日本大百科全書(ニッポニカ) 「采女(女官)」の意味・わかりやすい解説
采女(女官)
うねめ
宮中において天皇に近侍し、主として炊事や食事などをつかさどった下級女官。「うねべ」とも読み、とも書く。采女の字は中国後宮の制に倣ったものであるが、「うねめ」の語義については「うなゐめ」すなわち処女の意、「氏之女」の転じたものなど諸説がある。大化前代から記紀にその名がみえ、大和(やまと)朝廷が地方豪族に服属の証(あかし)として子女を貢上させ、宮中に仕えさせていたことが知られる。大化改新の際これを継承して、郡を貢進の単位として少領(しょうりょう)以上の郡司の姉妹や女(むすめ)のうち容姿端麗な者を後宮に貢上させることを定めたが、その後令(りょう)制で制度として確立した。令の規定では、後宮の水司(もいとりのつかさ)に6人、膳(かしわで)司に60人、縫(ぬい)司などに若干名の采女を置き、宮内省の采女司がこれをつかさどった。采女の資養には庸(よう)と諸国の采女田の地子(じし)があてられ、名前は出身の郡名を冠してよぶのが普通であった。采女は原則として後宮の雑役に従う下級女官であるが、実際には女帝のもとにあって政治に参与したり、天皇の寵(ちょう)を得て子女を産むものなどもあって、奈良時代には女官として重要な位置を占めていた。807年(大同2)にいったん貢上を停止し、813年(弘仁4)以降は国が貢進の単位となって国名を冠して名前をよぶようになり、897年(寛平9)には国別の定員が定められた。その後、宮廷での地位はしだいに低下して廃れたが、陪膳(ばいぜん)采女、髪上(みぐしあげ)采女などは後世まで残り、江戸時代には社家や官人の子女が采女として宮中に奉仕した。
[平田耿二]
『磯貝正義著『郡司及び采女制度の研究』(1978・吉川弘文館)』▽『浅井虎夫著『女官通解』(1906・五車楼)』▽『曽我部静雄著『律令を中心とした日中関係史の研究』(1967・吉川弘文館)』▽『門脇禎二著『采女』(中公新書)』