広とその側近の策謀が功を奏して、文帝は皇太子勇を廃し、広を皇太子にたてた。政治の流れの変化は、このとき文帝が年号を仁寿と改めたことにも示されている。やがて文帝は病没した。広が帝を毒殺したという説があるが、確実な証拠はない。
広は604年即位したが、豪奢(ごうしゃ)を好む人物で、その意志を思いのままに実行していった。その欲望に発したさまざまの事業が、結果的に後世に貢献した例も少なくない。首都長安のある関西地方(渭水(いすい)盆地)は、西魏・北周以来の政権の中心地で、文帝も長安に大興城を営んだが、全国的にみれば質実であるが、経済、文化のうえでは後進地域である。煬帝の志向はもはやそこにはなく、旧北斉地域の華北東部や旧南朝地域の江南の先進性に心をひかれた。即位すると、洛陽(らくよう)に都城を営んで東京(とうけい)と名づけ、また大運河の開削に着手した。すでに文帝のとき宇文愷(うぶんがい)に命じて渭水を引き大興城から潼関(どうかん)に至る広通渠(きょ)を開き、また淮河(わいが)と揚子江を連結して邗溝(かんこう)(山陽涜(さんようとく))を開いたが、煬帝は洛陽の洛水、穀水を黄河に引き入れ、黄河と淮河を結び(通済渠)、数年後にはさらに黄河から涿(たく)郡(現在の北京(ペキン)地方)に達する永済渠、揚子江からさらに南して会稽(かいけい)に至る江南河を開通させた。邗溝の南端に位置する江都は煬帝のもっとも愛好した離宮で、このほかに全国に40余か所の離宮を置き、絶えずこれらの離宮に行幸して、皇帝の威容を示した。ことに東京から江都に至る、運河を利用した行幸は、後宮、文武百官、僧尼道士、外国使臣および国軍からなる膨大な集団の移動で、「舳艫(じくろ)相接すること二百余里(1里は約400メートル)」といわれ、その壮観なことは史上に前例がない。
[谷川道雄]
対外経略
文帝の江南征服と煬帝の大運河開削とは、中国の南北両地域をしっかりと結び付けた二大事業であった。その成功は当然周辺の諸民族との接触を深くした。陳の平定によって嶺南(れいなん)の酋豪(しゅうごう)洗氏が来降し、隋はこれを足掛りに広西の少数民族制圧の兵を出した。北方では強盛を誇る突厥(とっけつ)が隋の建国時に大軍を入寇(にゅうこう)させたが、隋はその内訌(ないこう)を利用して離間策をとり、一時その分裂・弱体化に成功した。その一派啓民(突利)可汗は隋に帰順し、文帝は安義公主を降嫁して懐柔を図った。煬帝時代になると対外経略はいよいよ積極化し、流求(現在の台湾といわれる)を征服し、赤土国に朝貢を促した。609年には高昌・伊吾などの西域(せいいき)諸国を服属させ、また吐谷渾(とよくこん)には帝自ら親征してこれを降(くだ)した。このころが隋の最盛期であり、日本から遣隋使を送ったのもこの時点である。しかし東北方面、とくに高句麗(こうくり)は突厥と通交しており、その服属はまだ十分ではなかった。中国皇帝として絶対の権威を誇る煬帝は、その完全な制圧を企てた。611年2月、高句麗征討の詔を下し、国軍の130万の総動員を命じた。帝自ら親征して遼河(りょうが)を渡ったが、高句麗側諸城の守備は固く、大敗して帰国した。613年再度親征を試みたが、遼東城を攻めあぐね、一方前々年ころより激しくなっていた国内の反乱情勢がいよいよ重大となったので退却した。614年、第3回出兵を企てたが、もはや実行に至らず、一方、突厥が内乱に乗じてふたたび独立して強盛となり、615年には、北巡中の煬帝を雁門(がんもん)に包囲するなどの攻勢に出た。
[谷川道雄]
隋の滅亡
隋は内乱によって滅びるが、その契機となったのは、高句麗遠征である。611年の第一次出兵の際から、軍需物資の徴発や運搬に苦しむ河北一帯の民衆のなかに、逃亡して群盗となる者が相次いだ。「遼東に向かいて浪死する無かれ」の歌をつくって民衆に呼びかけた山東の王薄(おうはく)をはじめ、至る所に逃亡者集団が生まれ、勢力数万に及ぶものもあり、地方官府のすきをねらって略奪行動に出た。この情勢は関中・江南にも広がるが、613年には大官楊素の子玄感が礼部尚書という高官の身で役民を結集して黎陽(れいよう)倉に挙兵した。これは数か月で鎮圧されたが、煬帝の独裁政治に抗する貴族の反乱として重大な意味をもつ事件で、これをきっかけに内乱情勢は民衆レベルの反抗から支配層を巻き込んだ隋朝打倒を目ざす内戦へ発展した。それはまた、いわゆる中原(ちゅうげん)に鹿(しか)を逐(お)う次期政権争奪戦の意味も内包していた。楊玄感の部下で再起を図る李密(りみつ)、南朝帝室の後裔蕭銑(こうえいしょうせん)、東都洛陽の守将王世充、河北の群盗を結集した竇建徳(とうけんとく)などがその他大小の勢力とともに覇権を争ったが、勝利の果実は太原方面の鎮守を命ぜられた李淵(りえん)の手に落ちた。淵は建成、世民らの諸子と挙兵して長安を占領し、煬帝の孫代王侑(ゆう)を皇帝にいただいたが(恭帝)、煬帝が江都で親衛隊の手によって殺されると、侑を廃して唐朝を建てた(618)。翌619年王世充もその擁立する楊侗(とう)を廃して自ら即位したので、隋の皇統はここに完全に絶えた。
[谷川道雄]
隋代の文化
隋が南北両朝を統一したことは、その文化を大いに特色づけた。儒学は南北ともに訓詁(くんこ)学の時代であるが、北学は後漢(ごかん)の鄭玄(じょうげん)の注を用いて質朴、南学は魏晋の説を承(う)けて華麗で、それぞれ学風を異にした。隋の統一後は南学が北方に流入して、大きな影響を与えた。仏教は、北周の末、武帝の廃仏政策が撤廃されたが、隋代になると、文帝は仏教保護政策をとり、煬帝も仏教を篤信したので、仏教界は生気を取り戻して興隆した。文帝は大興城に大興善寺を置いて全国仏教の本拠とし、諸州には舎利塔を建設した。なお道教に対しては、大興善寺に対応するものとして玄都観を設けた。煬帝は陳朝平定のため江南に赴いたとき、揚州に四道場(二仏寺・二道観)を設け、江南の道仏両教界から僧侶(そうりょ)・道士を招いた。これを契機に江南仏教の北方流入が盛況となった。隋代に栄えた三論宗の吉蔵(嘉祥(かしょう)大師)、天台宗の智顗(ちぎ)(天台大師)などはいずれも江南の出身で、煬帝の知遇を得て教勢を張った。そのほか北方系の三階教が末法思想に拠(よ)っておこり、一時朝廷の保護を受けたが、のち禁圧された。仏像彫刻も南北の様式を統合して唐朝様式への過渡期をなしたと考えられるが、資料のうえで確実ではない。そのほか、煬帝は西方伝来の散楽(サーカス、手品など)を好み、南北朝に仕えた楽工の子弟を徴用してこれを洛陽に集め、突厥の啓民可汗が入朝したとき一大パレードを繰り広げた。
[谷川道雄]
『布目潮渢・栗原益男著『中国の歴史4 隋唐帝国』(1974・講談社)』▽『谷川道雄著『新書東洋史2 世界帝国の形成』(講談社現代新書)』▽『谷川道雄著『隋唐帝国形成史論』(1971・筑摩書房)』