〈野臥〉とも書き〈ノブセリ〉ともいう。鎌倉末期から南北朝期に畿内・近国におこり全国に広がった,地侍や農民の武装集団。当時の有力農民は太閤検地や刀狩で兵農分離させられた近世農民と異なってかなりの武具類を保持し,勢力の大きなものは殿原(とのばら)層として領主化をめざしていた。領主にとって野伏を無視して戦いを遂行することは,南北朝以後ほとんど不可能になっていた。1333年(元弘3)1月楠木正成が摂津天王寺で宇都宮公綱(きんつな)と合戦した際には,〈和泉・河内ノ野伏共ヲ四五千人駈(かり)集テ〉(《太平記》巻六)いる。正成が関東の大軍を前にして不死鳥のごとく赤坂城,千早城で戦いえたのも,土地の地理に明るくゲリラ戦を得意とする野伏を組織していたためで,現体制に不満を有する農民層の支持を得ていたからである。野伏は強力な主従制を紐帯とするそれまでの武士と異なり,一度形勢が不利になり戦闘がみずからの利害と一致しなくなると,すぐさま戦列から脱落し敵側に寝返る場合もあった。そして戦闘のあとでは敗軍を襲撃し,資財・武器などを略奪することを常としていた。京都で敗れ鎌倉へ落ちようとした鎌倉幕府の2人の六波羅探題も野伏によって行く手を閉ざされ,北条時益(ときます)は頸を射抜かれ,北条仲時は伊吹山のふもとで自害した。播磨の守護赤松氏は1361年(正平16・康安1)に同国東寺領矢野荘に野伏役をかけ,兵員の確保をねらった。応仁の乱ではますます野伏の比重が大きくなり,入京した細川氏の家臣摂津の池田氏の軍は騎馬武者12騎と野伏1000人で構成されていたほどで,戦法も騎馬による一騎打ち戦術から集団歩兵戦術に変わり,歩兵のための槍やそりの浅い太刀が出現し,甲冑も大鎧がすたれ軽量な具足が作られるなど,野伏の出現は戦闘形態,武器などに大きな影響を与えた。
なおこの語は他に,合戦前の小ぜりあいを指す場合(《日葡辞書》)や〈野ぶし山伏とも出家を云なり,出家は野にふし山にふすが本意なる故なり〉(《屠竜工随筆(とりようこうずいひつ)》)とあるように,山野で修行する出家者を指す場合もある。
執筆者:大石 雅章
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南北朝~室町時代の武装農民集団。「野臥」とも書き、「のぶせり」ともいう。『太平記(たいへいき)』に六波羅(ろくはら)探題北条仲時(なかとき)・時益(ときます)が近江(おうみ)で野伏に囲まれて討ち死にしたとあるように、敗軍の将兵を襲って武器などを奪う土民をいったが、守護大名や国人は農民を徴発して伏兵、追撃などに用いたので、臨時に戦闘の補助員とされた武装農民をも野伏というようになった。応仁(おうにん)の乱(1467~77)の勃発(ぼっぱつ)にあたって東軍に参加した摂津の国人池田充正(みつまさ)が、騎馬武者12騎で野伏1000人ばかりを率いて入京したのは一例である。蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)が野伏の頭目であったというのは後世の作り話としても、戦国期に集団戦の発達につれて野伏軍(いくさ)という武装農民を用いる戦闘がますます盛んになったことは事実である。しかし太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)が行われて兵農分離が完成するとともに野伏は消滅した。
[小川 信]
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