山之内村(読み)やまのうちむら

日本歴史地名大系 「山之内村」の解説

山之内村
やまのうちむら

[現在地名]夢前町山之内

夢前川最上流域の雪彦せつぴこ山南麓に位置し、小集落が分立する。南は新庄しんじよう村。山内やまのうち村とも記された(「寛文朱印留」など)。領知目録類では山之内村一村であるが、数村に分けて把握されることもあった。慶長国絵図には「せつひこ」(雪彦)・「くまべ」(熊部)・「さなか(佐中)・「あひこ」(我孫子)・「おくら」(小畑の誤記)・「吉田」「馬の頭」「寺河村」「たちやう野」(立船野村)みえる。慶長六年(一六〇一)の山之内村小畑分検地帳(大善寺文書)が残り、高九九石余。

山之内村
やまのうちむら

[現在地名]重信町山之内

町の北部、重信川上流域を占める広大な山村。村の北東の東三方ひがしさんぽうもり(一二三二・七メートル)越智おち玉川たまがわ町・周桑しゆうそう丹原たんばら町との、北の白潰しらつえ(一一五六メートル)越智郡玉川町・松山市との、北西明神みようじんもり(一二一六・九メートル)福見ふくみ(一〇五三メートル)は松山市とのそれぞれ境界線上にそびえている。流路三六キロの重信川は源を東三方ヶ森の麓に発し、村の中央を西流して多くの支流を集め、流路を南にとり字大畑おおばたけ平地に出、ここを扇頂としてみごとな扇状地を形成している。

山之内村
やまのうちむら

[現在地名]住吉区山之内一―五丁目・山之内元やまのうちもと町・我孫子あびこ五丁目など

我孫子村の南に位置し、南は大和川。村名の由来はかつては浅香あさか丘の裾端に位置していたことによるという。「摂陽群談」や「摂津志」は山内村と記す。京都大学蔵「兵範記」仁安二年(一一六七)二月巻の裏文書である某書状や「台記別記」仁平三年(一一五三)八月八日条などにみえる山内庄を当地に比定する説があるが確かでない。嘉慶二年(一三八八)三月五日の守護山名氏清奉行人連署奉書(離宮八幡宮文書)に、我孫子とともにみえる山内は当地のことであろう(→我孫子村。文禄三年(一五九四)六月一日の摂津欠郡蔵入目録(称念寺文書)には「住吉郷之内山内」とみえ、蔵入高一二〇石余、同年一〇月一七日の摂津欠郡蔵入目録(同文書)には「五ケ庄内山之内村」とみえ、蔵入高四五八・七一石。

山之内村
やまのうちむら

[現在地名]鎌倉市山ノ内

柏尾かしお川支流の山之内川がつくった谷間の奥で、巨福呂こぶくろ坂や亀谷かめがやつ坂を越えれば、南東は雪下ゆきのした村、南はおうぎやつ村に達する。東は西御門にしみかど村、北は今泉いまいずみ村・大船おおふな村・小袋谷こぶくろや村、西はだい村・山崎やまざき村・梶原かじわら村と接する。かつての山内庄の一部で、中世の鎌倉に隣接しており、建長寺・円覚寺などが建設された地域に山内の呼称が固定したものである(横浜市の→山内庄

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報