阿倍野(読み)アベノ

デジタル大辞泉 「阿倍野」の意味・読み・例文・類語

あべの【阿倍野/阿部野】

大阪市南部の区名。昔の熊野街道に沿う。南部の北畠北畠顕家きたばたけあきいえ戦死の地といわれる。阿部野橋駅は天王寺駅とともに同市の南玄関をなす。区名は「阿倍野」と書く。

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日本歴史地名大系 「阿倍野」の解説

阿倍野
あべの

現阿倍野区から住吉区にわたる上町うえまち台地南部一帯の古代からの広域地名。南北約四キロ・東西約二キロ。阿部野・安倍(部)野とも記す。付近には茶臼山ちやうすやま古墳(現天王寺区)帝塚山てづかやま古墳(現住吉区)などがある。推古朝に造られた難波と大和飛鳥を結ぶ大道が、ここを縦貫して南の大津おおつ(長尾街道)丹比たじひ(竹内街道)に連絡、北は難波なにわ(跡地は現東区)に続いていた。アベノの称については古代氏族阿倍氏の居地によるとする説、「和名抄東生ひがしなり・住吉両郡の余戸あまりべ郷に関係があるという説などがあるが確証はない。阿倍氏は付近に阿倍寺を創建したといわれ、阿倍寺千軒の称が伝えられ、陰陽家安倍晴明の誕生地という所伝もある。また「万葉集」巻三、山部赤人の歌に

<資料は省略されています>

があり、「阿倍の島」を当地とみる説もある。

院政期には、四天王寺(現天王寺区)付近から当地を経て和泉紀伊へと通じる熊野街道の発達がめざましく、熊野参詣の沿道に成立したいわゆる熊野九十九王子の第二王子である阿倍野王子が設けられた。

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改訂新版 世界大百科事典 「阿倍野」の意味・わかりやすい解説

阿倍野 (あべの)

大阪市南部の上町(うえまち)台地に位置し,大阪の南の玄関をなす中心街区。江戸時代には大坂三郷(おおさかさんごう)町はずれの綿作農村であったが,1889年大阪鉄道(現,JR関西本線)天王寺駅が開設されて以来,人口急増による大阪市街地拡張の波をこの地域が最初にうけ,住宅,学校,病院などの開発が多くの鉄道線開通とともに進み,急激な都市化をみた。現在はJRの大阪環状線,関西本線,阪和線,近鉄南大阪線,阪堺電気軌道上町線,地下鉄御堂筋線,谷町線の集中する大ターミナルで,天王寺ステーションビル,アベノ橋地下センター,近鉄百貨店などが立地して中心商店街を構成している。天王寺駅北側には天王寺公園,動物園,美術館,図書館などがある。
執筆者:

古くは院政期に熊野参詣古道の駅の一つとしてその名がみえ,熊野社の遥拝所として阿部野王子(現,阿倍王子神社)があった。南北朝初期の1338年(延元3・暦応1)陸奥から東上した南朝方の北畠顕家が破竹の勢いで青野ヶ原に迫り,桃井直常の奮戦で京都進入をくい止められ,奈良を経て石津で北朝方と激戦を展開,ついに敗死した。当地に阿部野神社がある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿倍野」の意味・わかりやすい解説

阿倍野
あべの

大阪市南部、阿倍野区の北部地域。阿部野とも書く。洪積層の上町(うえまち)台地上にあり、標高約10メートル程度。台地の稜線(りょうせん)沿いに通る阿倍野街道は、中世の熊野街道に該当し、難波(なにわ)(大阪)と紀伊熊野を結ぶ通路として重視され、沿道には伝説地や史跡が多い。なかでも松虫(まつむし)塚、小町(こまち)塚、播磨(はりま)塚や阿倍王子神社、安倍晴明神社(あべのせいめいじんじゃ)、北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕家(あきいえ)を祀(まつ)る阿部野神社は有名。明治初期までは大阪南郊の農地で、一帯はソバの栽培が盛んであった。1889年(明治22)大阪鉄道(現、JR関西本線)が通じ、北部の天王寺区との区境に天王寺駅が設けられ、1900年(明治33)大阪馬車鉄道(1910年電化。現、阪堺(はんかい)電気軌道上町線(うえまちせん))が同駅から台地上に敷設されてから、沿線の住宅開発が進み、市の代表的住宅地となった。さらに1923年(大正12)大阪鉄道(現、近畿日本鉄道南大阪線)のターミナルとして現在の大阪阿部野橋駅が設けられ、JR天王寺駅とともに大阪市南部の玄関口となった。大阪市高速電気軌道(地下鉄)谷町線(たにまちせん)の阿倍野駅もあり、付近一帯はターミナル商店街をなし、副都心を形成している。

[位野木壽一]

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