長寿寺(読み)ちょうじゅじ

精選版 日本国語大辞典 「長寿寺」の意味・読み・例文・類語

ちょうじゅ‐じ チャウジュ‥【長寿寺】

滋賀県湖南市にある天台宗の寺。山号は阿星山。天平年間(七二九‐七四九聖武天皇の勅願により良弁(ろうべん)が創建。現在の本堂は鎌倉時代のもので国宝。同町の常楽寺を西寺と呼ぶのに対し、東寺という。

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日本歴史地名大系 「長寿寺」の解説

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]石部町東寺

阿星あぼし山の北麓に位置する天台宗の古刹。西方に位置する常楽じようらく寺と同じく、阿星山と号する。常楽寺と当寺は対になっているといってもよく、常楽寺を西にし寺というのに対し、東寺とも称される。古くは阿星山中にも寺が営まれていたという。本尊は秘仏で、天台宗の古寺にはめずらしく地蔵菩薩像を祀る。寺伝によると、聖武天皇が皇子誕生の祈願を発し、良弁が阿星山中に籠って祈願したところ、まもなく皇子の誕生をみたという。これによって天皇は阿星山の麓に七堂伽藍と二四の僧坊を建立し、地蔵菩薩像を安置したといい、同像は行基に命じて造らせたとも伝える。この伝承から本尊は子安地蔵ともよばれ、広く庶民の信仰を集めている。

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]鎌倉市山ノ内

建長寺の西、亀谷かめがやつ坂の北口の上にある。臨済宗建長寺派、宝亀山と号する。本尊観音菩薩。

「古先和尚行状」には延文三年(一三五八)足利基氏が創建、古先印元を開山に迎えたとある。同年足利尊氏が没しており、当寺創建も尊氏の菩提を弔うためといわれる。しかし建武三年(一三三六)八月二九日、尊氏は当寺を諸山に列する御教書(県史三)を出しており、創建時期については問題が残る。応安元年(一三六八)四月には足利義詮の遺骨分納を望むが、認められていない(空華日用工夫略集)

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]萩市大字北古萩町

米屋こめや町北の突当りに位置し、東隣は広雲こううん寺、西に多越たお神社がある。山門・本堂ともに南面。浄土宗西山禅林寺派。涼松山と号し、本尊は阿弥陀如来

慶長九年(一六〇四)毛利輝元の萩入城に際し、山口長寿寺四世一空求欣が当地に一宇を建立、隠居所としたことに始まるという。山口長寿寺は、慶長一一年、一説に同一九年、創建され一空求欣が開山となった。享保年間(一七一六―三六)現在の本堂を再建、明治一八年(一八八五)長寿寺の西方にあった護念ごねん寺と浜崎新はまさきしん町にあった松厳しようごん寺の両末寺を合併した。

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]富合町木原

雁回がんかい山麓の微高地にあり、山号は雁回山、院号を尊乗院といい、天台宗。本尊を不動明王(木像一躯、立像)とするところから、木原きはら不動尊の愛称で親しまれている。縁起によれば、延暦年間(七八二―八〇六)に伝教大師(最澄)の開基と伝え、西国第一の談義所であったとする。その後、源為朝や源頼朝によって、寺領(田地一八町)が寄進され、祈祷所として再興、天正年間(一五七三―九二)焼失・退転したが、加藤清正の時に三度興立したと述べる。開基年代・開山、その後の記録については不明な点が多い。

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]美保関町片江

片江かたえ湾を見下ろす丘上に位置する。合海山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。永禄元年(一五五八)僧貞睦が島根郡邑生おう(現松江市)の曹洞宗清安せいあん寺の末寺として開いたといい(郡村誌)方結かたえ神社の神宮寺であった。寺領は毛利・吉川・堀尾時代が五石前で、寛永一五年(一六三八)永否川成以下を差引き、米三石となったという。元禄一〇年(一六九七)には三石六斗。境内に薬師堂と毘沙門堂があり、庵室として阿弥陀堂がある。毘沙門堂は土蔵造で、尼子経久の守本尊と伝える毘沙門像が安置されている。

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]幡豆町西幡豆 小野ヶ谷橋下

さん小野おの登山口近くにある。俗に紅葉もみじ寺という。願王山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊地蔵菩薩。尼寺である。長寿尼ちようじゆに寺とも称す。もと西尾市巨海こみ町にあったものを移転したという。旧長寿尼寺は「三河国二葉松」に「寺領六石 承久年中足利義氏建立尼寺」と記す。「西尾草創伝」は「長寿尼寺は長氏夫人の墓地也」とあり、吉良氏二代長氏の夫人、覚了院本成大姉を開基とするという。

長寿寺
ちようじゆじ

[現在地名]緑区大高町 鷲津山

鷲津わしづ山の山麓にある。鷲頭山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は阿弥陀如来。初めは真言宗に属し長祐ちようゆう寺と称していたが、永禄三年(一五六〇)桶狭間おけはざまの戦の折、兵火に遭い焼失した。その後、尾張藩家老志水忠継の母長寿院元操が、寛文七年(一六六七)臨終に際し「鷲頭山の地に禅寺を建立し、わたしの像を安置せば、永く此地を守護せん」と孫の忠時に遺命した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長寿寺」の意味・わかりやすい解説

長寿寺
ちょうじゅじ

滋賀県湖南(こなん)市東寺(ひがしてら)にある天台宗の寺。阿星山(あしょうざん)と号する。本尊は子安(こやす)地蔵尊。1キロメートル離れた常楽(じょうらく)寺を西寺というのに対し東寺とよばれる。標高693メートルの阿星(あぼし)山頂の阿星寺(廃寺)三千坊と称された山麓(さんろく)の中心寺院である。天平(てんぴょう)年中(729~749)聖武(しょうむ)天皇の勅願、良弁(ろうべん)の開基と伝えられ、貞観(じょうがん)年中(859~877)に再興、平安から鎌倉時代にかけて皇室や武門の帰依(きえ)を受け、源頼朝(よりとも)や足利(あしかが)将軍が修造営したと伝える。鎌倉初期建造の本堂(国宝)には春日厨子(かすがずし)があり、秘仏の本尊を安置し、左右に丈六阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)、釈迦(しゃか)如来坐像(以上3体は国の重要文化財)を安置する。このほか室町期の弁天堂、十六羅漢図(伝顔輝(がんき)筆)などが国の重要文化財に指定されている。

[塩入良道]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長寿寺」の意味・わかりやすい解説

長寿寺
ちょうじゅじ

滋賀県湖南市にある天台宗の寺。天平年間 (729~749) ,良弁 (ろうべん) の創立といわれる。同市にある常楽寺を西寺というのに対し,東寺と呼ばれる。本堂は鎌倉時代初期の建造で国宝。礼堂の天井を寄棟形とし,密教本堂形式の成立過程を示している。

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